どうしてこうなってしまったのだろう。何故自分でなければならなかったのだろう。
頭の中で考えれば、一瞬にして答えが出てしまうのが酷く空しく、目の前に広がる現実に、ため息すら出ない。
「このオーダーはないでしょ……あの爺」
今回の試合は先行。本来なら、自分はまだベンチでヘルメットを被って、ゆっくり座っていられるはずだった。
しかし、今日は違った。おすぎとピーコぐらい違った。
「僕はピッチャーなんだよ……。なのにあの爺……」
それは今から数時間前に遡る。ちょうど、球場入り前の練習のことだった。
「話は結城から聞いた。本当に……ようそんな下らんことで喧嘩出来るもんじゃ」
ため息混じりに俊彦が言った。だが二人は黙ってはいるが、互いに睨み合っている。俊彦の言葉は、あまり届いていないようだ。
「喧嘩の続きなら、甲子園でせい。ワシがそうできるように、打順を変えておくから」
「え?」
「確かにありがたいけど……」
審判の腕が上がる。サイレンが響き、甲子園が熱狂に包まれる。
「何も、私を1番にしなくてもいいでしょうが!」
あおいの怒声は空しくも、2つの音によってかき消されたのだった……。
「(まあ確かに、このオーダーはどうかと思うな。……両方に言えることだけど)」
ヘルメットをかぶり、ネクストバッターサークルにどっかりと座り込んでいる尚史。
普段なら、あおいと同じようにベンチでいれるはずなのだが、俊彦の変更されたオーダーの被害を彼もまた、受けていたのだ。
これがそのスターティングメンバーである。
先攻:神城高校(徳島)
1番:一条 あおい(投)
2番:結城 尚史 (三)
3番:川上 理奈 (中)
4番:佐々木 真奈(捕)
5番:佐々木 守 (一)
6番:高橋 京介 (二)
7番:和木 光夜 (左)
8番:篠原 義弘 (遊)
9番:黒崎 柊二 (右)
後攻:横浜南第一高校(横浜)
1番:夏目 凪 (投)
2番:札付 要 (右)
3番:花村 伸郎(捕)
4番:金沢 亮一(中)
5番:赤松 輝 (一)
6番:白井 浩治(左)
7番:斉藤 努 (三)
8番:本越 光男(二)
9番:社 志紀 (遊)
「(まさか、向こうのチームも1番に置くとはな)」
1つ違うと言えば、3番の社が9番に入っていることぐらいか。俺たちはそのままでいけるが、向こうは4番が1番に入っている。
つまり、3番と4番のコンビを崩したくなかったのだろう。
「(しかしまあ……姉貴とはえらい違いだな)」
姉貴。夏目という名字を聞けば、あの人物の名が必ず出てくる。
現在、セ・リーグダントツ最下位のローカルズで、唯一の防御率2点台&高卒ルーキー9勝。
女性ながら、ローカルズのエースといっても、もはや過言ではないあの選手が。
「(子供っぽいとこもあったけど、かなり温厚な人だった……)」
何よりも美人だった。……関係ないこと思い出して悪かったから、俺を重圧するような殺気を放たないで、あおいちゃん。
てか、何で考えてることが判る……。
「(いや確かに、私達が悪いけどさ……)」
私を4番に置くのでが普通ではないのか。ピッチャーなので、1番では色々と負担が大きそうなのだが……。
「(なんだかなぁ……)」
ぶつくさ文句を言っても、今更どうにもならない。自分のやったことに後悔感を覚えながら、あおいはやる気なさそうに構えた。
「やっと来たわね……」
……マウンドの女の子が勝手に語り始めたよ。ちなみに、僕は待ちわびてないから。
「去年は辛かったわ。ライバルであるあなたと対決出来なくて。まさか、大会前に牛乳でお腹を壊すなんて思わなかったから」
知らないよ、そんなの。単に、自分が間抜けなだけじゃないか。
こう一方的にライバル視されると、燃え上がるものも燃え上がらなくなる。今なら何言われても、軽く流せる気が……
「いくわよ!まな板ピッチャー!」
「なっ!」
しない。今の一言で、冷めきっていた闘志が、一気に燃え上がってきた。腕にも力が入る。
「(怒ってる怒ってる。今のカッカした状態なら、ボール球だけで十分よ)」
コースは外角低め。左投手が左打者に投じる球は、外から外へ逃げていくため、打ちづらい。
ましてや、140k/mを越える球なら捉えても、せいぜいヒットで済む。
「(これが岩鬼だったら、軽くスタンドなんだろうけど)」
夏目が大きくゆっくり振りかぶる。しかしそこから、足を素早く上げ、大きく前へ踏み出した。
天に向かって伸ばされた腕が太陽によって、美しく輝く。
「(あんたに勝って……)」
その腕を鉞のように振り下ろし、白球を投じた。18.44mの空間内の風を破り、グラウンドの土を巻き上げる。
「(私達は再び栄光に輝く!)」
白球は寸分の狂いもなく、ボール1個分外れた外角低めを突き進む。
積極的なバッターでも、流石にこれは見逃すだろう。これが一条あおいでなければだが。
「まな板を馬鹿にするなー!」
あおいの得意なコースは外角低め。
まな板と馬鹿にされ、ストライク・ボールの判断がつかなくなったキレたあおいが、このコースに手を出さないわけがない。
「いけぇぇぇ!!」
(ガキィ!)
打球はレフトへ高々と上がった。ストライクゾーンの判断能力は失っても、体は自然と反応し、
無理に逆らわず、流れるように打ち返していた。その証拠に、体はレフトへ向いている。腰も大きく回っていない。
「うっ……」
レフトは定位置に突っ立っていた。打球はポール掠め、スタンドの奥に消えていった。
バットを乱暴に放り投げ、鼻息荒く、ゆっくりと歩き始める。
「技あり(?)の一打は、そのままスタンドだーー!!
先頭打者ホームランが飛び出しました!神城高校、1点先制!」
ホームラン率の低い外角低め。さらには140k/mを越えるストレート。何より、1個分外れていた。
どう考えても、バットの先に当たって、力のない打球になるはずである。
それをライナーでスタンドに持っていったから、夏目としては堪らない。
マウンドの土を蹴り上げ、悠々とホームに帰ってくるあおいを睨んだ。
「2番 サード 結城君。背番号5」
バットを肩に乗せ、尚史が打席に入った。
3番や5番を打ったことはあっても、リトル時代も合わせて、2番を打ったことはない。流石の尚史も戸惑っていた。
「(……まあランナーもいないことだし、強打で構わんだろうな)」
もしランナーがいたら、監督は送りバントのサインを出してくるだろうか。
……そのときは無視して構わないだろう。バントはあまり好きじゃないし。
「(まず相手の球種を探り出さないと。どこぞのせっかちな1番打者のせいで、夏目の持ち球が判らないからな)」
尚史はバットを短く持ち変え、打席の1番後ろの内角寄りに立った。
少しでも球筋を見極め、際どいところをカットしていく作戦だろう。その尚史の姿に、夏目はさらに怒りを覚えた。
「(本来は4番打者でしょ!バット長く持って、振り回してきなさいよ!5ホーマー男が聞いて呆れるわ!)」
ロージンを力任せに握りしめ、地面に叩きつけた。夏目が大きく振りかぶる。
「(うっ……こいつは)」
ネクストバッターサークルから見ていたときも確かに、妙なフォームだとは思っていた。だが、打席に立ってみると……。
「タイミングが取りづらい……」
その言葉通り、尚史は内角の速球を見逃した。判定はストライク。夏目の表情が、得意げになる。
「ふふ……やっぱあんたには、タイミングが取りづらいみたいね」
夏目の投法。それは、2代目 Mr.タイガース、村山 実(阪神)。
大卒選手としては、唯一の200勝投手であり、2000奪三振も記録している。
1959年に行われた天覧試合で、長嶋茂雄(巨人)にサヨナラ本塁打を打たれたのは、今も伝説となっている。
「(長嶋と村山は、互いに認め合うライバルだった。でも王は違った)」
長嶋と村山の対戦成績は、打率.281、本塁打21、打点41。ほぼ互角の成績を残している。
だが王と村山はの対戦成績は、打率.243と完全に抑え込まれている。
王は左バッターで、村山は右ピッチャーだ。なのに何故打てなかったのか。理由はフォームにある。
「(まずタイミングを測らないとな……)」
足場を固め、尚史が構える。怪しげな笑みを浮かべ、夏目は大きく振りかぶった。
「(無駄よ。あなたには打てない)」
ゆっくりと足を引き上げる。上体を僅かに沈ませ、腕を後ろへ巻き上げた。プレートを強く蹴り上げ、右足を大きく踏み出す。
「(うっ……)」
巻き上げた左腕を空高く伸ばし、地面に向けて思い切り振り下ろした。
顔が正面ではなく、斜め下を向いている。まさに、大地を掃くようなフォーム。
「(駄目だ。豪快なうえに、球の出どこが判りにくい)」
尚史が思ったことが、その答えである。奇しくも尚史は右打者で、夏目は左投手であり、王・村山とは逆なだけだ。
レベルにもよるが、右打者と左投手、または左打者と右投手では、打者有利である。
一般的に打ちにくいのは、外から外へ逃げる球。だが、上の例にはまずそれがない。
例え外角に投げたとしても、球筋は内から外へ……となる。
苦手な投手があまりいなかった王でもこれほど打てなかったのは、やはりその豪快なフォーム、そして村山の気迫だ。
「クッ!」
(バシィ!)
「ストライクツー!」
バットの上を球が通過した完全な振り遅れ。タイミングがまったく合ってない。もちろん、夏目がそれに気づかないはずがない。
「(外す必要はないわね。最後はあれで決めてあげるわ)」
夏目は帽子からはみ出た長い髪を掻き揚げた。尚史には余裕を見せつけられてるようにしか思えない。
いつも冷静な尚史でも、これには怒りを覚えた。
「(舐められたもんだ。短く持つ必要はない。スタンドにぶち込んでやるよ)」
小指一本が余るくらいに握り直し、ただ夏目だけを睨んだ。
その夏目がさらに不敵な笑み浮かべ、ボールを掌と親指、小指で支えた。
「(ノブちゃんいくわよ)」
「(あいよ、凪ちゃん)」
ノブちゃんこと、花村伸郎が、ミットをど真ん中に構えた。夏目が威風堂々と振りかぶる。
豪快なフォームから、第3球目を掌で押し出すように投じた。
「(変化球……)」
先ほどとは打って変わって、115k/mほどの緩い球。それが18.44mの空間内を放物線を描くように落ちてくる。
チェンジアップ。まさにそう確信したその刹那。
「!」
ベース手前に差し掛かったとき、ボールがいきなり不規則に揺れ始めたのだ。
こんな異常な変化をする球など、かつて見たことがない。
「クッ!」
まるで風に揺られる葉のように、球はストライクゾーンを通過してくる。三振を避けたい一心で、尚史がバットを出した。
(カン)
飲み物の入れ物の名前と同じ音が小さく響き、サードが顔の前で捕球した。
「(今のはナックルじゃない。まさか……)」
神妙な面もちで悩む尚史に対して、夏目は満面の笑みを浮かべ、Vサインを向けていた。もちろん尚史に。
「さぁて……どんどん来なさい!」
この後、運悪く理奈に内野安打を許すものの、佐々木真奈をセカンドライナーのダブルプレーに打ち取り、この回を終えた。