第10章
青年、少女再び





雲一つなく、青空が晴れ渡る朝。最近まであった淡いピンク色の並木はなく、鮮やかな緑色の並木へと変わっていた5月上旬。

今日の天気予報によると、全国陽気日和だとか言っていた気がする。だが、昨日1日中寝ていた俺には関係ないな、と思う自分が今とある喫茶店にいた。

尚史「やっぱ兄さんの入れた珈琲は一味違うな。普通より苦い」

褒め言葉になっていないことを言いながら、熱そうな珈琲を啜る。その前には優しそうな男が、肘をついて、16歳の少年をやや不満気な顔をして見ていた。

年は20代前半。白髪で、青いエプロンをつけている。彼の名は結城啓一。結城尚史の1番目の兄である。

啓一「ただで飲ませてやってんだから文句言うなよ」

尚史「感謝しております」

財布の中は野口英世が3枚ある。珈琲1杯ぐらいなんともないが、やはり勿体ないので、兄弟だからタダにしてくれとお願いしたのだ。

なんだかケチ臭い気もするが・・・・・。とにかく、今日は日曜日。本来なら、練習はある。

だが、監督の今井俊彦が、ゴールデンウィークだから休みにするから各自自主練を怠らないように、ということでゴールデンウィークの練習はなくなったのだ。

まあ、自分が遊びたかっただけに違いないだろうが。

啓一「しかしお前も暇な奴だな。こんな小さい喫茶店に来るなんて」

珈琲をゆっくりと受け皿に置いた。ガチャという小さな音を立て、中の珈琲が波を立てる。

尚史「金があれば、街にでも行ってるよ」

尚史がそう言って、

啓一「それもそうか」

と、啓一が頷いた。

尚史「なんか起きないかね。例えば、久しぶりに知り合いに会うとか」

また尚史がそう言って、

啓一「ないない」

と、軽く首を振ってそれを否定した。確かに、こんな人通りの少ないへんぴな所に、知り合いが来るはずがない。

ましてや、人とあまり付き合わない結城尚史だ。さらにその確率は低いに決まっている。当然ながら、それは本人もわかっている。

わかっているが、やっぱり暇なのか、言葉にしてしまう。なんだが、それが妙に悲しい気がしてならないと、尚史は残り少ない珈琲を口にして思った。

啓一「いらっしゃいませ」

入口の上についている古びたベルが、静かな音をたてて鳴った。入って来たのは、かわいらしい少女1人だけ。

片方の髪をゴムで束ねており、背も低い。どう見ても小学生にしか見えない。

尚史「・・・・・」

尚史には、この少女に見覚えがあった。1年のときに、浜辺をランニングしていたときに出会った小学生と間違えそうな中学生の女の子だ。確か名前は・・・・・。

尚史「・・・・・速水?」

速水と呼ばれた少女が、ビクッと体を震わせ、尚史の方を向いた。すると、少女の顔が少しずつ驚きの表情へと変わっていった。

みずき「結城・・・・・さん?」

尚史「どうしてここに?」

みずき「ゴールデンウィークですから、戻ってきたんですよぉ」

尚史「・・・・・」

冗談交じりで言ったことが、本当に起こってしまった。世の中何があるかわからないな、と思う尚史だった。









啓一「はい・・・・・質問」

尚史「はい、啓一兄さん」

啓一が手を上げた。尚史は、学校の教師みたいな口調で啓一を名差しした。

啓一「どうして俺はバットを持ってるんでしょうか。教えてください」

まさに教師に質問する生徒みたいな啓一。

尚史「速水の球を見てほしいからですよ。兄さん」

当然ながら、生徒の質問に答える教師みたいに答える尚史。

啓一「・・・・・店あるんだけど」

やや顔をひくつかせている啓一に対して尚史は、

尚史「客来てないからいいじゃん」

と素直に答えた。啓一はこれ以上言っても無駄とわかったのか、ハァとため息を1つついて、バットを構えた。

みずき「も、もうな、投げていいですか?」

頬を林檎の様に赤くして、言葉を紡ぐみずき。言葉を詰まらせたのは緊張しているせいだろう。

尚史「ストレートからどうぞ。兄さんも遠慮なく打っていいからな」

教科書通りの構えをしたまま、初めからそのつもりだ、と答えた。尚史は、啓一に気付かないぐらいの声で、打ってるものならな、と呟いた。

みずき「(はわわぁ・・・・・大丈夫かなぁ)」

内心心配気味のみずき。体を硬く動かしながらも第1球目。右バッターにとっては外角高めのストレート。

左バッターの啓一にとっては、内角高めになる。だが、コースがやや甘い。

啓一「(遅い・・・・・ん!?)」

みずきの球が尚史のミットに納まり、啓一のバットが勢い良く空を切った。バットの軌道、そしてボールの軌道から言えば合っていた。どんぴしゃだ。

だがボールはさらに上に伸びて、バットを掠らすことすらさせなかったのだ。

啓一「(なんだ・・・・・今のは・・・・・)」

さっきのみずきの球に脱帽する啓一。

尚史「(やっぱ凄いわ・・・・・)」

みずきの球に、改めて感心する尚史。

みずき「(す、凄いスイング・・・・・当たったらどこまでいくのかな?)」

啓一のスイングに背筋が凍るみずき。3人のそれぞれの思いが、募る中の第2球目。左バッターにとっての、やや高めのアウトサイドの球。球速もさっきより遅い。

啓一「(ボー・・・・・いや!)」

ベース付近にくると、みずきの投げた球が、まるで意志を持ったかのように曲がり始めた。啓一は慌ててバットを出す。だが・・・・・。

啓一「(なんだと!)」

かなり下の方でバットを出した啓一。だが、これもみずきの球がバットの下を通った。

つまり啓一が予測した位置より、さらに曲がったわけだ。予測出来なかったのは、啓一だけではない。

尚史「(なんつー変化だ。あんなの捕れるかよ)」

ボールは尚史のミットに弾かれ、横に転がっていった。どうやら前より変化しているらしい。

尚史「最後は低めのストレート頼む。どうせ、兄さんじゃ打てないし」

ニヤニヤと嫌みな表情を浮かべる尚史。無言で顔をひくつかせる啓一。顔を真っ赤にして固まっているみずき。

さっきと似たような状況からの第3球目。地面スレスレから繰り出される、まさに地を這う様なストレート。

啓一「(本当にストレートかよ・・・・・いただきだな)」

上から叩きつける様にして、それを打ちに行く啓一。だが・・・・・。


(カン!)


軟球が真っ直ぐ、そして高々とキャッチャー頭上に打ち上がった。キャッチャーファールフライ。

尚史は落下点に入り、ミットを構えた。キャッチャーフライ独特の球道で軟球が落ちてくる。だが、尚史はこれを難なく捕球した。

尚史「どうよ?あの娘の球は」

そう言いながら、ミットに納まっている軟球を、そのまま上下にポンポンと跳ねさす尚史。

啓一「驚いた。中学生ながら、あんな凄い球を投げれるとはな」

神妙な面持ちで、バットを見つめながら、答える啓一。

啓一「(この娘なら・・・・・)」

何を決意したのか、啓一はみずきのいる所まで歩み寄った。それに驚いたのかみずきは1歩後退りした。

啓一「凄いな〜。え〜と・・・・・」

名前が出てこない。小さい頃から、人の名前を覚えるのが苦手なのだか、ただ物覚えが悪いだけなのかもしれないと今頃になって思う。

みずき「は、速水みずきです・・・・・」

ボソボソと自分の名前を答えるみずき。とにかく、ビビりまくりである。

啓一「みずきちゃんだね。これから何か用とかあるかな?」

尚史「・・・・・」

兄さんのあの笑顔を最後に見たのは、いつだっただろうか。野球が出来なくなってから兄さんが笑うことはなかった。

それはそうだろう。ドルフィンを完成できぬまま、選手生命が終わってしまったのだから。

尚史「(よかったな、兄さん)」

だが、この速水みずきという少女が兄さんに希望をもたらしてくれた。兄さんでなくとも、才能と兄さんのコーチさえあればドルフィンは完成する。

あの世界のホームラン王、王貞治の一本足打法だって、強靭な足腰があり、荒川コーチの教えがあって完成させたものであり、

去年ジョージ・シスラーの持つメジャー最多安打を更新した、イチローの振り子も新井コーチがいたからこそ出来たものだ。

そういったものは、全て元々の才能があり、そしてコーチと2人3脚を歩いてきた者ばかりだ。だからドルフィンも必ず完成する。俺はそう信じたい。

尚史「(ここにいては、兄さんの邪魔になりそうだ)」

そう思った俺は、軟球の入ったミットだけを置いて、兄さん達に気付かれないように空き地から出ていった。

尚史「(速水・・・・・頑張れよ)」

ドルフィン復活。今の尚史にはそれしかなかった。




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