青くどこまでも澄み切った空。潮の匂いもする。それはそうだろう。俺は今、波打ち際でランニングをしているからだ。
こういう場所を渚といったか。まあそんなことどうでもいいが・・・・・。
ところで野手なのにどうしてそんなところでランニングしているかって?・・・・・今、俺がいると野球部のムードを悪くしてしまうためだ。
それは何故か。昨日の出来事のせいだ。言っておくが別にしたくてしたわけじゃない。あれは事故なのだ。そうあれは・・・・・事故なのだ。
俺は扉を開けた。まだ誰かいたようだ。その誰かがわかった瞬間、俺は固まってしまった。
あおい「・・・・・」
結城「・・・・・」
しかも目があっていた。俺達の間に嫌な静寂が訪れた。時が止まったといってもいい。俺はドアノブをゆっくりと引いて扉を閉めて一目散に逃げ出した。
振り返ったら死が待っている・・・・・なんて思いたくない。とにかく今は部屋に戻ることだけ考えろ。ここまで必死で逃げるのは初めてだ。
サンマを盗んだドラネコが魚屋に追い掛けられる気持ちがわかるような気がする。いやそれと同じだと思う。
サンマを盗んだわけではないが・・・・・俺はあおいちゃんの―――の姿を見たわけだ。これが嬉しくないわけない。
・・・・・やばい走りながら鼻血が出そうだ。まあそれもそうだが何より髪を解いてたあおいちゃんを見えたことが俺にとって1番嬉しい。
短い時間しか見えなかったがあれは間違いなくかわいかった。だが俺とドラネコの決定的な違いがある。
ドラネコは屋根や細い道へ逃げれるが俺はそうではない。部屋に帰った後、どうすればいいかと考えながら走る。
そのとき俺はドスンという音ともにひっくり返っていた。それはドリフ級の滑りっぷりだろう。そういや俺は今日は運が悪い。
完全に忘れていた。今の俺はそんなこと考えている暇はない。すぐに立ち上がろうとした。・・・・・どうやらゲームオーバーみたいだ。
あおい「・・・・・」
実は途中で道に迷ったのだ。榊さんのことを方向音痴と言っていた自分だが人のことは言えないと思う。
ああ・・・・・あおいちゃんの目、上弦の月だ。ていうか何で更衣室まで一緒なんだ。混浴でも普通別れてるだろと思う。
だが今の彼女にそんな理由は通用しないだろう。この後、当然のごとく叩かれて、ビンタされて、殴られて、暴言吐かれて・・・・・
やられすぎて隣で死神が笑いながら手招きしていたのが見えたような気がする。やっぱり彼女が1番恐ろしいと改めて実感する結城だった。
1人もくもくと走り込む結城。昨日の痛い回想はもういい。頭が痛くなるだけだ。ただ彼女にやらなければならないことが1つだけある。
それはとにかく謝ること。暴言吐かれようがビンタされようがとにかく謝ることだ。事故とはいえ覗いたのにはかわりない。
結城「どうにかして許してもらわないと・・・・・ん?」
誰もいないと思った海辺に1人の少女が飛び込んで来た。
服は無地の白いワンピースでどこにでも売っている普通のサンダル、背丈に不格好な麦藁帽子を被っている。
海を見つめているようだが何か悲しそうな表情をしている。どうするべきか悩む。
話し掛けるべきか、今来た道を引き返すべきか。だがその悩みは無用だったようだ。何故なら彼女から話し掛けてきたからだ。
?「あ、あの・・・・・」
えらく顔を赤くしている。夏だから暑いという理由もあるだろうがこの娘の場合は違うと思う。
?「えっと・・・・・その・・・・・」
なんだかじれったい。知らない人と話すことが恥ずかしいのぐらいわかる。わかるが・・・・・じれったい。
?「か、顔大丈夫ですか?」
・・・・・言うのを躊躇してたのかもしれないな。さんざんビンタとか殴られたりしたから顔は痣だらけだ。
目の周りになんかパンダみたいな痣もできているし。本当は部屋から出たくなかったのだがこれでは合宿に来た意味がないので仕方がなく出たのだが。
結城「・・・・・大丈夫。死ぬほどの怪我じゃないから」
そうですか、と小さく呟きまた海を見つめ始めた。やや強い風が吹きワンピースの裾がバサバサ音を立てて揺れる。
麦藁帽子が飛びそうになり彼女は手で抑えた。
結城「何かあったのか?」
いつもの自分なら人の悩みなど聞かない。もしそれが重い内容であったとき自分の気分を害されるだけだと思っている。
だから今回は自分でも珍しいと思っている。たぶん自分も風呂の件で悩んでいるから同情心がどこかあったのかもしれない。
?「いえ、あの・・・・・その・・・・・」
その娘は下をうつむいてぼそぼそ何かしゃべっている。だがそんな小さな声では結城の耳には届かない。波の音のほうが大きいぐらいだ。
言いたくないのかそれとも恥ずかしいのか。とりあえずこの娘を落ち着かせることのほうが先決のようだ。
結城「落ち着け。とりあえず軽く深呼吸だ」
?「は、はい!」
彼女は一旦胸に手を置き少し間を置いてから大きく息を吸い込んだ。だが置いていた手が吸い込むと同時に上に上がっていく。
吸い込みきったところで体は真っ直ぐ槍みたいな感じになった。僅かだが背伸びもしている。そして吐くと同時に手をゆっくりと降ろす。
この娘のした深呼吸は体育祭とかで見掛けるラジオ体操の深呼吸だ。
ついでに言ってしまえば手を上げるのなら胸に手を置いたのはまったく意味がない。
結城「別に手を上げる必要はなかったんじゃないのか」
?「え!深呼吸って手を上げる必要はないんですか!?」
・・・・・どうやら本気でやっていたらしい。てっきり冗談でやっていたと思っていた。
いやしかし世の中は広いからこの娘以外に間違えている人はいるはず。そう信じたいと思う。
隣でいる彼女は「やっちゃった」というような顔をして舌を出して笑っている。なんにせよこれで落ち着いたと思う。
結城「で、何があった?」
すると彼女の顔から笑顔が消えてまた悲しそうな顔に戻った。ストレートすぎたと反省する。
しかし彼女は風で落ちそうな麦藁帽子を抑えながらゆっくりと言葉を紡ぎだした。
?「私、中学で野球部に入ってるんです。といっても球拾いばかりさせられてますが。
でも親の都合であと1週間ぐらいで石川県の学校に転校するんですよ。でも・・・・・」
結城「・・・・・」
?「なんかレベルが高いとか聞いて・・・・・その・・・・・」
この娘の言いたいことはわかった。たぶんやっていける自信がないのだろう。ここで会ったのも何かの縁。
何とかして自信をつけさせてやろう。ただ自信をつけさせるのであればこの娘の実力を知る必要がある。隣で彼女はまだ言葉に悩んでいた。
結城「ポジションは?」
?「ポ、ポジションですか!?ピ、ピッチャーです!」
なんか凄く慌てているようだ。それもそうか。ずっとその先の言葉を考えていたみたいだし。
とりあえず俺はすぐそこの階段に置いた鞄を取りに行った。風で飛びそうな麦藁帽子を抑えながら彼女はその姿をボーと見ていた。
灼熱のグラウンド。まるで自然のサウナのようだ。神城高校はこのグラウンドを貸し切って練習している。どうやら今はノックをしているらしい。
監督「セカン!今のはもっと飛び込んで捕るんじゃ!」
高橋「は、はい!」
息を切らしながら返事を返す高橋。打球がまた同じようなコースに飛んでくる。高橋は必死に飛び込んで捕ろうとする。
打球はグローブに当たっただけで納まることはなかった。だが監督は「惜しい!じゃが今の感じじゃ!」と大きな声で高橋を褒める。
もう高橋のユニフォーム、いや全員のユニフォームがグラウンドの土で汚れきっていた。汗も滝のように掻いている。
その姿は絵になりそうだ。咲輝とマネージャーの2人はベンチでお茶の用意をしている。そのときフェンスの向こうから声がした。
金網なので姿も見える。綺麗に身だしなみをしている人物。それは旅館の女将だった。
咲輝「どうかしました?わざわざこんなところまで来るだなんて」
ここからそれなりに距離があるのに汗1つ掻いていない女将。しかしよく見るとうっすら一筋の汗が流れている。
女将「いえ、旅館の近所に速水という家がありましてね。そこの娘さんが朝からいないらしいんですよ。
夏場は麦藁帽子をいつも被っているそうなんで帰りにでも見掛けたら」
咲輝「連れて来てほしいですね。わかりました」
女将は「お願いします」と一言言って来た道を帰って行った。麦藁帽子・・・・・。私も久しぶりに被ってみたいと思う。だって夏なんだから・・・・・。
俺は彼女に軟球を手渡した。何故俺が硬球ではなく軟球を持っている理由。
それは壁を使った1人キャッチボールなどのとき硬球では煩いしあまり跳ねない。軟球ならよく跳ねるしそんなに音も響かないから持っている。
ただ跳ねすぎて時々人の家の敷地に飛び込んでしまうが。でも彼女は軟式野球をだから大丈夫と言ってくれた。
俺は少し離れて座りグローブを構える。キャッチャーミットを持ってないので仕方がなくグローブだ。
結城「何が投げれる」
まず球種を知っておかなくてはいけない。まあ中学生だから投げれたとしてもカーブぐらいだろう。中一ならそれで充分だ。
?「カーブだけです・・・・・」
また小さな声で言った。だが今度は聞き逃さなかった。カーブだけ、やはりな。とりあえずそれは後回しにして先にストレートを投げてもらおう。
結城「じゃあまずストレートを頼む」
彼女は麦藁帽子を風で飛ばないようにグローブの入っていた鞄で抑えていた。
聞いていないなと思ったが「は、はい!」と慌てているような声が返ってきた。
?「い、行きますよ・・・・・」
俺はミットをど真ん中に構えている。正直なところ、あまりストレートは期待していない。中一のストレートだ、そんな凄くないはず。
そう思っていた。だが俺の予想は半分当たって、半分外れた。彼女の投法はノーワインドアップアンダースロー。
だが彼女のアンダーはリリースポイントが普通ではなかった。まさに地面スレスレといったところだ。
プロ選手で例えるなら当然渡辺俊介だ。そしてそのフォームは完璧でそれ故に美しい。
結城「(こ、この球は!)」
地面スレスレから投じられたストレート。その球は浮き上がって来た。
アンダーといのは球が浮き上がって来ることにより打者は打ちづらくなる、というのはよく聞く。だがそれは所詮錯覚だ。
少なくとも俺はそう思っている。だがこの娘のストレートは球速こそ遅いものの球が間違いなく浮き上がってきている。
それも半端ではない。俺はミットを球道に合わせて動かしギリギリキャッチした。
?「ど、どうですか?」
もしこの球をけなせるやつがいたら逆に見てみたい。俺はボールを投げ返すと同時に「ナイスボール。じゃあ次はカーブを頼む」と言ってやった。
ボールを受け取り握りを変える。上の縫い目に2本の指を、下の縫い目には親指をかけ「い、行きます!」と大きな声を出した。
俺はミットを構える。今、彼女の手元からボールが離れた。小さな孤を描きながら曲がっていく。はっきりいってこれは棒球に近い。
彼女がさっきと同じように「ど、どうでしたか?」と聞いてくるので俺はなるべくオブラートに包んで答えた。
結城「あんまり曲がってないな」
?「そ、そうですか・・・・・」
彼女は肩をがっくりと落とし「ハァ・・・・・」とため息をついた。
なんだかなぁと思った俺はどういう風にカーブを投げているのか見てみることにした。
じゃあ誰がキャッチャーをやるかって?当然壁がキャッチャーだ。しかしピッチャーを辞めた俺がまさかコーチなぞやるとは思わなかった。
まあ・・・・・それはそれで楽しいが。それに俺にはある考えだってある。彼女に自信つけさせるためのな。
まあ・・・・・夕方になればわかることだ。1度結城は海の方へ振り返った。結城達の練習風景を穏やかな海が見ている。
夏だな・・・・・と一言呟き、また彼女の方へ振り返った。