第20章
記憶、罪、そして別れ





夏の空が茜色に染まり始めていた。太陽は尾根の方へ傾き、昼間とは違う輝きを放っている。

公園の木々も黄色く、穏やかに吹く風は少し涼しさを含んでおり、葉の擦れ合う音が響く。

人通り自体は無いに等しく、近くの家の夕飯の匂いだけが漂う。その公園の入り口。俺はよく判らないままにいた。

「ヒック……ヒック……」

どこからか鳴き声が聞こえる。声の方へ目を向けると、砂場に少女がうずくまっていた。

隣には少女と同じぐらいの少年が立っている。

「おい……」

声をかけようと足を動かそうとしたが、その感覚がない。

重さで動けなくなってるとかではなく、初めから存在していない。その代わりに視界が一気に2人に近づいた。

「大丈夫?」

少女少女に反応はない。正しくはこちらに気づいてすらない。どうやら声も出ないらしい。

あるのは意識だけ。まるで映画を見ている感じだ。

「大丈夫……?」

ちょっとした騒音で消え入りそうなぐらいの少年の声に女の子が顔を上げる。

くりくりとした大きな瞳から涙が止めどなく零れ、頬を伝う。その様子に少年は驚きも臆する様子もなく、

ただ無機質な表情で少女を見ている。子供ながらその目は冷たく、光沢がない。例えるなら闇。

それだけが支配している。こんな覇気という概念を持たない子供なんて、ただ1人しかいない。

「俺だ……」

間違いなかった。失語症なんじゃないかと心配されるぐらい喋らなかった幼少時代。

幼稚園でも先生に心配され、危うく精神科医に行かされそうになったぐらいだ。

……まあ、だからこんな変人に育ってしまったわけで。

「もう……やだよぉ」

色々と思い返している間に、2人の話が進んでいた。何も出来ない俺はその話に存在しているか判らない耳を傾ける。

「どうしたの……?」

無機質で機械みたいに感情が見えない。心配の言葉もこれでは意味を果たさない。

でも俺だから判る。内心はかなり戸惑っている。どうしようと。

「双子だからって……いつもいじめられるの。気持ち悪いって」

少女の真っ白なワンピースは土で茶色く汚れ、さらに膝から血が僅かだが滲んでいる。

少年こと幼少の自分の膝も血が滲んでおり、さらには顔に少し殴られたような痕がある。

恐らくそのいじめっ子達に喧嘩を挑んだのだろう。

「大丈夫だよ……。戦って勝って、もういじめるなって約束したから」

幼少の自分の顔が心なしか笑ったように見える。そして手を少女に向かって差し出した。

「お母さんとお父さんが言ってた。女の子や弱いものは助けろって」

少しだけ……心が針に刺されたように痛む。まだ汚れや闇を知らぬ、純粋でそして家族に囲まれた温かい時代。

もうじき狂った世界がやってくることも知らずに。

「あと可愛い娘は何が何でも助けろってお父さんが言ってた……」

思いがけない言葉にずっこける体はないが、意識だけでずっこけた。……あのクソヒゲ親父が。

子供に何を余計なことを教えてやがる。次会ったときはガチでぶっ殺す。

「いじめられたら……また助けに行くから。ね?」

幼き自分が少しずつ少女の方へ手を伸ばしていく。そして少女は――。









「……」

視界に映る木の天井。釣り下げられた電灯の白い光が覚醒したての目にぼんやりと映る。

枕で変な癖のついた髪を抑えながら上体を起こした。

「夢……か」

今回は珍しく、不快感も苦しさもない。幼い自分の姿を見て懐かしさがこみ上がってくる。

だが逆に不思議感がある。理由は簡単だ。それは所詮夢であること。幼少時代にあの公園にいるはずがないからだ。

「まあ……幼少時代の理想だったということで。さてと」

枕元に置いていた携帯を見てみる。時間的にちょうど飯時。ナイスタイミングだ、俺。

尊も連れていこうと、黒く丸まった尊を抱き抱える。

「……………………ちょっと待った」

あからさまに怪しい薄い毛布が、自分の寝ていた隣で敷かれている。自分が使っていたのはタオルケットだ。

なのに何故、隣にそんなのがある。尊が出したとかそんな馬鹿な話はあるまい。

「誰が……」

一定の間隔で微妙に上下している毛布。それは明らかに人の呼吸のリズム。

気配を感じさせずに隣で寝るとは良い度胸している。

なんか腹が立つから叩き起こしてやる。そしてそれが女の子ならウヒヒなことをしてやる。

「寝てんだー!」

布団をブワッと勢い良くはぎ取った。そこに寝ていたのは……。

「……えっー」

ハムスターのように小さく、そして人形のような愛くるしく整った顔立ち。極めつけはその髪。

背中まで伸びきった髪が床に散らばり、電灯の光を静かに反射している。それは紛れもなく夏目渚だった。

「……ふえ?」

と、年老いた動物みたいにのそのそと体を起こし、ぺたんと座り込んだ。

まだ寝ぼけているのか、目が完全に開いておらず、しかし上目遣いでこちらをボーと見据えている。……上目遣いは卑怯だ。

「……ぇぅ?」

……まだ寝ぼけてんのかと突っ込みたくなる。

が、最初会ったときからそんな感じだった気がする。とにかく何故ここにいるか聞き出す。

「襲うなら今のうちよ」

不意に女性の声が聞こえたような気がする。気のせいか?

「そして猫耳・首輪・尻尾の定番シリーズをつけてあげなさい!」

俺ならスク水を、いや今の制服でもいい……じゃなくて、またしてもどこからか声がする。

しかし目の前にいる夏目渚があんな凛とした口調で言うはずかない。もしやこれは……。

「尊……お前喋れたのか」

「違うわ!このバカチン!」

どこからか轟き渡る怒声。寝ぼけ娘の体が電気に触れたかのようにビクッと反応し、

そして自分の目の前に漫画のような火花が散った。後頭部に波紋のように痛みが広がっていく。

「前にもこんなのあったような……痛い」

頭を抑えていると、ふと夏目渚と目があった。ただその目が開ききってない。

まだ寝ぼけているのかと思ったが、今の感じを見ればどうやら元からそれぐらいらしい。

「大丈夫……?」

そう言って、背伸びして頭に手を伸ばそうとするが、身長差2、30cmあるので全く届かない。

「ぇぅ〜」と唸り、困ったような表情を浮かべている。可愛いなちくしょう。

「で……あんた誰だ?」

渚の頭の上で肌の色素が明らかに異常な女性が浮かんでいる。薄いとかじゃなく、後ろの引き戸とかが透けて見えている。

こういった存在は普通認めないが、目の前にいるのだから仕方がない。

「写メとかに写らんかな」

女性はその言葉に唖然としている。失礼なことだったか。しかしそうではなかった。

「何で驚かないの……」

「え?ああ……寧ろこの娘が制服を着ていることの方がびっくり」

いやリアルに。最近の中学生ってこんなに幼いのかと突っ込みたくなる。最初会ったときは小学生かと思ってた。

「……痛い」

腕に広がる地味な痛み。その理由は先ほどの俺の言葉が許せなかったからだろう。

困った顔をしながら、しっかりと腕に噛じりついている。

「うう〜……」

「悪かった。悪かったから噛むな……痛い」

八重歯が非常に痛い。とりあえず頭を撫でといてやる。頬を赤らめ渚がゆっくりと離れてくれた。

「この娘は中学3年生よ。小学生は失礼よ」

「中学3年……」

あり得ん……じゃなくて、俺が聞きたいのはそこじゃない。

何故この人がいるのか。そして一体何の用なのか。憎き結城武久の血を継ぐ者に。

「俺に何の用ですか」

女性は答えない。その代わり微笑んでいる。その柔らかい微笑みは、あいにそっくりだ。

「あなたに言いたいことがあるの」

「なんでしょうか……」

穏やかな笑みは変わらないのに、何故か嫌な汗が背中を伝っている。

女性の言葉に刺々しさや怒りを露わにしてるわけでもないのに。

たぶん……あいとその辺りが似てるから。あいつの笑みも裏が判らない。だから怖い。

「明日もしっかり頑張りなさい。今はそれだけ」

「……それだけ?」

「今はそれだけ」

「本当に?」

「ええ」

……なんじゃそりゃ。焦って損した。

「まあしいて言うなら……」

女性の視線を辿る。その先はいつの間にか尊をぬいぐるみみたいに抱いている夏目渚。間違っても持って帰るなよ。

「この娘を明日まで預かって欲しいことかな」









私は罪人だった。


私は恨まれても仕方がなかった。


いつまでその罪を背負わなければいけないのだろう。


あのとき、私のたった1つのことで崩れたこの世界。信じていたものが、裏切りの矛先を私に向けて襲いかかってきたのだから。

容赦ない罵詈雑言でいろんな身体の箇所を鋭く射抜かれたような感覚。心は砕かれ、破片も残らない。

鉄を溶かしたようにどろどろとした執拗な悪戯。私を知らない輩も加わって、でも無罪と堂々と表を歩いている。

不条理。そんな辛い世界を私は体験したくなかった。だから……私は転校し、人との距離を置いた。

自分も人も傷をつけながら。意味もなく、ただ不毛に、無駄に、しながら。

だけど……高校は予想外だった。彼との再会が全てが変わった。

辛さもあったけど、楽しさの方が勝っていた。だから私は忘れていった。いや忘れようとした。


でも現実は巡る。そして罰は積み重なる。


もう私は後戻りできない。


いや前に進むことはできない。


ごめんなさい。そしてさようなら。


私のパートナー。


君の秘密を知らなければ、まだ変わらずにいられたのに。


「ごめんなさい……」


私は鉛色の空に向かって、降りしきる鋭い雨の中、ただ一言謝った。




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