黒い雲が空を覆い尽くし、小さな水の粒を降らせている。地面は水を吸い込み、吸い込みきれなかったのは、水たまりとして歩行者の障害物となる。
その水たまりをめんどくさそうに避けながら歩いてくる若者がいた。前髪が長く目にかかっており整った顔を持つが、雰囲気は大変暗く、
ただ光のない黒色の目をしている。体は痩せているが、骨格はがっしりしている。さらに頭に小さな黒い猫をのっけていた。
尚史「しかし邪魔な雨だな。・・・・・なあ尊(みこと)」
尊「にゃあ」
尊と呼ばれた小さな黒猫は気持ち良さそうな声で返事を返した。尚史は鼻でため息をつき、水で濡れた山道を、歩きにくそうに進み続けた。
尚史「そういや、尊を拾ってから1週間か。よくこれだけ懐いてくれたな・・・・・」
尊を拾ったのは、兄さんと旅館に泊まりにいったときだった。部屋で寝ていたら、やたら猫の鳴き声がするので出ていって見れば、
まあなんと小さな箱の中に子猫がいたわけで。しかも隣には、親猫が力尽きていた。たぶん子猫のために、餌を運んで来ていたのだろう。
傷だらけなのは、魚屋から(あの辺りに魚屋があったかどうか知らないが)盗んだとか、酷い人間にやられたものだと思う。
とにかく親猫を失った子猫は、餌を供給出来ない。いや、供給出来ないことはないが、どのみち悲惨な目に会うのは見えている。
それに、一度猫を飼ってみたかったというのもある。だが手に取った瞬間、腕を引っ掻かれ激痛が走った。それでも痛みをこらえ、抱き寄せた。
子猫はさらに暴れ出し、俺の腕をとにかく引っ掻いた。そのうち下に赤色の水たまりが出来ていた。
それは手首から泉のように湧き出ている自分の血であった。そのあと貧血になり、旅館の女将さんやその他の人に助けてもらうわけだが・・・・・。
尚史「あと5分遅かったら死んでたんだからな。お前に殺されるとこだったんだぞ、尊」
尊「にゃあ」
先ほどと同じように、尊は気持ち良さそうに返事を一言返した。尚史は「フッ」、と少し笑いが交じったようなため息を一つついた。
その同時に、前に古臭い家が現れた。大正・昭和初期を思わせるような家だった。尚史は表札へと近づき、手に持っていた簡単な地図と見比べた。
尚史「ここだな・・・・・でかいけど、えらく古臭いな」
古臭いといっても、ボロいというわけではない。単に見た目が古臭いだけである。尚史はさらに回りを見渡した。
壁にボタンらしきものはどこにもついていない。他の道は草で覆い尽くされ、今来たとこ以外、通行不可となっている。尚史は、玄関の扉に手をかけた。
ガチャと音がし、扉が開いた。扉の向こうは、広い庭園が広がっていた。流石にでかい家に住んでいるだけある。尚史は心の中でそう思った。
老人「何か用かね」
年期の入った家の扉の向こうに、白髪の老人が優しい目で立っていた。尚史は老人に近づき、用件を手早く話した。
尚史「こちらで肘を見てもらえると聞いてやってきたんですが・・・・・」
老人「おお、お前さんが。今井君から話は聞いておる。さあ、中へ」
明らかに年を取っているが、歩き方はそのへんの若い人みたいに、足取りはしっかりしていた。
尚史は黒色の傘を閉じ、頭に乗せていた尊を抱き抱え、老人のあとを追った。
狭い廊下を突き進み、急角度の危なっかしい階段を上がったその右隣りに、襖で閉じられた部屋があった。
老人は片手でそれを開け、部屋に足を踏み入れた。尚史も老人のあとをついていくようにして、部屋に足を踏み入れた。
尚史「結構広い部屋だな・・・・・」
大体6〜8畳ぐらいだろうか。その他にテレビや机、本棚には水島新司の漫画全てがあった。・・・・・理奈がいたら、キャーキャー言うだろうな。
老人「もう一人来るから、この部屋で自由にしてくれ。この雨の中大変だったろうしな」
老人はそう言って部屋から出ていこうとした瞬間、
啓一「すいません、遅くなりました・・・・・って尚史。お前が何でここに」
8月の雨のせいか、気温と共に湿度も普段より高くなっている。そのせいか、汗が異常なほど流れている。啓一は手で仰ぎながら尚史に尋ねた。
尚史「いや、監督に紹介されたんだ。ここなら肘は治るっていうからさ」
啓一「・・・・・そうか」
啓一はある疑問が思い浮かんだ。ここの存在を知っている人はほとんどいないのだ。
それは余程の知り合いか何かである。尚史の野球部の監督が誰だかよく知らないが、間違いなく凄い人には違いない。啓一はそう思った。
老人「とにかく揃ったみたいじゃな。久々の大仕事になりそうじゃわい」
尚史「・・・・・」
爺さん・・・・・不気味な笑い方するなよ。子供が見たら、間違いなく泣き出すぞ。
つーか、これから何されるか考えてるときにそんな笑い方をされると、俺でも怖いな。生きて帰れるかね。
尚史は横の窓に目をやった。雨が窓に撥ねて小さく音を立てる。先ほどより強くなった雨を見て、尚史はこれからされることに不安しか抱けなかった。
月がぽっかりと浮かぶ夜空に光の砂が輝き続ける。秋独特の涼しい風が道行く人々を優しくなぜる。少年が老人の家に通い続けてはや1ヶ月。
気付いてみれば、8月も終わり9月になっていた。縁側に腰掛けている少年は月を見ていた。
ただ、何も言わずそれを見ていた。その目に悲しみや寂しさは特に感じられない。
少年の隣で、小さな黒い生き物が小さな鳴き声を上げた。少年は少し微笑み、黙ってそれを抱き上げた。そして、少年はまた月を見ていた。
*「9回の裏、神城高校の攻撃です。4番 ピッチャー 一条さん」
高校野球大会県予選。鳴門球場とそこから随分と離れた蔵本の球場の二つに分けて試合が行われている。
そして、今蔵本の球場で神城高校と押井学園の試合が行われていた。
理奈「(まさかこんな試合になるなんて・・・・・)」
現在試合は9回の裏、0-3の3点ビハインド。打順は4番から下位打線へと繋がっていく、かなり厳しい展開である。
この3点は、サード 黒崎の悪送球による1点。ショート 篠原のトンネルによる1点。そして押しだしの四球であった。
あおい「(僕達はこんなとこで負けられないんだ!)」
(キィィン!)
初球の内角ストレートを捕らえ、右中間を破った。やや遅い足をかっ飛ばし、セカンドベースへ滑り込んだ。ツーベースヒット。
*「5番 ファースト 佐々木守君」
佐々木「よっしゃー!ワイのツーランで一気に1点差やで!」
真奈「(よー言うわ。ここまで3三振しとるくせに)」
しかし人のことは言えない。真奈もここまで3三振している。大きく言えば、神城は理奈を除いて全員三振を取られている。
その三振ショーの主役は、身長192pの長身から繰り出す140k/m近い速球と右打者に食い込むスライダーを武器としていた。
神城はそれをどうしても打てず、打線は先程のヒットを合わせて4本。四球も2つあったが、得点に繋がることはなかった。
佐々木「どりゃあ!・・・・・と見せかけて」
(コン)
主役「(何!)」
カウント2-0と追い込まれていたが、佐々木は意表をつくセーフティーバント。ランナーはもちろん自らも生き残ることに成功。
主役「(あの勢いはバントするための伏線だったのか・・・・・)」
意表をつかれたプレイは動揺してリズムを崩すことが多い。主役はそのリズムを僅かに崩したか、6番の黒崎にフルカウントから四球を与えてしまう。
しかし、その先は流石は主役。7番 篠原、8番 和木を連続三振に打ち取った。
監督「(追い込まれたか・・・・・)」
俊彦は焦っていた。これが1番なら理奈に期待ができるが、運の悪いことに打撃の得意ではない川相三郎。
代打という手があるが、まだ経験の浅い一年では期待は出来ない。
だからといって川相兄弟の一郎はチャンスをかなり苦手にしている。二郎も打撃は得意ではない。だが、そうも言ってられない。
監督「(やむを得ん。川相一郎を代打じゃ)」
監督が近く座っている一年の太田に声をかけようとしたまさにそのときだった。
「面白そうな展開だな。やっぱ野球はこうでないと」
監督「・・・・・間に合いよったか」
サングラスをかけ、胸のところに神城と書かれたウインドブレーカーを着ている少年がベンチに現れた。
「早速使いますか?準備は出来てますし」
監督「当たり前じゃ。ほれ、はよういけ」
「そんじゃ行ってきますよ」
サングラスを外し、ウインドブレーカーを素早く脱ぎ捨て、グラウンドに出て行った。これを見た川相三郎は無表情ながら戸惑いを隠せなかった。
川相三「な、何でいるんだな〜?」
「治ったからに決まってんだろうが」
川相三郎が打席に立つ前に審判に代打として出る自分の名前を告げた。審判はバックネット付近にある放送室へと向かった。
*「神城高校、選手の交代をお知らせします。9番 川相三郎に代わりまして、結城君。背番号18」