第16章
真っ赤な竜巻





「あおいちゃん。疲れてるところ悪いけど、ちょっと来てくれ。佐々木妹もだ」

真奈はレガースを外す行為を中断し、あおいはタオルを肩にかけながら、尚史の後を追った。

真奈が扉を閉め、尚史が2人に正対する。あおいは尚史の何か物言いたげな目を睨みかえしていた。

「……」

2人は睨み合った(尚史は睨んでないが)まま、動こうとはしない。

このままでは埒が明かないと思ったのか、真奈はまず尚史に用件を尋ねた。

「で……何で呼んだんです?」

「え……ああ」

尚史は頭を軽く掻き、ため息をついた。そして……。

「悪かった。あんな大事なときにエラーして」

「……はい?」

「あれまあ」

2人は尚史の予想だにしない言葉に唖然とした。今までのことを考えてきたら、あおいのピッチングに難癖をつけてくるはず。

もちろんあおい本人はそう思っていたし、その球を受けていた真奈も同じ気持ちである。

「(結城君が謝るなんて、一体どういう風の吹き回しなの?)」

「(何か悪いもんでも食ったんやろうか?)」

2人とも気味が悪かった。いっそうのこと、怒ってくれた方が幾分マシだったかもしれない。

そんな2人の気持ちを察せず、尚史は言い訳の弁を並べた。

「まああれだ。珍しく焦って、球がすっぽ抜けたみたいでな。すまない」

ただ判るのは、本当に尚史は申し訳なさそうにしていることだ。流石にこれを怒る気にはなれない。

むしろ、今は自分の方が立場が上ではないだろうか。姉みたいに笑いながら、チクチクと痛ぶれるのではないだろうか。

そう思ったあおいは得意げな笑みを浮かべ、腕組みをした。

「ま〜あ仕方がないよね……」

だが肝心の言葉が浮かばない。考えてみれば、普段人を痛ぶるようなことは言わない。罵倒してばかりだ。

「(何かないか何かないか……)」

端から見れば、かなりくだらないことだろう。だがあおいにしてみれば、尚史に勝てる絶好の好機なのだ。

口では負け、子供みたいに頭を撫でられ、挙げ句の果てには胸まで触られ(これは流石に殴ったが)……。

とにかく優位に立つチャンスなのだ。

「そこまで考えなくても、今ので充分励みになった。ありがとう」

だが尚史には、それが他に何か励ましの言葉がないか必死に探しているように映ったみたいだ。

「へ?……ま、まあね」

尚史がホッとしたような表情で微笑んでいる。今までの尚史からはあり得ないことだ。

「(うっ……格好良い……)」

思わず自分を捨てて、今すぐにでも甘えてしまいたくなる。

だがそんなことは前世から、いや宇宙が誕生したときから許されていない。

「さて、そろそろ本題に入るか」

やっぱりからかわれていたみたいだ。試合の後、必ず仕返しすることをあおいは心に決めた。

だがそれよりも先にしなくてはいけない人物がいる。

「凪ちゃんのことね」

きっと尚史も同じことを考えているはず。だがそれは、カタツムリとナメクジぐらい違っていた。それはもう、全くの見当違い。

「いや……あおいちゃんのこと」









場面は変わって、4回の裏。この回の先頭バッターは7番の斉藤から。1人出れば、この試合2ホーマーの夏目凪に繋がる。

神城としては、なんとしてでも避けたいところ。

「(このピッチャーはコントロールが明らかに悪い。追い込まれるまで際どいところは全て見逃そう)」

甘い球は確実に打ち返すために、斉藤はバットを短く持った。速球に対応するためでもあるが。

「(うう〜)」

一方、マウンド上であおいは顔を真っ赤にして、ロージンを掌で乱暴トスしていた。どこか落ち着かない様子である。

「(先輩……あいちゃんに頼まれたんやろうけど、あれはあかんて。私もクラッてきたがな)」

真奈もほんのりと顔を赤らめていた。尚史があおいに言ったこととは、果たして……?

「はぅ〜……もう死んじゃいたいよ」

恥ずかしさで、今にも逃げ出したい気持ちを抑えつつ、あおいは大きく振りかぶり、右足を高々と上げた。

「お姉ちゃんの……」

上体を捻り、背中のエースナンバーが露わになる。マウンドに発生した小さな竜巻。そう形容してもおかしくない。

「馬鹿ーーー!!」

右足をしっかり前へと踏み出し、この恥辱を生み出した本人への悲痛な叫びとともに白球を投じた。

唸るような速球は風を切り、18.44mの空間を突き進む。

「(高い!)」

見に徹底している斉藤は、この球を見逃した。真奈のミットから乾いた音がはじけ、審判の腕が上がる。

「ストライク!」

久々のストライク。そして何よりも球が生き返ったこと。その証拠に斉藤がボールと思って見逃しているではないか。

「(今のが……入った?)」

真奈のミットの位置は、斉藤にとって内角高めにあたる。さらに言えば、ストライクかボールの境目。

だが、斉藤には明らかにボール1個分は外れているように見えていたのだ。これで驚かない奴はまずいない。

「う〜……」

だが、当の本人は恥ずかしさで頭の中はいっぱいのため、自分の球までは気が全くいっていなかった。

「ああもう……さっきのがずっと頭の中で繰り返されてる〜。全部お姉ちゃんのせいだ!」

色々と文句を垂れつつも第2球目。今度も内角高め。もちろん斉藤はこれを見逃し、カウント2-0。そして第3球目。

「(なに!?)」

コースはなんとまたも内角高め。加えて3球勝負で来ると予想していなかった斉藤は、この球に手が出ない。

「ストライク!バッターアウト!」

「なんて球だよ……」

そうぽつりと漏らした斉藤は肩を竦め、ベンチへ重い足取りで帰っていった。

「(今まで受けた中で1番凄い球や……)」

最後の3球目を受けたときに、あまりの凄さに真奈はへたり込んでしまっていた。驚きは隠せない。

「(いったいあおいちゃんに何が……?)」

今までのような闘志むき出しのスタイルではなく、羞恥心に妨げられたどこか頼りないもの。

なのに、その球はどこまでもキレて、ミットをはめた左手から体の芯にまでズシンと響く。ある意味、恐怖さえ感じてしまう。

「(でもこれなら、十分通用するで。この打線ぐらいなら、完全に抑えれる)」

真奈の予想は当たった。8番の白井、9番の社をバットに掠らすどころか、振らさず全員3球三振。

あおい本人は全く意識していないが、全てストライクとボールの境目に決まっていた。

またコントロールが悪いという先入観があったため、バッターが戸惑ったのだ。

「一条!ナイスピッチング!」

「上出来!上出来!」

「今回のは安心して守ってれたよ!」

ナインが明るくあおいにほめ言葉をかけていく。

それは素直に嬉しく、恥ずかしさを忘れて、思わず笑みがこぼれてしまう。……それもすぐに赤面に変わってしまうが。

「あおいちゃ……」

「私は何も聞こえなーい!」

尚史の言葉を聞き終わらぬ間に、顔を完熟トマトのごとく真っ赤にし、耳を塞ぎながらベンチに駆け込んでいった。

その光景にナインは、全く状況を掴めないでいた。

「……何したんや、結城はん」

「いや……まあちょっとな」

佐々木守の問いに尚史は少しばつが悪そうに返事を返した。









「ストライク!バッターアウト!」

「なんなの……この速さは……」

夏目はあおいのあまりの変わりように、戸惑いを隠せなかった。

4球中2球は、自分の好きなベルト付近の内角に来たのだが、掠ることさえ出来なかったのだ。

「(この調子じゃ、もう点は取れない。この点差を縮められないようにしないと)」

夏目の予想通り、2番札付、3番赤松も空振り三振に終わり、この回も無得点。

あおいが立ち直ったのは、誰が見ても明らかだろう。

「流石私の妹ね」

その調子を取り戻させた張本人、一条あいが普段あまり見せない、真剣な表情を浮かべていた。

「(あおい。あなたの悪いところは何事にも気負い過ぎなの。肩の力を少し抜けば、充分力が発揮できる)」

あいもふざけているわけではない。だが自分が言ったところで聞くあおいではない。逆に反発されるのがオチである。

「(だから尚史さんに頼んで、甘い言葉をかけてもらった。あの娘は本当は恥ずかしがり屋だしね)」

ちなみに尚史は頼まれたときにかなり渋ったが、あいはあの夜のことを他人にバラすと脅迫したそうな……。

哀れなり、結城尚史。

「(でもまあ……)」

真剣なあいの表情が、梅雨明けを待っていたヒマワリの蕾が開いていくように、柔らかな微笑みに変わっていく。

「(恥ずかしがってるあんたはやっぱ可愛いね〜。今すぐ抱きしめたい)」









6回の表。神城高校の攻撃は8番の篠原から始まった。だが、夏目の投球の前に2人は連続三振に呆気なく終わった。

「(幸い4点差ある。私がこのペースを維持すれば、確実に勝てる。でも……)」

ロージンをマウンドに叩きつけ、左打席に入るあおいを睨んだ。ライバルということを差し引いても、

この試合で最も警戒しなければならない打者であり、強く意識するのも無理はない。だが当のあおいは……

「あれは彼の本音じゃないんだ。でももしかしたら……。はぅ……」

今までなら、ムッとした表情で睨み返してくるだろう。

だが今のあおいは、完全に自分の世界に入り込んでおり、夏目に対する闘争心の欠片も無くなっていた。

これを見た夏目は、なんだか複雑な気分だった。

「(こんな腑抜けに私は三振したのかしら……。情けない……)」

さっさと三振に切ってしまおう。そう思って投げた第1球。足下をえぐる、内角低めへの145k/mストレート。

「やっぱそんなわけない……。彼がそんなこと言うはずない……」

羞恥でハの字になっていた眉が徐々につり上がっていき、闘志の代わりに、怒気があおいの体を包んでいく。

「乙女の純情を……」

そして怒りに身を任せ、夏目の球を本能のまま打ちに行った。

「弄ぶんじゃないわよ!」


(グワシャ!)


バットも怒気を帯びていたか、あり得ない金属音が響き、セカンドに向かって凄まじい速さで飛翔した。

それはまるで弾丸、いやミサイル、いや流星のようだ。

「速っ!」

数歩動けば充分捕球出来るが、あまりに速すぎて、本越はただただその場で驚嘆するしかなかった。打球はそのまま右中間へ

「私の怒りよ!そのままスタンドにいけー!」

あおいがそう叫んだ瞬間、外野手の間を割った打球はさらに伸び始め、そのまま右中間スタンド中段に突き刺さった。

3点差に迫る、いや姉と主砲にしてやられた鬱憤をはらす渾身の一打。

「は、は、入ったーー!!なんという打球!まさに火の出るような当たり!神城の打線もこれで火がつくか!?」

あおいは牢獄から開放された囚人のように、非常に晴れやかな表情で、1塁ベースへ歩き始めた。

身も心もすっきりしたと言ったとこか。

「あんな打球は見たことない……」

またあおいの一撃は、夏目の度肝を抜かしたようだ。

その証拠に、キャッチャーの花村が声をかけるまで、自分の腕からグローブが抜け落ちてたことに気づかなかったのだから。

「落ち着け凪ちゃん。どんなに凄いホームランでも、ソロはソロ。まだ3点差あるんだ」

「そ、そうね。後を絶てばいいんだから」

そう言って、夏目は無理矢理笑顔を作った。だが動揺してしまった心を、この回で取り戻せというのはかなり難しいことだ。

それでも夏目は、尚史に8球粘られたものの、最後はサードフライに打ち取り、この回を終えた。









この後、両投手の好投により、試合は膠着したまま、いよいよ9回を迎えた。打順は9番の黒崎から上位打線へと繋がる。

「尚史」

「先輩」

「判ってる。お前ら2人の苦労を無駄に出来ないからな」

そう言って、尚史は2人の頭を優しく撫でた。

理奈はいつものように子供みたいな無邪気な笑顔を浮かべ、真奈は何故か顔を赤らめ、視線を逸らした。

理由はなんとなく判っているので、尚史は敢えて突っ込まないでおいた。

マウンド上に横浜南ナインが集まっている。その中心はもちろんエースである夏目凪。

流石にこの暑さに参っているのか、その表情はどこか疲れ気味だ。

「白ちゃん……顔真っ赤だけど大丈夫?」

それでもナインを気遣うことは忘れていない。

あおいのようなライバルには土佐犬のように闘争心むき出しで戦うのでかなり容赦ないように見えるが、

普段はおおらかで、仲間への思いやりが人一倍強いのだ。そのため、ナインの信頼感も厚い。

流石、昨年優勝校の横浜南のエースといったところか。

「心配ない。それより、凪ちゃんの方が大変だろうよ。このくそ暑い中、120球以上も投げて。代わってやろうか?」

「馬鹿、何言ってんだよ。お前が投げるなら、俺が投げるぞ」

「いやいや、俺が」

1人、また1人と白井の冗談に食いついていく。ムードを下げないようにしてくれるのはありがたいが、そろそろ止めなくては。

「冗談でも嬉しいわ。心配してくれてありがと」

まだナインには充分余裕がある。ここでエースが弱音を吐くわけにはいかない。

夏目は花村の隣に立っている札付の肩を叩いた。

「それじゃあ札っち。かけ声宜しくね」

札っちこと、札付要が頷き、大きく息を吸い込んだ。

「最後だ!締まっていくぞ!」

「おお!」

マウンドからナインが一斉に散らばり、それぞれのポジションについていく。

レフトスタンドのブラスバンドが一層騒がしくなり、球場が更なる熱気に包まれる。

「プレイ!」

審判の腕が上がる。夏目は息をゆっくりと吐き出し、大きく振りかぶった。




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