第12章
穏やかに凪ぐ風





台風の雨のように、容赦なく降り注ぐ太陽の光。コンクリートで敷き詰められた道路に陽炎が立っている。

蒼一色で塗られた空には、夏独特の積乱雲が発生していた。

早朝から延々と鳴り響く蝉時雨に囲まれ、神城ナインはグラウンドで準決勝に向けて、最終調整を行っていた。

「今日も暑くて、私も熱いってか!」


バシィ!


キャッチャーミットを響かせる気持ちの良い音が、ブルペンから響いた。

その球を受ける佐々木真奈も、大変気持ち良さそうな、うっとりしているような、そんな表情だ。

ナイスボール!流石あおいちゃんや!

まあね!今の私なら、松井やイチロー、バース、川上哲治だって打てないんだから!」

一応補足しておく。バースとは、阪神85年Vに献上したあのランディーバースであり、

川上哲治は、選手時代は『打撃の神様』と謳われ、監督としては巨人V9時代をもたらせた、偉大な人物である。

それぞれの時代を担う大打者の名を挙げ、あおいは再び、真奈のミットに150k/mを越す白球を投げ込んだ。

気持ちの良い音がまた響いた。

「調子良さそうだな」

真奈から白球を受け取り、あおいは声のする方へ首だけ向けた。

そこには、ついさきほどフリーバッティングを終えた、結城尚史が夏なのに、涼しそうに立っていた。

「あら結城君。私はいつも絶好調よ」

あおいの額から無数の汗が流れ出てくる。ユニフォームの袖でそれを乱暴に拭い、大きく振りかぶった。

「えいや!」

かけ声と共に、空気を引き裂くようなストレートが真奈のミットに突き刺さった。尚史が短く唸り、軽く手を叩いた。

「少しぐらい疲れてると思ってたが……あと6試合ぐらいは大丈夫そうだな」

今大会あおいは、2回戦(7回1/3)以外を全て完封してきている。さらにこの暑さも加えれば、疲労が溜まっていてもおかしくない。

しかし、今の様子を見れば、その心配も無用のようだが。

「今日も完封して、枕を高くして寝てやるんだから!」

底なしの体力。止まることを知らない元気さ。こうも圧倒されると、不思議と笑いがこみ上げてきてしまう。

「何笑ってんのよ」

目の前にいる彼女が、非常に不愉快な表情を浮かべていた。どうやら本当に笑っていたみたいだ。

とりあえずここは、適当に誤魔化しておく。

「いんや、別に。まあ頑張れ」

そう言って、160cmあるかないかの彼女の頭を軽く撫でてやった。先ほどより、さらに不愉快な表情になる。

だが、さっきより頬が赤いのは、きっと暑さのせいではないと思う。

「いつまでも人の頭撫でてないで、さっさと練習に戻りなさい!警察呼ぶわよ!

彼女にどやされるのも、もはや日常茶飯事のこと。逆にこれがないと、調子が狂ってしまう。

恐らく、向こうも同じことを思っているはずだ。

「警察呼んで困るのはどっちだろうな。俺が捕まったら、準決勝出れないし」

肩をわなわなと震わし、彼女の顔がさらに赤くなる。

怒りで頭に血が昇っているだろうが、当たっていることなので何も言い返せないということだな。流石負けず嫌い……?

「何か忘れてるような……」

あおいちゃんをからかいに来たのではなく、別に用事があったはず。何かとても大事な……。

「まあいいか」

いいわけあるかぼけー!!

拡声器にも劣らない怒声が、脳髄の奥にまで浸透し、耳の鼓膜を破られそうになる。おかげで何の用事か思い出せた。

「あ……あおいちゃん……君にお客……」

耳が痛い。頭の中で鐘が響いてやがる。普段、あおいちゃんの怒声を聞き慣れている俺でも、今のはかなり効いた。

あおいちゃんも耳塞いで唸ってるし、佐々木妹なんか目を回して倒れていやがる。

ふらつきながらも、目の前にいるお客さんに彼女が用件を訊ねる。

「何か……用?くだらないことだったら、顔歪めるわよ」

……冗談ではない。本気で言ってる。胸に七つの傷を持つ男ですら死を覚悟させるその殺気。

井戸から出てきて、呪いをかけてくる長髪の女性ですら、裸足で逃げ出すだろうと思われるその表情。

某有名な漫画のハッパ男も真っ青なドスの利いた声。まず彼女に対抗できる奴はいない。

「歪めれるならやってみなさいよ!Aカップのブラすらつけれるかどうが疑わしい、超貧乳のくせに!」

前言撤回。今そこにいました。しかも、超爆弾発言のおまけつきで。もう誰も止められないな、これは。

な、何ですって!あんただってそんだけでかかったら、もう垂れてるんじゃないの!?ああ辛いわね、巨乳って!」

言ったわね!超童顔のくせに!本当は中学生なんじゃないの!?」

中学生であんな速い球は投げれないから。まあ確かに中学生に見えるけど。……訂正するから、睨まないで、あおいちゃん。

「童顔で結構よ!老けなくて済みそうだし!あなたなんか、OLとか女大生かなんかに間違われてんじゃないの!?

これだから老けてるって嫌ね!」

……もう帰っていいか。いや、本当に。俺はこんな小学生以下の喧嘩を見に来たわけじゃないし。

何さ!

何よ!

彼女と客人の間に火花が散っている。2人は睨み合ったまま、動こうともしない。

危険なのは承知だが、いい加減練習の邪魔なので、止めることにする。

「は」

はい、そこまで。その言葉のまだ1文字目しか言ってないところで、誰かに袖を引っ張られていることに気がついた。

予想(妄想)では、か弱い少女が、「行っちゃやだ」と凄く切なそうな眼で訴えかけ、

そして袖を引っ張る力は小さいが、ぎゅっと握っていて……とまあそんな感じ。

「(最近、想像(妄想)が逞しくなってる気がする……)」

誰にも迷惑をかけてないのでまだいいが、それでもかなり自分に何かの危険信号が点灯し始めているのは判る。

……とにかく、誰なのか確認だ。

「だれ……」

言葉を失いました。ええ、しっかりと。いやだって……。

「その通り……」

俺の首にも届かない小柄な身長。人形のように整った顔立ち。

ストレートの強くかかった長い髪が、少女の額に吸いつくように流れ、薄い赤色のヘアピンで止められていた。

俺に何かを訴えかけてくる瞳は、雲に隠れてしまった月のように、輝きをまったく放っていない。

だが、黒く湛えられたそれは、全てを見透かしているような気がしてならない。

「あぅ……」

か細く、今にも消えそうな弱々しい声。だが、夜の清流のせせらぎが響く川よりも透き通っていた。

「止めたら……お姉ちゃんに怒られるよ……」

お姉ちゃん。恐らく、客人の妹なのだろう。しかし……。

「(可愛い……)」

ロリコン(自信なし)じゃないが、これは本当にお持ち帰りしたい。家で、猫耳・鈴・尻尾をつけてやりたいぐらいだ。

「何しとんじゃ……」

「ああ、監督」

小太りで、白髪で、顎髭を無駄に生やしている爺さん。名前は今井俊彦。

昔は、広島カープの大エースで、凄くモテたらしい。とりあえず、状況説明だな。

「実はですね……」

手短に内容を伝えると、監督は大きなため息をついた。

酒なのか、煙草なのか、スルメなのか、よく判らない臭いが鼻孔を強く刺激する。何を食ったんだ、この人は。

「用件があって来たはずなのに、その前に喧嘩してどうするんじゃ……。ワシがなんとかするから、お前は練習しよれ」

そう言って、修羅場に歩み寄っていく監督。とりあえず、静まってくれることを祈ろう。

「さて……」

この娘はどうしようか。いつまでも後ろに隠れられていても困るし。

「(しかし……)」

ちらっと薄幸の少女に眼をやった。何が怖いのか、体を少し震わせている。

それがさらに可愛く、そして儚く感じさせる。どこぞの客人とはえらい違いだ。

「あぅ……恥ずかしいよ……」

こちらに気づいたのか、頬をほんのり赤く染め、首ごと視線を反らした。恥ずかしいなら、何で俺にくっつく……。

「あいに頼むか……」

「この娘を預かればいいんですね?」

ひょこっと顔を覗かせ、あいが少女の手を取った。いや、それよりも……。

「忍者か、お前は」

薄幸の少女にも言えるが、どうやったら気配を感じさすことなく、人に近づけるのだろうか。

そんな疑問をあいにぶつけてみる。

「それはですね……」

指を唇に当て、ニコッと微笑むあい。夏の太陽ですら、あいの前では霞んでしまいそうだ。

考えてみれば、俺はいつもこの笑顔に救われ、

「私が一条あいだからです」

幾度となく騙され、はぐらかされてきた。そして今回も……。

「(はぐらかされた……)」

1年のときから数えて、恐らくこれで108回目となる。こうなると、ため息すら出ない。

「ぅぅ……」

尚史がうなだれている中、薄幸の少女は、誰にも気づかれない程度に小さく頷いていた。









陽炎でゆらゆらと揺れる、高く固められた甲子園のマウンド。

両チームのブラスバンドや応援しに来た学生達によって、熱気の沸き上がるスタンド。

しかし、今は影を潜めている。あと1分もしないうちに、火山噴火のように爆発するだろうが。

両校!互いに礼!

お願いしまーす!!

時刻は1時。地面をも揺るがすような歓声に包まれ、2つのチームの、2人の対決が始まった。




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