第11章
715号男の息子





5月5日。この日を端午の節句とも言うし、子供の日とも言う日だ。まあ、何にせよ子供にとっては嬉しい日だ。

そしてこの日、ある選手が野球をやっている子供達に、その日に相応しい最高のプレゼントを、この徳島営鳴門総合運動公園野球場で用意していた。

「ここまでの3打席連続三振ですが、この打席は非常に粘っております」

左打席に入っている、後ろ髪がやたら長く、やや灰色がかった色をしている。

その選手の名は、結城武久。

今年で23年目を迎えているが、現時点で打率.353 本塁打8 打点19とタイトル争いに加わっているという、まさに最強のベテランだった。

武久「(いっちょ、おもしろいことやってやるか)」

ヘルメットを弄り、足場を固めると、武久はバットをライトスタンドへ向けた。例え野球を知らない者でも、この意味を知らないものはいないだろう。

な、なんだ〜〜!?結城武久!バットを高々と上げて、ライトスタンドへと予告ホームランだーー!!

球場が騒然となる。相手投手の目付きが突如鋭くなる。テレビの視聴率もたぶん上がっている。

どれも武久にとっては予測済みであり、逆にこうなることを狙っていたぐらいだ。

井川「(ナメんなや!おっさんよぉ!)」

10球粘られている井川。とうに110球を越しているが、武久のやったことに腹を立てたのか、疲れなどどこかへいってしまったようだ。

その代わり、制球力と平常心を失せてしまったようだが。

矢野「(慶!熱くなり過ぎや!)」

だが、矢野が思ったときにはもう遅く、井川の手からは白球が投じられていた。コースは左バッターにとって、顔面近くのボール球。

インコース寄りに立っている武久にとってはかなり危ないコースだ。

武久「(いいぜ、いいぜ〜。慶ちゃんよぉー!)」

だが武久は、待っていましたといわんばかりに、バットを無理矢理出し、強引に打ちにいった。

カーン!と気持ちの良い音を立て、白球がライト方向へと高々と上がる。中村紀洋みたいにバットを勢い良く放り投げ、その様子をじっと見つめていた。

武久「(決まったな)」

打球は綺麗な孤を描いて、ローカルズファンで埋め尽くされたライトスタンドに飛び込んだ。そして球場がお祭り騒ぎになった。

入ったーー!ライトスタンドへ今シーズン第9号サヨナラホームラーーン!ベーブ・ルースを抜く715号はサヨナラホームランだーー!

敵味方関係なく沸き上がる両スタンド。ベンチから飛び出るローカルズの選手達。

そして、両手を広げてダイヤモンドを回る武久。1塁、2塁、3塁とゆっくりとベースを踏み締め、ローカルズの選手達が待つ本塁へと向かう。

武久「(まさに最高の時だな。今まで打ったホームランの中で、これほど気持ちの良いホームランはない)」

ホームベースをしっかりと踏みしめ、帽子を取って大きな花束を抱えた。そして、武久は観客席の方へ一礼をした。

すると、ただでさえ騒がしかった球場が、さらに騒がしさを増した。しばらくこの騒がしさは消えないと武久は思った。・・・・・それも予測済みだが。

武久「(しかし、もう少し早く工事に取り掛かって欲しかったな。坊ちゃんスタジアムはフェンスが案外高かったから、

普通ならホームランがツーベースになった当たりが何十本もあるし。ここならフェンスが低いからもっと早く715号を達成していたはずだ)」

ローカルズの新本拠地、徳島営鳴門総合運動公園野球場。この球場は、県内のメイン球場だが、照明設備が不十分により、プロ野球では使われなかった。

そして去年の夏の大会終了後、香川、愛媛、高知に1歩遅れて、グラウンド拡張工事が行われ、両翼92mが99mに、中堅120mから121.9mにまで拡張された。

また、ナイターでの開催も可能にするため、照明設備の改修も同時に行われ、完成した。だが、フェンスの低さは変わらないが。

武久「(まあ、いいか。715号出たし。次はハンク・アーロンか。気が遠いな・・・・・)」

ハンク・アーロン。それは、王貞治が抜くまで、世界記録保持者だった選手。23年間で755本もの本塁打を放った。

この記録を越えるのには、あと41本必要である。もし、今年でこの記録を越そうと思うのなら、今、打っている分も合わせて50本。

本塁打王を軽く取れる本数を打たなくてはならない。40歳を越える武久にとっては、かなり難しい数だ。だが・・・・・。

武久「(・・・・・めんどくせぇから、今年打っちまうか)」

今、彼らしい答えが出たようだ。かなり不純な理由たが・・・・・。

5月5日。世界を驚嘆させた1つの記録が達成された。同時に、もう1つの世界を驚嘆させる記録への挑戦が始まった。









「・・・・・」

小さなテレビの方を向いたまま3人が固まっていた。ここはある青年が勤める喫茶店である。

テーブルには氷の入った珈琲が2つ置かれていた。1つは半分ぐらい減っており、もう1つはまだあまり減っていない。

啓一「とうとうやってしまったな・・・・・」

尚史「ああ・・・・・」

榊「凄いお人だ・・・・・」

普段、多少のことでは驚かない尚史。だが、今回は流石に衝撃を受けたみたいだ。

榊「しかし・・・・・凄い父親を持ちましたね、啓一さん」

まだ半分以上残っているアイス珈琲をすする。量が減るたびに氷がカラカラと音を立てる。

啓一「あれで家族思いだったら良かったけどな。なあ、尚史」

中身がなくなってもまだ尚史は、ストローで吸っていた。啓一の声など聞こえていないみたいだ。

啓一「・・・・・尚史?」

尚史「え、ああ」

やっと声が届いたのか、慌てて前を向く尚史。しかしどこか元気がない。

啓一「まあ・・・・・お前が1番の被害者でもあるしな」

尚史「・・・・・悪いけど帰らせてもらうよ。なんか疲れた」

榊「じゃあ、僕も」

そう言って、尚史と榊は席を立ち、硬貨を何枚かテーブルに置いていった。

榊「啓一さん。またいつか」

啓一「またいつでも来いよ」

やや古ぼけた音を出して、ドアが閉まる。グラスに入った氷がまた静かに音を立てた。

啓一「さてと・・・・・珈琲でも入れるか」

テーブルに置かれている珈琲カップを大きくした様な入れ物。その中で、珈琲が波打っている。

それを手に取り、小さな珈琲カップにゆっくりと入れた。そしてカップを持った。

啓一「・・・・・未来の王貞治、未来の金田正一に乾杯・・・・・何てな」

誰に言うわけでもない。ただ、榊、そして尚史への切実な思い。そして、希望。珈琲をゆっくりとすすり、啓一は1つ息をついた。夕暮れの喫茶店ことだった。




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