第14章
気迫の巨峰





「1回の裏、横浜南第一高校の攻撃です。1番 ピッチャー 夏目さん。背番号1」

ウグイス嬢の言葉と共に、元気良くバットを6本ぶん投げ、夏目が左打席に入った。

「い、痛い……。頼むから、バット投げる癖をなんとかしてくれ……」

見事その6本全てが直撃し、鯨の塩噴きにも劣らないほど流血している札付要。

ちなみに彼は、横浜南第一高校のキャプテンである。そんな札付を無視し、夏目は早速、あおいを挑発し始めた。

「まな板だから肩が軽いのか知らないけど、私は150k/m程度じゃ、通用しないわよ!」

「性懲りもなく、またまな板って言ったわね……」

握っていたロージンを地面に力任せに叩きつけ、眼を上弦の月のようにつり上げながら、夏目を睨んだ。

その様子に、佐々木真奈はかなり焦っていた。

「(落ち着いてや、あおいちゃん。んなカッカしたって、余計疲れるだけやで)」

全試合を投げ抜き、ここまで1点も許さない投球をしてきている。

本人が疲れていないと思っていても、やはりどこかにそれは、肉体的にも精神的にも蓄積されているものである。

真奈にとって、今ここでキレられ、余計な疲れを残されるのが怖かった。

幸いにも、この夏目と9番の社、キャプテンの札付以外は、打率2割半ばと大したことない。

この試合を如何に省エネ投球でいけるかが、明日の決勝でのポイントになってくる。

「(とにかく、夏目さんには全力のストレートや。150k/m近い球を打つやなんて、そんな簡単なもんやない)」

真奈は股の下で中指を折り込み、ど真ん中にミットを構えた。

普通は内角に寄ったり、高めに構えたりするものだが、全力投球モードのあおいには、それをやる意味はない。

構えたところへまともに投げられないからだ。

「(出来れば、内角に来て欲しいとこや……。外角やと、あおいちゃんがいっちゃん嫌いなポテンヒットがあるしな)」

そうなれば、さらに冷静さを失うのは眼に見えている。真奈は内角に来るように、ひたすら心の中で祈った。

「(さっきからむかつくのよ……)」

あおいが大きく振りかぶる。まな板のような、いやまな板を目一杯張り、足を上げた。

「(ユニフォームの上からでも充分判る……)」

上体を捻ったあおいの姿は、まさにその投法の名前のごとく、マウンド上に発生した竜巻だった。

同時に、誇り高きエースナンバーの背番号1が夏目に対して露わとなる。

「(その巨峰みたいな胸がね!)」

全神経を左腕に集中させ、限界まで捻った体を、一気に解き放った。

白球にあおいの竜巻の力が加わり、空気を切り裂きながら、夏目の豊かな胸元に抉り込む。

ふん!


(バシィ!)


夏目のバットの上を白球が通り抜け、激しい音と共にミットに突き刺さった。

「(やっぱ速いわね。流石に、選抜優勝投手だけあるわ)」

バットでホームベースを叩き、そしてそれをやや垂直に立てて構えた。

「(嫌みな娘ね。バットをあんなに長く持って。しかもあんなにベース寄りに立って……)」

夏目に多少苛立ちを感じながら、あおいはゆっくり、そして大きく振りかぶった。

「(150k/mは確かに速い。でも……)」

あおいが上体を捻り、再び空気を引き裂くストレート投じた。夏目は右足を引き、それを迎え撃つ。

「(だからこそ打ち甲斐があるのよ!)」


(カッキーン!)


快音と共に、高々と青い空に吸い込まれていく白球。

失速という言葉を忘れたそれは、そのままライトスタンド中段に飛び込んだ。

入った!夏目の先頭打者ホームラーーン!なんということでしょうか!

初回のホームランによる失点を、自らの先頭打者ホームランで取り返しました!1-1の同点です!」

帽子を拾うことさえ忘れて、あおいは呆然とライトスタンドを見ていた。

やってやったというような顔で、夏目が3つの塁を蹴り、本塁へ戻ってきた。

「やられてもうたな……」

打席に残る夏目の足跡。踏み込んだものと思われる跡、軸足、そして踏み込む前の跡が残っている。

これが何を意味するのか、最も近くにいた真奈が理解するには十分だった。

「(内角にヤマを張ったんや。キレたあおいちゃんの球離れが、内角と決めて……)」

内角に寄った……のではなく、そう見せかけていただけ。夏目は右足だけを内角に寄せていたのだ。

前にそのまま踏み込めば、スタンスは自動的に移動され、内角はど真ん中となる。

足を開いて構えるオープンスタンスとは逆の、クローズドスタンスである。

ドンマイ!まだ始まったばっかやで!1点ぐらいどうってことないわ!

グラウンドに真奈の気合いの入った声が響く。その声が耳に入ってからも数秒ほどライトスタンドを見ていたが、

「頭も冴えたし……いきますか!」

いつもの明るさを取り戻し、落ちた帽子を拾い上げた。

「2番 ライト 札付君。背番号9」

「俺も一発放り込むかな」

この後、札付は三振、花村と金沢はピッチャーゴロに終わった。

「出番無し……ですか?」

その通り。

「流血までしたのに、三振で終わるなんて……。他の2人はまだ当ててるのに……」

がっくりと肩を落とし、札付はベンチに帰っていった。









2回。神城、横浜南ともに5番から下位打線に繋がる打順。だが、双方とも2人に完全に抑えられ、無得点に終わった。

続く3回の表。8番の篠原から始まる打順。

よっしゃ!来い!

気合い十分と、バッターボックス内で篠原が燃えていた。

同じように、ネクストバッターサークルでは、黒崎が意気込んでいる。期待は持てそうだが……。

「ファースト!」

流石に夏目の気迫には勝らなかったか、2人は仲良くファーストフライで打ち取られた。

「1番 ピッチャー 一条さん。背番号1」

打順は戻り、1番のあおい。初回に先頭打者ホームランを打っているだけあって、期待が高まる。

「(初球から積極的にいかないとね。待球って、好きじゃないし)」

1番打者とは普通、足が速く、巧打であり、じっくりと見極めることのできる選球眼などが求められる。

これが左打者なら、文句無しである。左打者と巧打(?)は当てはまるが、足も速くなければ、

じっくりと見極めるのが嫌いあおいには、確実に向いていないだろう。実際、尚史がその迷惑を被っている。

タイミングが合わなかったというのもあるが、何の球種があるか判らず、対策が立てられなかったのも事実だ。

「(また来たわね……)」

先ほどのホームランが脳裏によぎり、ボールを持つ左手に自然と力が入る。

こうなると、普通のピッチャーなら普段の力が出なくなるが、夏目の場合は、逆にいつも以上の力が出るのだ。

ちなみにあおいの場合は、球のキレ、速さは増す代わりに、ノーコン度も増すから、ある意味堪らない。

「(まず初球はあれでストライクを取る。積極打法なら、必ず振ってくるはず)」

夏目はグローブの中で、ボールを人差し指と中指で挟んだ。地方大会決勝以来、久しぶりに投げる決め球。

甲子園準決勝とはいえ、この浅い回に、しかも初球から投げることになるとは、予想だにしなかった。

「(本当はプライドが許さないけど、四の五の言ってる場合じゃないしね)」

お腹の前でグローブを構えたまま、夏目は大きく息を吸った。数秒ほど肺にため込み、そしてゆっくりとそれを吐き出した。

気合い十分。それを示すかのように、夏目が元気良く、豪快に振りかぶった。

「(私の本当の球を見せてあげる)」

クスッと不敵に笑う夏目凪。その余裕を表すかのように、自慢の左腕に太陽の光を浴びせ、大きな弧を描くようにしならせた。

リリースポイントに差し掛かったとき、腕を捻り、2本の指でボールを抜いた。

「(やっぱりストレート!)」

第1打席よりスピードは乗っているが、コースが甘い。いくら球威があっても、糸を引くようなど真ん中なら話にならない。

ただし、それが本当にど真ん中ストレートならだが。

「(私が葉っぱ男みたいに、ど真ん中が打てないとでも思って?)」

だがあおいは、完全にストレートと決めつけ、身長とはやや不釣り合いなバットで打ちにいった。

「ふふ……」

やはり夏目は、気味の悪い笑みを浮かべていた。









熱戦が繰り広げられている甲子園だが、その外の世界は、ただ孤独な蝉の声だけが聞こえる静かな時間が流れていた。

特にこの「瑞穂館」という旅館。

世界で1番穏やかで、とうに過ぎてしまった春のように、のんびりとした雰囲気に包まれているようだ。

「あぅあぅ……」

「にゃ〜」

「あぅ……」

「ナゴナゴ……」

「あぅ〜……」

「にゃ〜」

膝を抱えて、白黒の牛と似たような模様の猫の前にちょこんと座る少女。

頬がほんのりと朱に染まっており、黒く湛えられている目は、朝露のついた葉のように瑞々しく潤っていた。

「にゃ〜」

猫が間延びしたような声で鳴いた。その表情は大変穏やかで、年寄り臭く見える。

「あぅ……」

一方少女は、困ったような表情を浮かべていた。潤った目がさらに水っぽくなる。

「あぅあぅ……」

猫が苦手なのだろうか。だがその刹那。少女が

「可愛いよぉ……」

そう言って、猫の喉元を撫で始めた。どうやら今まで、うっとりとしていただけであったようだ。

……顔に出にくいから、判りにくい。

「あぅ〜」

「にゃ〜」

ほんわかして、平和で静かなひととき。

この1人と1匹の世界には、きっと目を凝らせば、輪っかを乗せ、羽をつけた子供達が見えるに違いない。

だが、平和もいずれは終わりが訪れるものである。それを見事にぶち壊したのが、甲子園だった。

一条、空振り三振!ストレートと同じ速さで落としてきました!一条が悔しそうにバットを叩きつけます!

猫が現れたときに消していたはずのテレビが、突如大音量で映像を映し始めた。

少女は肩をビクッと震わせ、後ろを振り向いた。

「やっほー。相変わらず、不思議っ娘さマックスね。てか、凪ちゃん応援しなきゃダメよ。猫と戯れるのも良いけどね」

シャギーの強くかかったショートカット。夏というのに、まるで雪でも塗り込んだように、日焼け一つない白い肌。

満天の星空をそのまま閉じこめたような、黒くて鮮やかな瞳。

端正な顔つきで、美人という言葉が型にはまったような女性、夏目汀が煎餅を口に入れて、にこやかに微笑んでいた。




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