第17章
伏兵の意地





雲一つなく、嫌みなくらい青空が広がっている。

住宅街というのに、それぞれの庭に根を張った木々せいで、蝉の大合唱が鳴り響いている。

さっきまで静かだったのに、これは自分への嫌がらせか。正直な話、煩わしい。

ここに蠅叩きか殺虫剤でもあれば、この迷惑な虫どもを全滅させることができるのに。

しかし残念ながら、今の自分に殺虫剤又は蠅叩きを持ってくる暇もなければ、そんなことをする暇もない。

今はとにかく時間が惜しいのだ。


私は結城尚史に会わなくてはいけない──


この甲子園が、いや正しくはこの準決勝が終わる前に。最後に通りで見たとき6回の表だった。

夏なので、太陽の位置はあまり変わらないが、かなりの時間が経過しているはず。このままでは、間に合わなくなる。

もしそうなった場合、全てが水の泡となってしまう。それだけは嫌だ。長い髪をたなびかせ、女性はとにかく急いだ。

「瑞穂館……」

目的地……というわけではないが、自分の理想に当てはまる、とても大きな旅館。

夏休みなので、多くの客が泊まっているはず。それでも確率は低いだろう。だが、もうそれに賭けるしかない。

「お願い……誰か気づいて……」

両手を合わせ、祈るような気持ちで、女性は旅館の門をくぐった。

「本当に広い……。でも綺麗だわ」

玄関まで通行できるように、大きな平たい石を埋め、また一面には艶のある小さな石が敷き詰められている。

よく見れば、その石たちは、枯山水のごとく、小さな波を打っている。

さらに旅館の周りは美しい木々に囲まれ、蝉ではなく、ひぐらしの美しい音色が響いている。

まさに純和風の世界が広がっていた。思わず、ここは本当に旅館なのかと疑ってしまう。

「9回で3点差……。油断しちゃだめよ、凪ちゃん」

その景色に心を奪われていると、どこからともなく、やや緊張気味の声が聞こえてきた。

右の方へ近寄ってみると、そこには、数世代ずれたテレビの前で、大人びた若い女性が固唾を飲んで見守っていた。

その隣には、とても儚げな少女がお茶を飲んで、のんびりとしている。縁側では、猫が幸せそうにひなたぼっこしている。

「気づいてほしいところだけど、テレビに夢中だから無理っぽそうね」

そう判断した女性は、そのままその部屋の前を過ぎ去ろうとした。そのときだった。

「誰かいる……」

「さっきからゾクゾクしてたけど、やっぱいたのね」

見えるはずのない自分の方を向いて、1人は小首を傾げ、もう1人は笑顔で手を振っていた。









「ストライクツー!」

外角低めに138k/mストレートが決まった。コースはやや甘く、疲れで球威が無くなっている甘い球。

だが黒崎は、何かに縛られているように動けないでいた。

「(狙い球だったのに、緊張でバットが出ない……。ピンチなら何度もくぐり抜けてきたのに……)」

黒崎が固くなるのも仕方がない。9回の表、3点差。先頭が出て、反撃の口火を切らなければならない重圧。

とどめに、悲鳴とも思えるスタンドの大歓声。これで緊張しない奴はまずいないだろう。

「ふぅ……」

夏目の額から大粒の汗が滝のように流れていた。

投球の度に袖で拭っていたが、それも全て徒労に終わっている。夏目は大きく深呼吸をし、帽子をかぶった。

「(ここを抑えるのと、抑えないのでは、全然違ってくる)」

夏目としては、先頭バッターの黒崎だけは出したくない。

出してしまえば、あおいと尚史で一気に同点にされる可能性が高い。だから、なんとしてでも抑えたかった。

「(フォークで決める。2-0だから、ど真ん中に投げれば、確実に振ってくるはず。それに判っていても打てないだろうし)」

1球外すという手もあるが、今の体力から考えて、無駄な消費はしたくない。なによりこの暑さ。

少しでも早く終わらしたいのが本音。夏目はグローブの中でボールを2本の指で挟んだ。

「(これでまずワンアウト!)」

夏目は自信満々に第3球目を投げ込んだ。ボールは投げた本人の思い通り、ど真ん中を突き進む。

「(フォーク……来た!)」

ストレートの球速を保ったまま、ベース手前で鋭利に折れて変化する。それが夏目の必殺のフォーク。

だがこの球は、さび付いた刀のようにキレが鈍く、落差も今までより遙かに小さい。

これを逃して何を打つのか。黒崎は短く持ったバットをフルスイングした。


(キィン!)


「しゃあ!」

快音を残し、黒崎の打球は夏目の右を抜けた。そしてそのままセンター前へ……。


(バシィ!)


「なに!?」

とはならなかった。予め、社はややベースよりに守っていたのだ。黒崎は驚嘆しながらも、1塁ベースに向かって全力で走る。

足は理奈に続く速さである。飛び込んで捕ったにしろ、立って、1塁に投げる頃には、黒崎はベースを駆け抜けているだろう。

「ファースト!」

だから社は座ったまま、1塁へ送球した。

上半身だけを使うので、肩がよくなければ、立って投げるより、間に合わなくなる確率は高い。

社は充分強肩なので、これが行えるのだ。

「クソッ!」

黒崎がベースを踏むのとほぼ同時に、赤松のファーストミットに社の送球が納まった。球場が一瞬の静寂に包まれる。









「セ……アウト!」

平行に開きかけた審判の両腕だが、すぐに片方だけの親指を立てて、真っ直ぐ伸ばした。

よっぽど際どいタイミングだったのだろう。

「ちくしょう!」

だが、運は横浜南を味方したのだ。黒崎は苦虫を噛みに噛み尽くしたような表情で、ヘルメットを叩きつけた。

「(志紀ちゃんのプレーで、流れはこっちに来た。勝てる!)」

社はダイビングの際に、ユニフォームについた砂を払っている。

今のプレーに嬉しがっている様子もなく、当然といった表情だ。そんな社の方へ振り返り、夏目は笑顔でブイサインを向けた。

「……」

黒崎が今にも泣き出しそうな表情で、ベンチに力無く座り込んだ。

もちろん誰も話しかけようともしない。ベンチ内に重々しい沈黙が漂う。

「安心しろ、黒崎。お前のおかげで、勝ちが見えてきた」

その沈黙を破ったのは、冷静な尚史の声だった。

ちなみに、あおいが打っているのに、まだベンチにいるのは何故という突っ込みは野暮である。

「気休めはよしてくれよ」

黒崎の弱々しい言葉に、尚史は普段と変わらぬ冷静な口調で言った。

「気休め?じゃあ、あおいちゃんを見てな」

「へ?」

黒崎が顔を上げた。その刹那。


(カキィン!)


スタンドの歓声が一気に騒がしくなる。

白球が王宮のようにそびえ建つバックスクリーンに一瞬にして消えた。それは黒崎の涙目にも、はっきりと映った。

「お前の打席で、夏目がかなり疲れているのがよく判った。誰も打てなかったあのフォークを捉えたぐらいだからな」

まあ、あとは任せとけ。尚史はそう言い残して、そのままバッターボックスへと向かった。

「(ただ、もうフォークはないと考えていいだろう。2人に真芯で捉えられているからな)」

そうなると、長打を防ぐための低めのストレートを軸にするか、変化球を多用してくるはず。

どちらにせよ、今の尚史にはあまり関係のないことだった。

「(今の俺には、夏目の球種が判る。タイミングも理奈に計ってもらったしな)」

そんなことを考えている間に、あおいがホームに帰ってきたようだ。その表情は、丘に吹く風のように爽やかであった。

「あとは頼んだわよ!」

「はいよ」

いつものようにハイタッチを交わし、短めに返事を返した。

「さて……新記録いきますか」

追い込まれている立場であるはずなのに、その余裕に満ちた声と不敵な笑みは何なのか。

夏目は体に毛虫が這っているかのような、背筋が急激に冷え込むような、そういう感覚に襲われた。

「(何にもない……はずよ。とにかく際どいところを突いて、最悪ホームランを避けるようにしないと)」

今までは、全くと言っていいほどタイミングは合っていなかった。だが4打席目となれば、流石に慣れているはず。

フォークを連投出来れば、確実に抑えれるのだが、今の自分にその力はない。となれば、「あの」球しかない。

「(でも決め球には出来ない。

フォークが使い物にならないことはさっき証明されてるから、『あれ』を代わりにするのは読まれてるはず)」

「あの」球は読まれると、強打者なら、フェンス越えは免れない。だから今度は逆に、その球を初球に持ってくる。

「(コースは外角低め。コースの奥行きを使ってポイントをずらすには、ここしかない)」

夏目は汗でまとわりついた髪の毛をかき揚げた。あの球のサインである。

花村が返事代わりに、マスクに軽く振れ、ミットを突き出した。

「(いくよ!ノブちゃん!)」

豊満な胸を反り上げ、夏目が大きく振りかぶった。右足が今までよりピンと上がり、だが軸足は全くぐらついていない。

意地でも打たせない夏目の気迫は、尚史にも充分伝わっていた。

「(圧されるな。圧されたら負けだ)」

胸の中でその言葉を反芻し、尚史は足を上げた。

「(……)」

額から流れる汗が太陽に煌めく。

深々とかぶっていた帽子は、夏目の激しい動きに耐えられず、宙を舞った。露わとなった艶やかな髪は踊るように揺れていた。

「(見えた!)」

尚史の眼に映ったもの。それは……。

「(肘が下がっている。そしてフォークはない。となると『あの』球しかない!)」

真奈と2人で見つけた唯一の癖。球種を確信した尚史は、一か八かの方法に出た。

「(あんまりしたくないが……)」

尚史は夏目に対して、クルリと上体を捻った。

さらに左足を限界まで引き上げ、つま先が完全にキャッチャーの花村の方に向いた。

それはまるで、野茂(近鉄→ドジャース他)のトルネードのようだ。

「(流石にこれは……)」

尚史の体は、某金融会社のマスコットキャラのごとく、ふるふる震えている。

いくら一本足で平然と打てる尚史でも、トルネードを支えられるほどの足腰は持ち合わせていない。

タイミング云々を抜かせば、これで平然といられるのは、あおいぐらいだろう。

「人の真似をするなー!私から許可を取ってからにしろー!」

と、そのあおいは虎模様のメガホンで、尚史に対して怒声を浴びせていた。

ちなみにそのメガホンは、佐々木守から強奪したもので、当の本人は蟹みたいに泡を吐き、

道頓堀に劣らないほどのひどい顔色をしていた。首にはしっかり、茶色い紐で絞められている。

「ワ、イ……な、んでこん……」

「……えい」

あおいが頭を少し動かした。茶色い紐……ではなく、おさげが引っ張られ、ベンチに声にならない悲鳴が上がった。

守の顔色は道頓堀を通り越して、もはや形容することすら出来ない色になっていた。

「怒声じゃなくて、声援送れよ」

この試合を決めるかもしれない。凡退すれば、理奈、佐々木妹に勢いを与えれなくなる。

なのに、律儀に突っ込みをいれる余裕が自分にあるのはどういうことか。とりあえず、そのことは心の奥に閉まっておきたい。

「(しかしまあ……世の中にはスゲェ女がいるもんだ)」

見た目的には大体170cmぐらいだが、ピッチャーの中では小柄で、あおいちゃんと同じ華奢な身体に見える。

顔は誰から見ても端正で、幼さはあまり残っておらず、その辺りにいる女子高生、又は女子大生と変わらない。

だがその容貌とは裏腹に、獅子もその場にひざまずくような闘志を全面に押し出し、

隙あらば、そのまま俺を飲み込んでしまうだろう。

「(この球はかなり揺れてくる。芯で捉えるのは難しい)」

本来なら「あれ」は、狙えば確実にスタンドまで運べる。

しかし、「あの」球を極めた場合、揺れながら変化を起こせるため、芯で捉えるのは難しい。

「(だからこの打法なんだ)」

「あの」球が揺れて、そして紙風船のように緩やかに落ちる。

己の意志で結んでいた身体の紐を尚史はほどき、一気に「動」へ転じた。

「(力で振り切る。だがコースに逆らってはだめだ)」

左足を内側へ勢いに任せて踏み込む。腰が鋭く回転し、熱を帯びた金属バットが振り出される。

「(軌道は合っている)」

バットの先に「あの」球が乗った。だが不規則に揺れていたせいか、芯からはやや外れている。

それでも尚史は、無理矢理バットを振り切った。


(キィン!)


快音がグラウンドに鳴り響いた。打球は果てしなく、蒼空に吸い込まれていくように、ぐんぐん飛翔していく。

その代わり飛距離があまり出ていない。

「チィ!やっぱり芯で捉えれなかったか!」

予想はしていたとはいえ、やはり悔しいものは悔しい。だが、あとはもう打球に任せるしかない。

「ライト!もっとバックだ!」

花村がマスクを取り、慌てたように大声を張り上げた。

ライトの札付が言われるまでもなく、吹き飛ぶ帽子に目もくれず、全力疾走で追いかける。

「入れ!入ってくれ!」

1塁ベースを駆け抜けながら、尚史が懇願するような声で必死に叫ぶ。

打球はそれに押されるかのように、ゆっくりだが、まだまだ伸びていく。

「(死んでも捕る!)」

先に着いた札付が、ポールに片腕を絡め、フェンスに登り始めた。

打球がゆっくりと降下してくる。凄まじい声を張り上げながら、札付はボールに飛びついた。

「うおおおお!!」

打球が目の前に迫ってくる。今、魔法がかかったみたいに、札付の世界はゆっくりと時を刻んでいた。

「(……)」

札付の表情が明るみを増していく。着地した瞬間、飛んだ勢いに足が耐えられず、前のめりにして倒れた。

スタンドが一気に騒がしくなる。尚史が1、2塁間で足を止めた。

「入った……のか?」

塁審がラインを跨いで、食い入るようにポール際の打球をまだ見ている。落下した札付は、倒れたまま動かない。

「……!」

数秒後、塁審がようやく動きを見せた。しんとしていた球場が一瞬にして沸き上がり、マウンド上の夏目がガクッと膝をついた。

帽子が緩やかな風に乗った土埃に巻かれた。

「ギリギリいったーー!!土壇場9回表、一条、結城のアベックアーチ!さあ、1点差まで詰め寄りました!」

止めていた足を再び動かし始める尚史。表情には出ていないが、その雰囲気は、明らかに喜びに満ちていた。

「(しかし……凄いパームだった。あと少しずれていたら、間違いなく俺が崩れてた。運が良かったんだろうな……)」

ひとまず3塁を蹴ったところで控えめにガッツポーズを決め、ホームへ向かった。

もちろん手荒い祝福を受けたのは言うまでもない。

「(私の……パームを……)」

一方夏目は、完全に自信を失っていた。

2つの得意球を打たれ、闘志の固まりであった面影は、微塵にも残っていない。まさに顔面蒼白。

「(まだ……試合は終わってない。まだ私たちが勝ってるんだから……)」

夏目はよろめきながら何とか立ち上がり、虚ろな目でバッターボックスの理奈を睨みつけた。

だが凄みがないのか、理奈はニッコリと微笑みを返し、袖を引いて、バットの先端を夏目に向けた。

「はぁはぁ……」

疲れで完全にバラバラになったフォームでコントロールが定まるはずもなく、理奈にストレートの四球を与えてしまう。

ワンアウト1塁。バッターは4番の佐々木真奈。

「まだまだ……」

汗を乱暴に拭い、夏目が大きく振りかぶる。左腕から投じられた球は、内角へ甘く食い込むカーブ。

変化という言葉すら使うのもおごましい棒球だ。真奈がバットを引き、身体を外側へ開いた。

「終わったな……」

ベンチに座り際に、尚史がぽつりと呟いた。その次の瞬間。


(カキィン!)


金属の澄んだ音が響き、ボールがライナーでライト方向に上がった。

高さはなく、方向ともにギリギリだが、そのまま計ったように、ポール際に飛び込んだ。

「二度、ライトスタンドへー!4番、佐々木真奈の逆転ツーラン!2三振の屈辱を見事晴らしました!神城高校!大逆転!」

夏目はまたもや膝から崩れ落ちた。呼吸ももはやままならない状態だ。

だが、なんとか意地を見せ、次の佐々木守をショートフライ、6番の高橋をレフトライナーに打ち取り、この回を終えた。









9回の裏、7番の斉藤から始まる打順。

気合い充分とブンブンバットを素振りをしているが、その面もちから、緊張していることがよく判る。

あおいはロージンを放り投げ、天を仰いだ。

「(いくよ。これで終わらせるんだ)」

大きく息を吐き、ボールをギュッと握る。あおいの顔つきが真剣そのものになり、打席の斉藤が少し怯んだ。

「最後の回や!しまっていきまっしょい!」

「おう!」

今回の殊勲者、真奈のかけ声に、ナイン全員に気合いが入る。審判の腕が上がり、球場に火がついたように賑やかになった。

「(出て……お願い)」

今までの強気な姿とは打って変わって、今にも泣き出しそうな、非常に弱々しい表情の夏目。

1人出れば、自分に回る。このまま引き下がりたくない。とにかく手をすり合わせ、必死に、強く、それを祈っていた。

「ツーアウト!ツーアウト!」

だが夏目の願いも空しく、斉藤、本越と呆気なく2連続三振。神城が勝利まであと1人。

あと1人というコールが響く中、9番の社がバッターボックスに入った。

その表情は今までとは比べものにならないほど厳しく、そして何より、

凄まじいほどの気迫が、ビリビリとあおいにも判るほどに伝わってきていた。

「(凄い……オーラに包まれてるみたい……)」

あおいは思わず社に心を奪われてしまい、ボーと突っ立ていた。真奈のサインに気づかないほどに。

「あおいちゃん!」

「え?……ああ、ごめんごめん」

真奈の一声で、あおいはすぐに我に返った。だが、社の不可思議だけは、まだ消えないでいる。

「(何もなければいいけど……)」

不安に思いながらも、真奈のサインにゆっくりと頷き、大きく振りかぶった。

「(狙うならここだ)」

あおいが右足を上げたとき、社はバントの構えを取った。

この球をセーフティーバントするには、少しばかり速すぎる。だが、社の狙いはそうではなかった。

「(え!?)」

あおいは社の行動に、思わず声を上げそうになる。社はバットを引き、そしてまたバントの構えを取った。

「(理想は四球。悪くて死球、三振。良ければ、甘い球だ)」

トルネードほど不安定でコントロールをつけにくいフォームはない。集中力を乱せば、間違いなく、自滅してしまう。

それは素人の目からでも明らかだろう。だから社はその集中力乱しに、揺さぶりをかけにいったのだ。

「あ!」

右足を踏み出した際に、あおいは僅かにバランスを崩し、倒れるようにボールを投じた。

社の思惑通り、甘い球が吸い込まれるように、ど真ん中へ。

「貰った!」


(キィン!)


短い金属音を残し、打球は1、2塁間を抜けた。その刹那、嵐のように、歓声が球場に吹き荒れる。

社がガッツポーズを決めながら、1塁を駆け抜けた。

「あとは任せましたよ!」

社が1塁上で元気良くブンブンと手を振っている。夏目の悲哀に満ちた目から涙が1粒こぼれ落ち、そして闘志の火が灯った。

「志紀ちゃん!あとで1つだけ言うことを聞いてあげるわ!この試合をサヨナラで決めてからね!」

いつもの饒舌が戻り、夏目は堂々と左打席に入った。球場は依然として、異様な雰囲気を漂わせている。

真奈は立ち上がり、タイムを取ろうとしたが、あおいが先ほどから不敵な笑みを浮かべていることに気づいた。

「凪ちゃん!予告するわ!私はスクリューしか投げない!私が単なるストレートだけのピッチャーじゃないことを教えてあげる!」

「!」

ボールを夏目に向け、しっかりと握りを見せているあおい。一瞬呆気にとられた夏目だが、それもすぐに険しい表情に変わった。

「(2本打たれてるくせに、予告投球?ふざけんじゃないわよ!)」

額から流れてくる汗を拭うことすら忘れて、ただ無言であおいを睨む。

その目つきは獲物を狙う鷹のよりも鋭く、海よりも深い怒りがこもっていた。

「……はぁ」

一方真奈は、ため息をつきながらその場に座った。マスクをしているので誰にもその表情は見えない。

ため息だけを聞けば、怒っているように見えるかもしれない。「こんな大事な場面に、相談せずに勝手に決めやがって」と。

「ふふ……」

だが、真奈は笑っていた。それは大変含みのある笑いだった。

「(私もまだまだやな。ピンチでおたおたし過ぎて、スクリューの存在を忘れてたわ)」

ランナーがいるが、三振に切って取ればこの試合も終わりになる。後逸さえしなければ、全く問題はない。

「(異論はないでぇ、あおいちゃん)」

あおいと真奈の2人は、ど真ん中フォークだけで3球三振という屈辱を味わっている。

今晴らさないで、いつ晴らすのか。あおいと真奈の目に怪し気な閃光が走り、夏目は言いしれぬ不気味な感覚に襲われた。

「……女の恨みは怖いな」

遠くを見るような目で、尚史はぼそっと呟いた。









「……」

「……」

「……」

3人は錆び付いたロボットのように、ピクリとも動かないでいる。

2人はあまりにも信じられないことに呆然としており、あと1人は、眠たそうな目でボーとしていた。

「凪ちゃんのパームを持っていくなんて……」

皆殺しと殴り書きされた湯呑みが机の上で転がり、少し入っていた中身がぶちまけられていた。

少し薄れた肌、いや身体の女性の固唾を飲む音が、やや古ぼけた部屋に短く鳴り響く。

「(いくら狙い球であっても、あんな器用な打ち方は武久君にだって出来ない。それに……)」

女性が最も驚いたのは、スイングスピードの速さだった。

いくらパームの球質が軽いとはいえ、バットの先、しかも芯ではなかった。

なのに、それをライトスタンドへ流し打ってしまった。浜風で右方向の打球が伸びにくいこの甲子園でだ。

「(彼はやっぱり、春樹さんや武久君を越える素質があるわ。あとは……)」

女性の顔つきが、突如緩んだ。

テレビにはベンチでのような明るさであおいが尚史とハイタッチを交わしているのが映し出されている。

「(ほんと……嬉しそうね)」

女性はその光景をとても感慨深気に見ていた。









「プレイ!」

マスクとプロテクターが小刻みに揺れ、審判の少しいきり立った声が響く。

だがその声は一瞬にして、球場の狂気じみた歓声にかき消された。

夏目が肩に置いていたバットを倒し、顔の前でぐるぐると乱暴に回している。目は切れ味鋭く尖っていた。

「挑発されたお返しってわけ?ふざけないで!」

顔を真っ赤にし、クルミですら砕けそうなほど、歯をぎしぎし言わせていた。

真奈はそれに気づいていたが、さらに夏目を煽り立てるように、ど真ん中にミットを構えた。

「(私は……)」

あおいがゆっくり、大きく振りかぶる。一条の熱風が吹き、あおいの髪がゆらゆらと靡く。

「(あなたに……)」

上体を大きく捻る。額から流れる汗が太陽の光で煌めき、宝石の粒のように舞う。

「(負けない!)」

上体を解き放ち、勢い任せに右足を大きく踏み出した。左腕が大きな弧を描き、弓のようにしなる。

小さなやや日焼けした指から白球が放たれる。

「甘いわよ!一条あおい!」

白い弾丸が空気を引き裂き、まるで砂埃でも巻き上げんばかりに一直線に空間のど真ん中を突き進む。

しかしそれを逃さず、凪のバットが行く手を阻む。

「惑わせ」

バットと白球がベース手前で交差する。

それは瞬間で人間の目で捉えることは不可能だが、2人、いや3人には止まって映っている。

「ハナアオイ!」




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