話はあおいの打席に戻る。
「……え?」
あおいは目を疑った。先ほどまで真っ直ぐ突き進んでいた白い球体が、忽然と姿を消したのだ。
今まで見えていたものは、初めから幻だったのかさえ思えた。ターゲットを見失ったバットは、当然激しく空を切った。
判定は当然ストライク。だが、あおいはそんな判定より、ある疑問が頭の中で浮かび上がっていた。
「(ちょっと待って。今の何k/m出てた?)」
あおいはバックスクリーンに映る球速表示を確認した。
白い電光文字で表されるそれは、プロですらあり得ない数値が表示されていた。
「(146k/m!?ストレートとほとんど同じじゃない!)」
あおいのストレートの最高球速は152k/m。スクリューは平均して、ストレートより2、3k/m遅い程度。
絶好調時なら、ストレートと同じ速さで変化する。これだけ凄い球だけあって、もちろん肘への負担は半端なく、
1試合に投げれる数も約6球と決まっている。だからあおいは思った。
「(……驚くことはないわ。こうやってこんな凄い球があると警戒させておくってのが狙いね)」
あれだけ凄い球なのだから、ある程度投げれる数は決まっているはず。
だから、自分はストレートさえ待っていればいい。あおいはそう思い、再び構えた。だが……。
「ストライクツー!」
2球目。先ほどとまったく同じ、ど真ん中。だがストレートに絞っていたあおいは空振り。そして……。
「ストライク!バッターアウト!チェンジ!」
審判の無情な判定の声が響きわたる。夏目がにやっと笑い、あおいは苦虫を噛み潰したような表情で、バットを叩きつけた。
「あおいちゃんが三振……」
この光景は、尚史にも信じ難いものだった。同じ球、同じコースであおいが三振したのは榊さんのとき以来ではないだろうか。
「(しかし見たことがない。ストレートと同じ速さで落ちるなんて。スプリットフィンガーどころでないな)」
だが驚いてばかりいられない。タイミングが合わず、キレのある変化球があるとなると、
悔しいがまず当てることすらままならない。恐らく野球をやってきて、1番苦手と感じていると思う。
「……しかし野球は団体競技だ。1人でどうにもならなくても、2人や3人に手伝ってもらえば、なんとかなる」
その言葉は何を意味指すのか。尚史はチラリとベンチの方を見た。
その先に映るのは、ショートカットでレガースをつけている少女と片側の髪を結った少女2人。
「(あいつらがこの試合の鍵を握る……ことになるはず)」
グラウンドに視線を戻し、尚史はゆっくりと立ち上がった。その刹那、甲子園が割れんばかりの歓声に包まれる。
「……よし!」
充分な気合いを入れ、尚史は
「グローブを取ってこないとな」
と言って、ベンチへ帰っていった。
「ああ〜お茶が美味しい。煎餅も美味しいけど」
ズズーと季節外れの熱いお茶をすすり、夏目汀はほへーと幸せそうな表情を浮かべていた。
「……私のお茶なのに」
「なんか言った?」
汀の言葉に、少女は無言で首を横に振り、猫をぬいぐるみのようにぎゅっと抱きしめた。
猫はにゃーと短く鳴き、特にそのまま何もせずにいた。
「凪ちゃん凄いわね〜。何かもう、闘争心剥き出しっていうか、まさに猛牛ね。バッファロー?」
褒めてるのか馬鹿にしているのかどっちつかずなことを言いつつ、汀は『皆殺し』と書かれた、
渋さを感じさせる湯呑みのお茶をのんびりとすすった。
「……渚ちゃんはどっちが勝つと思う?正直に言ってね。ちなみに私は1点差ぐらいで横浜が勝つと思う」
猫の肉球を触る行為を中断し、渚と呼ばれた少女が顔を上げた。
そして漆黒に塗りつぶされた目を汀に向け、ゆっくりと口を開く。
「……神城」
(カキィ!)
金属バットの快音がグラウンドに鳴り響いた。
白い粉が舞い、緑一色の天然芝の上を白球がワンバウンド、ツーバウンドと跳ねていく。
打ったバッターは猛然と2塁ベースに滑り込み、審判の腕が大きく開いた。
「(なんちゅう素直なバッティングなんや)」
この回先頭バッターは9番の社。前にも説明したが、彼は本来は3番バッターである。
その打撃は真奈も思わず漏らしたように、コースに逆らわず、素直で、ライト方向にもよく打てる、典型的な中距離ヒッター。
この甲子園でも3割5分を越す打率を残している。まさに4番の前を打つ打者にふさわしい。
「1番 ピッチャー 夏目さん。背番号1」
とその後を打つ本来の4番打者がバッターボックスに入った。そしてもちろんのごとく、得意の口撃であおいを煽り始めた。
「やっぱ真剣勝負は、ストレートよね!まさか変化球なんてヤワなの投げないわよね、まな板ちゃん?」
自分が変化球を投げたことはひとまず棚に上げておき、とにかく有利な条件に持ち込むことが先決である。
あんまり口撃という手段は使いたくないのが凪の本心だが、勝つために、背に腹は替えられない。
「コロス……」
案の定、短気なのですぐに引っかかってくれた。
ただその殺気立ち方は、明らかに1打席目とは違う。ぶつけられないかとやや不安になる。
「(あかん!このままやとまずい!)」
「(こいつはまずい……)」
この様子に危機を察した真奈と尚史が、ほぼ同時にタイムを取ろうとした。
「まな板って……」
だが時既に遅し。あおいはランナーがいることも忘れ、大きく振りかぶった。もちろん、その間に社は3塁に向かう。
「言うなー!」
外野にまで響くような怒声とともに、あおいの左腕から白球が投じられた。コースは真ん中高め。
スピードは乗っているが、強打者の夏目にとってはあまりにも甘過ぎる。
もちろん夏目は、この球を舌なめずりしながら、軽々と捉えた。短い金属音が響き、ライトの黒崎の頭上を悠々と越えていく。
「海までとんでけー!」
その言葉の飛距離までは流石に出ないが、それでもライトスタンド中段に大きく飛び込んだ。その距離約130m。
「2打席連発ーー!!夏目の一振りは、一条を粉砕!横浜南、2点勝ち越し!3-1!」
自分の打球がスタンドに飛び込むのを見送り、ようやく夏目がベースを回り始めた。
真奈は落胆した表情で首を横に振り、尚史はため息と一緒に肩を竦めていた。
4本の足で畳の上に根を張り、別に故障しているわけではないのに、
白黒の映像が映し出されているブラウン管のテレビの前で、汀が嬉しそうに手を叩いていた。
「凪ちゃん流石〜。ダテにグラマーなもの持ってないわね〜。渚ちゃんも頑張らないといけないわよ」
汀の言葉に渚の頬が朱に染まる。
「あぅあぅ……。大きくなくたっていいもん……」
その言葉とは裏腹に、自分のまだ発達していない柔らかなものに、困ったように触れていた。
「こんなのって……」
一条あおいの頬に一筋の汗が伝った。それは決して暑いからではない。もちろん、雨が降っているわけでもない。
現在3回の裏。ワンアウト1・2塁。
横浜南第一の勢いに煽られるかのように、ブラスバンドや歓声が雷のように甲子園のスタンドから轟きわたる。
「うっ……」
あおいはこの歓声に耳を塞ぎたくなった。
初めてかもしれない。
こんなにマウンドが怖いと思ったのは。
今までのあおいは確かに怖いもの知らずであった。例えば6月の練習試合。
死四球を連発して満塁になっても、まったく動揺することはなかった。
結局その後は、不運な内野安打だけの1安打完封勝利(球数は161球。死四球は8個と自己最多)を挙げた。
常に全力投球で、幾度の危機乗り切ってきたのだ。だが今回は違う。2番の札付と3番の花村と2者連続四球。
しかも内容が悪過ぎた。ベース手前でのワンバウンドやキャッチャーのミットに届かないような球が8球連続で続いたのだ。
4番の金沢は早打ちをして、1アウトを取れたのは、まだ幸運である。
「落ち着け私……」
胸に手を当て、あおいは両目を閉じた。暗闇の中に、スタンドの歓声だけが聞こえてくる。
「(……よし。やるわよ)」
心の中で何かを決心し、あおいは冬の日の出のようにゆっくりと開いた。
「きゃ……」
瞳に映る目の前の光景に、思わずあおいは小さな悲鳴を上げた。何故なら、赤松が象のように巨大化していたのだ。
「(私がビビっているっていうの……?)」
ピッチャーは動揺すると、よく浮き足立つと言われている。あおいはまさにその状態に陥っていた。
「絶対違う!」
認めたくない。その一心で、あおいが足を上げた。
だが、甲子園の雰囲気に飲まれかけているあおいが、今の状態そう簡単に抜け出せるはずがない。
(ドム!)
「!」
汗ですっぽ抜けた白球は、赤松の腰に直撃した。痛恨のデッドボール。
痛そうな表情を浮かべ、命中した箇所をさすりながら、赤松は1塁へ向かった。
ライトスタンドから1塁側のスタンドにかけて広がる大歓声。甲子園がさらに異様な雰囲気に包まれる。
「……」
ワンアウト満塁。夏というのに、雪の中にいるような感覚に襲われ、頭から血の気が引いていくのが判った。
止まらない負の連鎖。足掻けば足掻くほど、それは余計に手を、足を、そして精神を絡めていく。
その連鎖の原因を作り上げた張本人が、ベンチから戦況を見守っていた。
「(脆いわね。まあ私にかかればどんな相手も脆いけど)」
夏目の一発が尾を引いているのは、誰が見ても一目瞭然だった。普通なら、とうにピッチャーを交代させているだろう。
だが俊彦は代えないでいる。正しくは代えられない理由があった。
「(西条は怪我しておるし、和木がピッチャーを出来るといっても、この状態で甲子園初マウンドにするには、かなり酷過ぎる……)」
せめて、ランナーが1塁なら。しかしそう思ったところで今の状態は変わらない。ただ黙って、この戦況を見守るしかないのだ。
「(一条の球は速いからスクイズはまずない。打たせて、ゲッツーを取れたらいいんじゃが……)」
俊彦がやや不安げに足を組み替えようとしたその刹那、
(キン!)
白井のバットから快音が鳴り響いた。
だが俊彦の願いが通じたのか、その打球はサード真っ正面にやや強めのゴロとして転がった。
これを尚史が3塁ベースを踏み、ツーアウト。
そしてすぐにファーストの方向へ体を向け、送球体制に入った。これでスリーアウト。
「ファースト!」
になるはずだった。
「あかん!高い!」
尚史が投じた球は、佐々木守のファーストミット遙か上を越えていった。この間に3塁ランナーの札付がホームイン。
1塁ランナーの赤松も2塁を蹴った。白球は誰もいないライトファールゾーンを転々としている。
「赤ちゃんも突っ込んじゃいなさい!」
ベンチから出てきていた夏目の一喝により、1塁ランナーの赤松までもが、3塁ベースを蹴り、ホームへ走り込んでくる。
ライトファールゾーンを放浪の旅をしていた白球は、カバーに入った黒崎によって、ようやく捕球された。
「一条!」
高橋の代わりに中継に入っているあおいのグローブに照準を合わせ、黒崎が渾身の力で白球を投じた。
流石にチームNo.3の強肩だけあって、あっという間に突き刺さった。
「真奈ちゃん!」
間髪入れずあおいが素早く反転し、150k/mを越える球を放った。
「チィ!」
「アウトや!」
球の入ったミットで、頭から飛び込んできた赤松に真奈が強くタッチした。砂塵が舞い、審判がのぞき込む。
「アウト!スリーアウトチェンジ!」
僅かに真奈のミットの方が早く、赤松の手はベースから完全に遮られていた。
「クソ!」
あとほんの数秒。1秒でも早ければ、真奈のミットをかい潜ることが出来ただろう。
赤松はヘルメットを拾い上げ、悔しそうにベンチへ帰っていった。
「しかし、この4点はでかいな……」
そう。俊彦の言う通り、尚史の痛恨のタイムリーエラーと夏目のツーランにより、この回4失点。
夏目に対して、あまりにも大きすぎる。
「まずいな……」
その言葉を表すかのように、4回の表も3者凡退。神城に暗雲が漂い始めていた。