「(勝った!)」
夏目の目に映る白い弾丸。自分のバットがその行く手を明らかに塞いでいる。
残るは一気に、躊躇せず、気を抜かず、芯に乗せて振り切るだけ。
「裏をかいたつもりでしょうけど、残念だったわね!」
夏目は初めからあおいの言葉を全く信じていなかった。口撃は今日自分が散々やった戦術だ。
予告して発憤を誘い、冷静さを失わせるというのが狙いだろう。何よりこの球速とノビ。ストレートと疑わなくて何か。
「あんたの負けよ!一条あおい!」
夏目のバットが白球を捉えた。芯に乗り、広大に広がる海のように蒼々とした真夏の空に飛翔した。
「なっ!」
しかしそれは全て夏目の思い描かれた幻想。
現実は夏目のバットに当たる瞬間に小さくかわすように変化し、風切り音だけが真夏の空間に広がった。
「う、嘘でしょ……」
夏目は俄かに信じられなかった。それもそうだろう。
打つ瞬間までは球とバットの軌道は合致していたのだから。そこから変化したとなれば尚更だ。
「(あっぶなー。一瞬肝が冷えたわー)」
何も予想外なのは夏目だけではない。真奈もあまりの変化の遅さにストレートと勘違いし、危うく後逸しそうになっていた。
「私はいつだって正直よ!裏なんてかくものですか!こんなとこでストレートなんか投げたらKYじゃないの!」
そんな2人の気持ちを知らないで勝手にあおいは怒っていた。
喋る度に汗じゃなく、蒸気が間抜けな音と共に上がっており、ちょっとしたヤカンである。
「(大丈夫……。まだ2球ある。それだけあれば十分!)」
人間ヤカンを完全に無視し、バットの根本でヘルメットを2、3回軽く叩き、夏目が構える。
汗は噴き出し、額からダラダラと流れ落ちる。しかし気にも止めず、ただ集中していた。
「(大丈夫。来る球は判ってる。1球見れば十分!)」
背筋が曲がらず、表情、雰囲気にも悲壮感はない。寧ろこの状況を楽しんでいるようにも見える。
弱気を吹き飛ばし、逆境に穴を空けようとする力。
怒りながらも、それを感じ取ったあおいの口の切れ端が高ぶった感情に影響されニッと上がった。
「(流石ね。ビビるどころか、向かってくるなんて!)」
プレッシャーを諸ともせず、堂々と立ち、そして尚もこちらを狙っている。
今の夏目に言いしれぬ恐怖感があるというのに、打たれるかもしれないという不安があるのに、
それ以上に奥底から湧き上がってくるものが全てを強引に覆い尽くしている。
「(武者震いってやつかしら……。なら結構よ!)」
あおいがロージンを放り投げ、セットポジションをとった。
先ほど振りかぶった際に1塁にいた社は2塁に進んでおり、今にも3塁へ行こうと様子を伺っている。
その社をチラリと……いや目だけで人をこの世から除外させれるような視線を向けて、過剰なプレッシャーを与えていた。
しかし社はそれよりも背後で、剛拳我が命!と今にも吠えんとする巨大な鎧男が、幻と判っていながら怖くて仕方がなかった。
「(とりあえず勝負の邪魔はするなってことか。したら殺す……夏目さんと同じ匂いが)」
背筋が氷でも入れられたかのように冷えて、思わず身を引きそうになる。
敵なのに試合後の保身を考え、社は素直に従うことにした。
「(威圧したけど、やっぱ今回はセットでいく。球威は落ちるかもしれないけど仕方がない)」
短い息を吐き、あおいが足を上げた。夏目の足が僅かに上下し、リズムを刻む。
球場に緊張感の走る中、第2球目が投じられる。
「(ど真ん中!)」
しかし球威、スピード共に申し分ない。
変化球ながら唸りを上げて18.44mの空間を重力に屈することなく突き進んでいく。まるで空腹で狂った鮫のようだ。
「(さっきはストレートの軌道よりやや斜め下にカット気味に変化した。狙うならそこ!)」
夏目の足が外側へ小さく動く。予測したスクリューの軌道に沿って体が少し斜めに倒れ、それに遅れてバットが出てくる。
「(ハナアオイは6球しか投げれんから魔球なんや)」
マスクの奥の額から流れる一筋の汗。それは熱さによって出てくるものとはまた意味が違った。
夏目は気づいていないが、その汗が意味するものを今知ることとなる。
「な!」
夏目の目が捉えた驚愕のもの。それは……。
「浮いた!?」
ベース手前で微々たるものとはいえ、軌道が上に変わっていく白球。
厳密に言えば、そのような錯覚が夏目に起きているのだ。しかし驚きはこれだけでは終わらない。
「クッ!」
浮き上がった球は鋭利に折れ曲がり、148k/mという球速を保ったままバットの遙か遠く、
夏目の足下付近に構えられたミットに納まった。
「ストライクツー!」
審判の声が高らかに響きわたる。
額から滴る汗をユニフォームの袖でしっかり拭い、あおいはグローブを差し出し真奈からのボールを受け取った。
「いっ……」
と、呆然と固まっていた夏目の唇が小さく動いた。
「1球で十分よ!来なさい!一条あおい!」
バットを乱暴に回し、まだあおいが用意してすらいないのに、さっさと構える夏目。
しかしあと1球というプレッシャーと先ほどの変化球に焦りは隠せない。
「せっかちね!私もあと1球で十分よ!」
夏目の勢いに触発され、あおいがランナー無視のワインドアップモーションに戻した。
しかもただのワインドアップではなく、体を前に倒す昔懐かしのロッキングモーションだった。
「これで……」
倒した勢いで上体を大きく起こし、薄い胸を張った。そして足をねじ切りそうな勢いで上体を回した。
左腕が弓のようにしなり、指先から白球が投じられる。
「決める!」
時間は少し前にさかのぼる。
「凪ちゃん!打ちなさい!あなたなら大丈夫よ!」
足が2本なく、とうとう直接畳に置くことになったテレビに夏目汀がしがみついている。
宝石がそのまま入っていた眩しい目は、今やひびが入っり、血の模様が描かれている。
ヒステリックに荒げている声や地獄の鬼も真っ青な形相といい、今までの彼女の面影すらない。
「(アドレナリンが血管の中で暴走してるって感じね……)」
しがみつかれるとテレビが見えないが、汀の纏う雰囲気が近づくなと語っている。
大事な試合とは言え、人はここまで変われるものなのか。
「汀姉ちゃん……」
その隣で洋人形みたいな可愛らしい少女が呟いた。表情に変化がなく判断しづらいが、流石に呆れているようだ。
「そんな近くで見ると目悪くなるよ……」
カクッ。少女の斜め上な発言に女性が思わずこけた。そしてたまらず突っ込みを入れる。
「心配はそこじゃないでしょ」
「ほえ?」
渚の額に吸いつくように流れている髪の毛がこぼれ、片目が隠れた。
その小首を傾げる動作が全てを物語っている。女性の口から小さなため息が漏れた。
「……遠いね」
「え?」
先ほどまで頭に3つほどクエスチョンマークを浮かべていた渚がぽつりとこぼした。
突然のことで、女性は内容を上手く理解出来ないでいる。渚が猫の頭を撫でながら続ける。
「汀姉ちゃんは榊選手に投げ勝ったし、凪姉ちゃんはあの一条さんとあんなにまで張り合ってる……」
渚の視線がテレビに必死というより決死でしがみつく汀の方に向いた。
いつの間にか、その脇に無味乾燥な丸い木の棒がもう1本転がっている。渚が薄い笑みを浮かべ、口を開いた。
「……だから遠いの。その場所からも2人からも」
「……」
渚の言葉からにじみ出る別の、そして本音と思われる想い。初めて表情に大きな変化を見せたはずなのに、
痛いほどに伝わってくる儚さ。渚と会ってから、拭えない悲壮感の理由が女性は今判った気がした。
「……?」
しかし渚の言葉からある疑問が浮上した。「その場所からも遠い」というのはつまり……。
「あなたも野球やってるの?」
渚がこくんと小さく頷く。その後に、「辞めちゃったけど」と付け足した。
「……」
女性は固まっていた。凍り付くという表現より、時間そのものが止まったといった方が正しい。
「ええー!?」
その刹那。時間が動きだし、驚嘆の声が響きわたる。と同時に。
「いやー!」
夏目汀の悲鳴が轟いた。2人の言葉が違いながら奇妙にハモった声に渚の体がビクッと震えた。テレビから実況の声が流れる。
「夏目凪三振!神城高校!激戦の末、横浜南を破りました!2季連続で決勝進出!」