第2章
黒猫と偶然





雀が活発的に動く、夏の朝。カーテンの隙間から朝日が入って、少年の顔を照らす。まだ6時15分というのに空が薄黄色く、青空が広がっていた。

尚史「暑い、熱い、厚い、篤い、温井・・・・・」

寝汗を掻き、ぼそぼそ呟きながら、尚史がゆっくりと寝返りを打った。しかしその30秒後、とうとう暑さに耐えられず、ガバッと勢い良く起き上がった。

長く、真っ直ぐな髪の毛におもいっきり寝癖がつき、おまけにTシャツが汗でびっしょり濡れていた。

尚史「仕方がない。軽く風呂入ってくるか」

ハァと一つため息をつき、めんどくさそうに部屋のドアを開けた。同時に尚史の長い宿泊が始まった。









啓一「客がほとんどいないな・・・・・」

尚史「しかし、どっかで見たような気がする・・・・・」

2人は海が見える、阿武名位(あぶない)旅館に来ていた。いつも客が少なく、床や壁がボロいので、いつ潰れてもおかしくない。名前の通り危ない旅館である。

啓一「玄関は流石に綺麗みたいだな」

女将「いらっしゃいませ。御予約された、結城啓一様ですね」

玄関に入るとすぐに、この旅館の女将が、温かく出迎えてくれた。

どんなにここがボロくても、お客への心遣いはよかったみたいだ。2人はすぐに部屋へ案内され、そこで色々と説明を聞かされた。

それから2分後、女将が、ごゆっくりと丁寧な口調で言い、開けていた障子を静かに閉めて、出て行った。

尚史「で・・・・・これからどうするよ」

自分の鞄を枕代わりにして、寝っころがりながら、啓一に尋ねた。

啓一「まあ、あとはご自由に。飯までに帰ってこいよ」

啓一は、鞄に入っていた1冊の本を取り出し、それを読み始めた。尚史は、じゃあ遠慮なくと一言呟いて、部屋を出て行った。

気温が上昇している朝の10時のことだった。









尚史「やっぱ見たことあるんだよな・・・・・」

尚史は、家族やカップルで賑わっている海に来ていた。といっても、尚史自身は高いところから、それを眺めているだけだが。

尚史「あ〜・・・・・暇だ」

じゃあ泳げばいい、普通ならそう思うだろうな。だが、男1人で泳ぐのは、あまりにも空し過ぎる。

だから、俺は水着を旅館に置いてきた。ちなみに財布も置いてきた。・・・・・中身があまりないからな。

尚史「このまま海を見ていても・・・・・な?」

今、確かに何かが後ろを通った気がする。これは、勘違いではないはずだ。というわけで振り返ってみる。

尚史「あ・・・・・」

尚史は、黒い何かを確認した。その黒い何かは尻尾を水平に、我が道を行くといった感じで、近づいてくる人に臆せず、堂々としている。

首輪はしていない。早い話、野良猫、しかも黒猫だ。

尚史「黒猫か・・・・・。たぶん猫の世界も大変なんだろうな」

もし猫と会話できたら、そういうことを聞く気がする。もっと聞くことはあるのだろうに。

自分はそういう男なんだから仕方がないと、無理矢理納得させる。そんなことを考えているうちに、腹が小さな音を立てて鳴った。

腕につけている、安っぽい時計を見てみる。時刻はちょうど11時を指していた。ここに来たのが10時20分頃。

つまり40分ぐらいぼーとして、無駄な時間を過ごしたのだ。この先もこんな感じで過ごしていくのか、と考えるだけで妙に心が痛くなる。

尚史「・・・・・気分ばらしに、もっと遠くへいってみるか」

知らない土地を歩き回るのは、方向音痴の俺にとって辛いが、道が1本しかないので、まず迷うことはない。まあ、榊さんみたいなことはないだろう。

尚史「面白いものでも見つかればいいな」









歩き出してから10分後、近くでどこかで聞いたことのある金属音と気合の入った声が聞こえてきた。尚史は足を止め、どこから聞こえてくるのか、耳を傾けた。

尚史「こっちだな」

聞こえてくる方に体の向きを変え、再び歩き出した。そして5分後、どこかで見たことのあるところへ着いた。

尚史「グラウンド・・・・・」

高さ10mほどのフェンス、綺麗に慣らされたグラウンドの土。監督らしき人物が放つ白球を無我夢中で追い掛けるユニフォーム姿の若い男達。

しかも、そのユニフォームもどこかで見たことがあるのだ。

尚史「上着とズボンが白で、帽子が黒・・・・・。うちのユニフォームとそっくりだな」

しかし、それだけでは終わらない。少し右へ行くと、プルペンがあった。そこで投げ込んでいる3人のうち、1人が髪を束ねているのだ。

どこからどうみても女の子だ。尚史が知っている中で、徳島で女でピッチャーをやっているのは、ただ1人しかいない。

尚史「速い球投げるな。うちの球団に来ないか、童顔少女さん」

軽く冗談を言いかまし、髪を束ねた少女に話し掛けた。少女はムッとしたような表情で、尚史の方へ振り返った。

だが、そのムッとした表情は、驚きの表情に変わった。それは受けていた真奈も同じことだった。

あおい「結城君!?

真奈「先輩!?

尚史「静かに。全員に、ここにいるのがバレたら、後々面倒だからな」

尚史はそう言うと、そこからグラウンド全体を見渡した。その目には、監督にしごかれている1年坊。

トスバッティングをしている理奈、篠原、高橋他。ランニングをせっせとしている西条、和木・・・・・。

練習を必死に取り組み、そして確実に技術が上がっていっているのが、よくわかる。それを見て、思わず尚史から笑みがこぼれる。

尚史「いい感じだな。これなら、俺抜きでも戦えるな」

真奈「それでも、戦力の低下は否めへんけどな。不動の4番がおらんようになりましたね」

あおい「どうせ、いなくても変わらないよ」

あおいはいつものように、ムッとした顔で答えた。尚史は少しからかいを込めた返事を返す。これがいつものパターン。

尚史「相変わらずキツいな。試合中に、抱かれてたくせに」

からかいの返事を返すと、彼女はかなり慌てる。それを見るのが面白い。

あおい「あれは熱射病になってたし・・・・・って、抱いたのはあんただしょうが!私は倒れかかっただけだし!

1人で赤くなって、1人で困って、最後には俺に怒る。俺にとって、もはやおなじみ。だが、このからかいも最後になる。

彼女と話す機会は、野球部以外でまったくない。これからは、家で理奈をからかうしかないのだ。

だが、あいつはそれなりに大人びているから、からかえないだろうが。

尚史「まあ、とにかく秋の大会頑張れよ。そのときは、俺も応援にいくから。そんじゃあな」

左手をポケットに入れ、右手を軽く振って、グラウンドに別れを告げた。金属音と監督の怒鳴り声は、いつまでも響いていた。









尚史「海が綺麗だ」

黄金に光る海。静かに打ち寄せる波。尚史はそのすぐ側の石垣で腰掛けていた。

現在、午後6時20分。この時期の太陽は、沈むのが大変遅く、7時でも完全に暗くはならない。

尚史「かなり落ち着くな。いっそうのこと寝てやりたいぐらいだ」

ここに来たのは、海を見に来たのでもなく、暇つぶしに来たのでもない。

今までのこと、そしてこれからのことを考えるためだ。それで、少しでも落ち着く場所がここだったのだ。

尚史「(何か俺の野球人生って、いつも怪我に悩まされてたよな)」

初めて怪我をしたのが、小6の最後の大会前日。監督に隠して、無理矢理出場したが。

次は中1のとき。練習中にデッドボールを足に食らって、2日間練習禁止に。

その次は中2のとき。唯の事件が部員に伝わり、色々あって両肩と肘を負傷。特に、左肘が重傷だった。

そして次が中3の大会中。それなりの無理が祟り、右肘に違和感。大会が終わるまでは頑張ったが、結局ピッチャーを止めざる負えなくなった。

そして最後が、今年の夏の大会。両肘酷使により、再起不能。なんとまあ、波乱に満ちた野球人生だろうか。

尚史「(まあ、人生もそれなりに波瀾万丈だが)」

尚史は近くに落ちていた石を拾い、それを黄金に輝く海に投げ込む。

思い切り投げたつもりだが、10mいくかいかないかあたりで、淋しげな音が立ち、波紋が広がった。

尚史「(・・・・・真面目に勉強でもして、大学にでも行くしかないよな)」

確かにコーチという手もある。あるが、それではどうも未練がましい。だから、これからは野球とは関係ない人生を送ることに・・・・・する。

尚史「(・・・・・空しいといえば、空しいけどな)」

尚史はまた近くに落ちていた石を拾い、黄金に輝く海へ投げ込んだ。

さっきと同じように、淋しげな音を立てて、波紋が広がった。それを見て尚史は、小さなため息を吐いた。

あおい「なに落ち込んでのよ」

尚史「あおいちゃんか。また文句でも言いに来たのか」

尚史の言葉を聞いて、あおいは少しムッとした表情を浮かべた。

このまま文句を吐いてやろうと思ったが、今回はそれを言いに、ここへ来たのじゃないことを思い出す。

あおい「どうせ何かくだらないことで悩んでたんでしょうけど、あえて聞かないわ。それに文句言いに来たんじゃないし」

尚史「そうか・・・・・じゃあ、何しにここへ」

彼女の場合、俺に用というのは、大抵が俺に対しての文句だ。それか、勝負を挑みに来るか。

野球が出来ない俺に勝負を挑んでも無駄だし。では、文句を言いに来たのでもないなら、一体何の用だろうか。

あおい「7時にここへ来なさい。暇みたいだから、その暇つぶしに付き合ってあげる」

尚史「・・・・・」

あおい「返事は!?

尚史「・・・・・わかりました」

あおい「それじゃあ、また7時にね」

束ねた長い髪を揺らしながら、その場から逃げるようにして、走り去って行った。

その姿をひとしきり見送ったあと、尚史はまた海の方へ視線を戻した。海に消えていく太陽を見つめ、尚史は立ち上がり、その場をあとにした。




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