丸く切り取られた空にどこまでも高く澄み切った蒼色が広がっている。
その空の頂点を過ぎた太陽が容赦ない夏独特の光を輝かせ、未だに30℃を軽々と越える外気温を生み出していた。
「よっしゃー!勝ったんや!決勝戦や!」
興奮気味にマスクを脱ぎ捨て、マウンドに真奈が大はしゃぎで駆け寄ってきた。尚史も篠原もそれに遅れて駆け寄ってくる。
「……」
しかしあおいは前かがみのまま顔を下に俯けており、電池切れを起こしたおもちゃみたいに全く反応がない。
疑問に思った理奈が恐る恐る訊ねた。
「あ、あおいちゃん?」
反応はない。まるで理奈の言葉が初めから届いてないようだ。理奈がもう1度訊ねようとしたそのとき。
「……て」
「えっ?」
蚊の鳴くような声があおい口から聞こえてきた。よく見ると、体が震えている。
「ああ……はいはい」
尚史が何かを悟り、あおいの前に手を差し出した。
他の部員は何がなんだか理解出来ずに、頭にクエスチョンマークが幾つも浮かんでいた。
「どうぞ」
尚史がそう言って、
「はっはー!」
あおいが尚史の手を渾身の力で叩き抜いた。
クラッカーのような乾いた音が鳴り、その痛みで尚史の表情が歪む。しかしあおいは構わず叩き続けた。
「勝った!勝った!私たち勝ったのよ!はっはー!」
周囲とあまりにもかけ離れたハイテンションに、理奈達は唖然としている。
しかしあおいは一切構わず、ひたすらただ壊れたように喜んでいた。
真奈がマウンドに走っていくのと入れ替わりに、社が打席に立つ夏目凪の元へ駆け寄ってきた。
表情こそは普段と変わりないが、雰囲気から悔しさがにじみ出ていた。
「夏目さん……」
悔しさで涙が零れそうなのを堪え、消え入りそうな声で呼びかける社。しかし夏目はバットをベースに叩きつけたまま動かない。
「くっくっくっ……」
「えっ?」
と、そのとき夏目から奇妙な笑い声が聞こえてきた。
何が何だか判らない社は呆気に取られ、そのまま固まっている。夏目が一気に顔を空に向かって上げた。
「流石よ!凄いわ!だから野球は面白いのよ!アハハハ!」
心配して来た社も後から集まったナインも事の意味が判らず、ただ呆然としていた。
「……早くしてくれよ」
審判達が汗を滲ませながらぼやく。さっさと切り上げたい思いとは裏腹に2人の気味の悪い笑い声で誰も近づこうとしなかった。
「プロでまた勝負よ!判ったわね!」
「もちろんよ!」
目の前で互いに熱い握手が交わされている。
もしバックが夕焼けで場所が土手だったなら、昔の漫画でよくある一場面の再現だ。
試合前はあれだけ貶しあってたのに、終わってみれば友情が芽生えている。
2人とも女性のはずなのに、何故こんなにむさ苦しいんだろうか。いやそれよりも公衆の面前で恥ずかしくないのかあんたら。
「明日は絶対勝ちなさいよ!」
声帯というスピーカーを音量マックスで言葉を告げ、夏目が背を向けチームメイトが待つ先へ帰っていった。
辺りが静まり、涼しげに鳴くひぐらしの声だけが響く。
「……ふう」
騒がしい、人間熱血スピーカーが帰り、今日のことから解放され、ようやく一息つけた。
肩に鉛でも混ぜられたかのように重い。さっさと休みたい。運の良いことに明日は雨らしい。
あれだけかんかん照りだった空が、いつの間にか怪しげな雲が迫ってきている。
「寝よっと」
こんなときこそ寝るのに限る。冷房の効いた部屋で枕とタオルケットをかけ、そして尊と寝る。
最高じゃないか。これは風呂上がりに牛乳系で一杯やるという古来日本の伝統と同じだ。ちなみに俺はコーヒー牛乳派。
「私は少しだけ走ってくる。何か興奮が収まんない」
30分ぐらいで帰ってくるね。そう最後に付け足して、あおいちゃんが雲が迫る方向とは逆に走り始めた。
底なしの体力とはまさにこのことだな。
「いってらっしゃい」
俺はその背中に手を振りながら、そう言った。
玄関で靴を脱ぎ、年期を感じさせる木製作りの廊下を真っ直ぐ進む。
階段を上がり、右に行けば自分の部屋だが、途中開けた部屋で何やら蠢く塊を発見。
ダブルラインのズボンに、白又は黒のTシャツを着た輩、つまりうちの部員が蠅のようにテレビに群がっているのだ。
「なに見てるんだ?」
「決勝の対戦相手の研究」
その中に混じっていた理奈が反応し、こちらを向かずに返答。
非常に素っ気なくて、そして誰も振り向かず、とどめに一言も喋らない。場違いというか、居心地が悪すぎる。
何故そんなに皆必死に見てるのか。それは兄の守の頭に顎を乗せて見ている真奈が答えてくれた。
「あの桜ヶ丘を8-5で破りましたからね。やっぱ研究しておかんと、私らも二の舞になる可能性がありますからね」
なるほどなと適当に相づちを打ってやり、足を階段の方向へ進路変更。そしてそのまま前進。
俺がこれからすることは、皆が研究しているのを邪魔しないように部屋で寝るだけだ。
「コラッ。チームの4番が研究しないでどうする」
しかしそんな都合の良い考えは通用しなかった。子供のように頬を膨らまして怒っているのとは裏腹に理奈の手が
段々と万力のように締め付けてきて、左肩の骨が悲鳴を上げている。ただ右肩じゃなくて、左肩を掴んでいる辺りが冷静だ。
「判った判った。だったら見ていて、まず気になったことを教えてくれ」
その言葉に反応し、理奈が画面に映る選手を指さした。そして少し真面目な口調で喋り始める。
「今指さしてるのが、筧選手。左のオーバースローで、平均球速は大体120k/m台半ばぐらいね。あまり速くないわ」
「技巧派ってとこか?」
テレビの中の筧が投じた球は、内角低めをストライクゾーンギリギリを射抜いている。
しかもキャッチャーが構えたとこに寸分狂わずだ。
「その通り。しかも変化球も多彩ね。1個1個は大したことないけど、厄介なのは変わりない」
理奈の考えは最もだ。決め球を持たないということは、狙い球が絞りにくい。かなり打ちにくい投手だろう。だが……。
「大したことはないな」
それが俺の率直な感想だった。コントロールが良いのは確かに厄介だが、1つ1つの変化球、球速に驚異はないということ。
明らかに夏目の方が遙かに手強い。
「余裕みたいね。もう先に行くわよ」
「先?」
理奈がテレビのリモコンのボタンを押した。画面の選手達が忙しく動き始め、回がどんどん進み、点が入っていく。
回りにいる篠原達が何か言いたげな顔だが、無視することにする。
「2人いるのか?」
「うん。まあこっちの方が怖くないけどね」
再生ボタンを押し、恐ろしい早さで動いていた時が平常に戻った。回は8回。スコアは5-5と同点。
マウンドにナインが集まっており、筧がリリーフピッチャーブにバトンを渡している場面が映し出されている。
「……なんだ?」
エースの筧と比べてかなり小さく、そして体つきもピッチャーにしてはかなり華奢だ。
威圧感の欠片も感じられない。可愛らしい雰囲気が漂っている。
「だって女の子やし」
と、そこへ今まで黙っていた佐々木兄が口を開いた。微妙に辛そうなのは、きっと気のせいではない。
「この娘は普段センター守ってて強肩なんですが、ピッチャーではそれが生かし切れてない感じみたいです」
続いて佐々木妹の丁寧なご説明。逆に妹は心地良さそうな、銭湯に入ってるような、
とにかく普段見せない伸びた顔になっている。キャラが違うぞ。……佐々木兄も同じだが。
「……」
理奈が親友を見て、言葉を失っていた。こいつですらこんな間抜け面は初見だったようだ。
「……とりあえず1回見ようか」
「……だね」
少し早送りし、桜ヶ丘のバッターが入ったとこで再生。佐々木妹が言ってた通り、背番号8をつけている。背は160cmぐらい。
肩につく綺麗なセミロングがゆらゆらと揺れている。
顔にはそばかすが少し散っているが、それも相俟って可愛さが引き立てられてるように思う。……ちなみに好みではない。
「草薙のどか。ここまで7回登板して、7失点。毎試合失点してるみたいよ」
と言っても、かなりの点があってだけど。理奈がそう付け足した。つまりセーブして投げた結果とでも言いたいのか。
「……まあいい」
話を聞いてる限り、油断しなきゃ十分いけることがよく判った。
ただあの桜ヶ丘相手に8点とるということは、敵打線はかなり強力みたいだ。
理奈も大差で勝ってきたと言っている。鍵となるのはうちのエースか。
「そういや一条は?」
佐々木兄の横で寝そべった黒崎が奇妙なタイミングで訊ねてきた。思考を読みとったか?
「30分ぐらい走ってくるとかでどっか行った」
そう返すと、黒崎、いや聞いていた皆の当然の反応。
「……元気だな」
「元気ね」
「体力ありすぎやろ……」
ため息混じりな感想。何ていうか、完全に呆れている。いや普通はそう思うだろうが。とりあえず彼女の心配は無用らしい。
「……寝るべ」
立ち上がろうと、理奈の肩を借りようとした時、引き戸が古い音を立てて開いた。その先にはあいが立っている。
「尚史さ……あ、いた」
あいがパチンと胸の前で両手を合わした。パッと表情も明るくなり、いつものタンポポの綿のような優しい微笑み顔になる。
たかだか見つけただけでこんだけ嬉しいということは、よっぽど探してたらしいな。
「どうした?」
「電話ですよ。ただいなかったから、掛け直さないとだめですけど」
外にいたときに電話がかかってきたらしい。
そしてあいは時間を見計らって探して始めたが、中々見つけられなかった……と勝手に推測。
「電話?相手は?」
「夏目渚ちゃんです」
……何故?思わず声に出そうになるが、とりあえず喉の奥に押し止めた。
俺はあの娘に何かしたか?恥ずかしさに耐えながら、俺の背に隠れてたのに。
もしかしてお持ち帰りしたいとか、猫耳つけたいとか疚しいことを思ったからか。いやもしやこれは……。
「フラグ?」
「バカなことを言ってないで、さっさと電話してあげてください」
微笑みが気づけば、呆れ顔になっている。当然といえば当然だが。
「んで……番号は?」
「えっとですね……」
あいが11桁の数字をゆっくりと読み上げていく。俺もその数字を間違えないように打っていく。
あいに打った番号を確認し、通話ボタンを押した。無機質なコール音が響く。
たった数十秒なのに、このときだけ世界の時間が遅く流れているような気がする。
「はい。夏目ですが……」
時間は少し戻り、尚史が理奈に肩を握りつぶされそうになっている頃、
あおいは意気揚々に、地面を軽やかに蹴り上げながら、己の道を進んでいた。
「う〜ん……あと100球は投げれそうね」
あの炎天下の中の130球以上にも渡る投球、そして緊迫した試合直後というのに、その溢れてくる体力は一体何なのか。
自分を1番よく知るあおいですら、ある意味怖かった。
「明日雨で延期になったら、明後日には疲労が完全になくなってたりしてね」
いや寧ろそうなって欲しい。そうすれば決勝で良い投球が出来るはず。
優勝だって余裕。いやそうでなくとも余裕だ。早く投げたい。
……普段のあおいならそうやって、燃え盛るはずだった。なのに、あおいの雰囲気が終わりかけの花火ように静まっていく。
「……もういいかな」
あおいの足取りが段々ゆっくりとなり、そして止まった。表情に陰りが若干見られる。
「……お姉ちゃんと結城君が昨日から凄く仲良くなってる気がする」
興奮が収まらないというのは真っ赤な嘘。本当は1人で考える時間が欲しかっただけ。
あおいはガードレールに腰掛け、そして首に巻いてあったタオルで顔を拭いた。
「……お姉ちゃんは結城君が好きなんだよね」
前々から判っていた事実。そして最も辛い事実。もちろんあおいはあいが嫌いなわけではない。
この世で数少ない心を許せる人で、幼い頃から迷惑も大量にかけてばかり。
だから、姉が好きな人といれるのならそれで構わない。
「(……)」
あおいは思う。世界、いや日本だけでも異性は大量にいる。
だがその内の同じ人を姉妹で好きになった。神様は意地が悪い……と。
「(ううん……お姉ちゃんと結城君ならお似合いだもんね。誰の目から見ても)」
陰っていた表情が笑顔に変わる。自嘲に近い、強がりな笑顔。そのとき、あおいはある言葉を口にした。本当に自然と。
「パートナー……」
それはかつて尚史があおいに向けて送ったもの。
でもそれは、野球でのパートナーという意味。ただの仲間としか見られていない。
――仕方がないから。
――仲間と言ってくれたから。
仲間と呼べる人がいなかったあおいにとって、それは荒れ地に芽生えた花のようなもの。
乾ききった世界に水を与えてくれた。だが心がそれ以上を望んでいる。頭では判っている。
でも胸が擦りむいたように、血でも滲んでいるかのようにズキズキと痛む。
だからあおいは再び走り始めた。これ以上考えるのを拒否したい
から。
「とにかく……明日も勝つ!」
あおいが叫ぶ。まだ人通りは少ないとはいえ、それなりに注目を集めている。
が、今のあおいには関係ない。とにかく過去も恋愛も何も考えたくない。ただそれだけ。
――なのに神様は残酷だった。
視界のかなり先に佇んでいる人がいる。
――おかしいでしょ。
その佇む人は。
――なんで君がいるの。
セミロングのそばかす顔の少女だった。