透き通るような青空が高く広がっている。太陽のやわらかな暖かい光が窓を通して、肌に優しく伝わってくる。
少し暑い気もするが、気持ち良いので気にしないでおこうと、結城尚史は小さな欠伸をした。
3月下旬、季節は冬から春にすっかり変わっていた。冬のときに枯れていた木々は色を取り戻し、桜の木も満開であった。
しかし今走っている風景に、桜や色のついた木々はない。あるのは、水平線までに広がる青い海。そして空にめんどくさそうに浮かぶ雲だけだった。
今、尚史達が走っているのは、淡路島から神戸へと繋がっている明石海峡大橋である。
相当長い橋だが、実は橋よりこの先にあるトンネルの方が長く感じてしまうのだ(実際に長いと思われる)。
そんなどうでもいいことを思い出しつつ、尚史は水平線にまで広がる海を見ていた。
「・・・・・綺麗だな」
膝の上に丸まっている黒猫、尊も気持ちよさそうに眠っている。春の陽気は猫も感じているようだ。
「(俺ももう一眠りするかな)」
淡路島から離れ、段々と神戸が近づいてくる。淡い輝きを放つ海と別れを告げ、帽子を顔に被せて、また眠りについた。
「・・・・・寝過ぎたな」
まだ開ききっていない目を擦り、軽く背伸びをした。隣では尊がまだ丸まって寝ている。
飼い主に似るという言葉があるが、まさにその通りだなと尚史は思った。
「(俺もどっか行くかな。大分寝たし、何より暇だし)」
丸まっている尊を叩き起こした。尻尾を軽く揺らし、丸の形がゆっくりと解けていく。
そして、先ほど尚史がやったような背伸びをし、ゆっくりと歩き出したところで、尚史は尊を抱き抱えた。尊は何も抵抗しなかった。
「土産屋ばっかだな・・・・・」
尚史は甲子園に続く通りを歩いていた。周辺には尚史が言っていたように、土産屋又は民家が続いており、真ん中には車が走っていた。
「どれも選抜甲子園のグッズやタイガースのグッズだな」
一応巨人ファンだが、これを言ったらどうなるだろうか。追い出されるか、それとも待遇が悪くなるか。
どっちにしろマイナスイメージしか浮かばない。たぶんテレビで阪神ファンの行動を見ているから、そんなことしか浮かばないのだろう。
まあ、言わなければ関係ない話だが。尚史は足を止め、近くの土産屋に足を運んだ。
「ペナント、メガホン、ボール・・・・・」
どれも基本的な物ばかりで、特に自分に必要な物はなかった。だが、ある物が目に止まった。
それは今年の選抜甲子園の雑誌だった。尚史は財布の中身を確認し、雑誌を手に取った。
「これください」
「600円です」
尚史にとって数少ない紙幣を1枚渡し、その雑誌と硬貨4枚を手に入れた(硬貨に関しては戻ってきた)。尚史は再び歩きだし、さっき歩いてきた道を戻って行った。
「やっぱ、うちの高校も載ってるな。しかし、チーム打率が下から2番目って・・・・・」
本を買った後、尚史は元の道を辿って旅館へ帰った・・・・・はずだったのだが、どこかで道を間違えたのか、よくわからないところへ来てしまったようだ。
迷ったものは仕方がないので、たまたま発見した公園でさっき買った本を読むことにした。そして、今に至る。
「まあ、そんなチームで白零大付属と大接戦だったわけだけどな・・・・」
白零大付属が愛媛の松山農業高校を破ったため、四国大会の決勝は徳島同士の戦いとなった。
神城の先発は一条あおい、白零大付属の先発は鈴江で、秋の大会とまったく同じとなった。
ただ一つ違うのは、前回みたいな迷いがあおいになくなっていたことである。
試合は投手戦で、鈴江は中1日の先発で、神城高校打線を9回まで被安打2、1四球と押さえ込んでいた。だが、あおいはさらにその上を行く内容であった。
ほとんどの打者に対してフルハウスピッチングながら、被安打1、無四球という内容。
9回にこそ、スクリューの抜け球を6番 村井に右中間に決勝タイムリーを打たれ、負けはしたが、そこに悔しさはまったくなく、全員の表情は清々しかった。
きっと全力で戦えたから、だと思う。
「4番として、ノーヒットだったのが、唯一の心残りだがな」
まあ、この甲子園で活躍すればいい。尚史は読んでいた雑誌を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。しかしその刹那、あることに気がついた。
「尊がいない・・・」
雑誌を読みいってしまっていたせいか、尊の存在をすっかり忘れてしまっていた。
尚史は慌てて周囲を見渡し、尊を探してみるが、それらしい動物は見当たらない。流石の尚史もこれには焦りを隠せない
「公園の外に行ったのかもしれない・・・」
尚史は慌てて公園を飛び出した。その時だった。
「痛・・・」
尚史の体が後ろへいきなり吹き飛んだ。慌てて走っていた分、ぶつかった時の衝撃も強かった。
頭を抑えながら、何とか立ち上がると、目の前の倒れている人物に話し掛けた。
「大丈夫か?」
相手も同じように頭を抑えながら立ち上がり、返事を返して来た。当然怒りの篭った返事を。
「痛いな。大事な試合があるのに、怪我して出れなくなったらどうするんすか、あんた」
そう言って、男はキッと尚史を睨みつけてきた。
しかし、もっと恐ろしい者の怒りを見たことのある尚史は、特にそれに臆せず、尊について何か知っていないかと話した。男はめんどくさそうに答えた。
「尊って、あのとろくさそうな黒猫のことっすか」
男が後ろへ向いて、電柱辺りを指差した。何やら黒い生き物が電柱に登ろうと爪を立てているが、間違いなく尊であった。
「遠くに行ってなくてよかった。ありがとうな。それじゃあな」
尚史は一言御礼を言って、尊が登ろうとしている電柱に駆け寄った。尊もそれに気付き、ゆっくりと尚史の方へ歩み寄った。
尚史は優しく尊を抱き上げ、一旦後ろへ振り向いた。男の姿はどこにも見当たらなかった。
「(雑誌の載ってた選手に似てたような気もするが・・・・・気のせいか)」
「ニャー」
尊が短く甘えたような声で鳴き声を上げた。尚史は喉を軽くくすぐってやり、来た道を帰って行った。
「(あれは間違いなく結城尚史だ。長くて赤が混ざったような茶髪。間違いない)」
ジーパンのポケットに手を突っ込み、その辺に落ちている石を蹴りながら歩く男。先ほど尚史がぶつかった男である。
「(奴のチームと当たるのが楽しみだ・・・。俺の球でブッ潰してやる)」
口元が緩み、思わず不敵な笑みが浮かんでしまう。彼もまた甲子園では騒がれている男。
去年の夏の甲子園では1年生ながら、4番でエースの座に座っている。そして今年もそれは健在である。
「あ、やばい。早く帰らないと、ミーティングに間に合わない」
男はポケットから手を抜き出し、慌てて走り始めた。それは午後のことであった。
「宣誓!」
桜の花が香り出したこの季節。
「我々、選手一同は!」
数々のドラマが生まれ、数々の名選手が戦い、そして散っていたこの聖地。
「高校野球の精神にのっとり!」
全国から選ばれたチームが、栄光の大旗を目指す。これを手にすることができるのは、果たしてどのチームか。
「正々堂々試合することを誓います!」
明日無き戦いが今始まりを告げた。