淡い色に染まり切った山々。その稜線に沈み行く夕日は、名残惜しそうに美しい光を放ち、地上をオレンジ一色に照らす。
東の方は徐々に暗黒に染まり始め、小さな星が見え始めていた。
「・・・」
街道の電灯が淋しげに点滅し、公園のブランコが春の優しい風で自然に揺れている。その隣に制服姿の少女が立っていた。
制服の胸ポケットのところに「高」と書かれた校章がつけられている。
だがその容姿を見る限り、高校生とは少し言い難い。髪型は多少短めで、片側だけをゴムで無理矢理縛っていた。
「・・・」
少女はやや虚ろな目で公園の木を見上げていた。地面には無数の花びらが散っており、それらはどれも淡い色であった。
「・・・」
少女が見上げている間に、公園の木から淡い色の花びらが風に舞い、また散ってゆく。少女はそれを目で追った。
花びらは地面に静かに落ちた。少女はその場に座り込み、その花びらを拾い上げる。そして座り込んだまま、少女は木をまた見上げた。
「ああ、またここにいたか」
少女は男の声がまったく届いていないのか、まだ公園の木を見上げていた。
男は頭を軽く掻き、少女の背中を軽く突いた。すると少女の体は、一瞬電気が走ったかのようにビクッと揺れる。そして少女は後ろへ振り向いた。
「お前は本当にこれが好きなんだな。そんなにいいか?」
男は少しオーバーに口を大きく動かし、言葉を発した。少女は特に気にせずに、軽く頷く。男は少し苦笑しつつ、少女に言う。
「まあ別に見てるのは構わんけど、あんまり人を心配さすなよ。もう暗いんだし」
少女は黙っていた。特に怒りや悲しみの篭ってない虚ろ気な目をただ黙って、男に向けていた。
「・・・なした?」
男が短く尋ねると、少女は木を指差し、今まで閉じていた口がゆっくりと開かれる。
「夜桜を・・・見たかったんです」
凄く小さな声量。ちょっとした騒音で掻き消されてしまうぐらい。だが、透き通るような声だった。男はキョトンとした表情で、少女に尋ねる。
「夜桜?」
先ほどまで山の稜線に映えていた夕日は、完全に沈んでおり、ほとんど闇に染まった空には、無数の星とぽっかりと半分の月が浮かんでいた。
少女は完全に後ろへ振返り、話を続けた。
「夜歩くことが家では許されてないから・・・見るなら今しかないと思ってたんです」
先ほど拾った花びらを手に乗せ、それを優しい目で、時折指でなぞりながら、少女は見ていた。
「なら仕方がないか。お前も色々大変みたい・・・・・じゃなくて、大変だしな」
少女は手に乗せていた花びらを摘み、そして小さな風が吹いたときにそれを手放した。
花びらは風に舞い、地面へとゆっくりと落ちて行った。少女は静かに微笑み、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でも、あの球を投げられるようになったのは、これになったおかげでもあるんですから。とにかく明日が楽しみです」
「お前の言っていた先輩か。しかし凄い奴を先輩に持っていたな・・・」
そう言って、男は腕につけていた時計を何気なく見る。針は6時15分を指していた。
「もう6時過ぎてんのかよ。まだいるのか?」
少女はゆっくりと闇の方へ目を向け、その中に輝くぼっかりと浮かぶ半月を見た。そしてしばらく見てから、少女は答える。
「綺麗な半月・・・。夜桜にぴったりと思いませんか」
少女の答えは、遠回しに「はい、います」、ということを言っているのだ。男は微笑を浮かべつつ、少女に言った。
「しょうがない奴だな。仕方がないから、ボディーガードとして、一緒にいてやるよ。エースに何かあったら困るしな」
頬を軽く指で掻き、少女とは逆の方を向いて男は言った。少女は意地悪そうな笑顔を浮かべ、男にからかうの言葉をかける。
「先輩といる方が危ないと思いますよ」
男は笑みを浮かべつつ、多少怒りの篭った声で、少女に言い返す。
「こら。キャプテンを信じろ。その辺のオッサンよりはましだろうが」
「比べるものが低いですよ」
「確かに」
男が小さく微笑み、少女も幸せそうに笑った。春のまだ肌寒い風が吹き、公園の木々が軽く音を立てて揺れる。
そして淡い色の花が、眩い光の半月に照らされ、風に舞い、また散って行く。少女は額に手の甲を当て、その光景を物寂し気に見ていた。
甲子園付近のある旅館。甲子園から歩けば、約10分ぐらいでたどり着くことができる。
この旅館は、このあたりでも長い歴史があり、大きいわりにはサービスがよく、値段も手頃らしく、人気の高いそうだ。
その旅館の庭に広い和風の個室がある。所謂、離れの間というやつで、扉には立入禁止という貼紙がされていた。
そこから少し離れた縁側に少女が腰をかけている。膝の上には丸まった黒猫が眠っていた。少女は黒猫の背中を時折軽く撫でて、空を見上げていた。
「月と星が出てて、綺麗やわ〜」
夜空には半分の月と無数の星が出ていた。この日は雲というものが存在しておらず、月は遠慮なく光を放出していた。
少女がその夜景にうっとりしていたとき、誰かが声をかけてきた。それは少女の兄、佐々木守であった。
「何しよんや、真奈」
真奈と呼ばれた少女は、守の方へ振り返らず、視線を変えることなく返事を返す。その声はいつもより間が抜けていた。
「月見てるんや〜。兄さんも見てみ。めっちゃ綺麗やで〜」
守は妹に言われて、空を見上げた。しかし、自分にはあまり風流に親しもうとする心がないため、どうでもいいという感想だけが、頭の中で渦巻いていた。
「そういや、皆は?」
まだ肌寒い風が吹き、庭に植えてある木が揺れる。真奈はやはりのんびりした口調で答える。
「キャプテンと咲輝先生と監督は飲み会。あいちゃんとあおいちゃんと理奈ちゃんは変化球の名付け会議。結城先輩除く男共は怪談&エロ話」
「・・・・・阿呆共は置いといて、じゃあ結城はんは?」
やや呆れ気味の守の問いに、真奈は右手の指で何かを指した。それは立入禁止である離れの間だった。
「みこちゃんを私に預けて、あそこの部屋に入ってたよ」
「あそこって立入禁止のところやな。何しよんやろ」
「さあ・・・変なことはしてないやろうけど」
「気になるな・・・」
「568回振って、まだ切れない・・・」
暗闇に朧気に燃える2本の蝋燭。何かが擦り切れ、風切り音が響く。その音が響くたびに蝋燭の灯火が消えそうになる。
天井からは紐が垂れ下がっており、その先には小さな紙が括りつけられていた。その紙を切ろうと、少年が必死にあるものを振っている。
握りの部分は黒く、何やらバツ印みたいな模様が彫られている。銀色に輝き、鍔の部分より上は鋭く研ぎ澄まされている。
人に向かって使用するならば、まず無事では済まされない。そう。少年が振っているのは刀である。
「これを切れないと、春日の球はまず打てない。とにかく明日の朝までに、何とか切らないと」
少年は大きな息を吐き、また刀を握った。片足を上げ、そのままの姿勢で紙を切れる点を待つ。紙が静かに揺れる。そしてそのままゆっくりと回転する。
ある点に差し掛かったとき、少年、尚史の刀が動いた。畳が擦り切れ、足から血が吹き出す。尚史の刀が横に向いたそれを一閃する。
しかし紙が僅かに動き、平たいところに刃が当たった。ペシャという音と共に、蝋燭の灯火が揺れる。尚史はまた大きな深呼吸をし、そして構えた。
「私はこれがいいと思うけど・・・」
髪の毛を降ろし、ほかほかの湯気を立て、理奈が一条姉妹に意見を出していた。その姉妹の姉、一条あいがそれに反論する。
「いや、やっぱり私のがいいと思う」
やはりこちらもほかほかの湯気を立て、頭をタオルで海賊みたいに巻いていた。しかし今度は、妹のあおいが姉であるあいと理奈に反論する。
「ダメだね。やっぱり私のが1番ね」
そしてまた理奈が2人に反論する。こんなやり取りが実は、50回以上も繰り返されていた。
そして、それも10倍の500回目に達したとき、会議は単なる喧嘩に発展していた。
「私の流星1号が絶対いい!(理奈案)」
「いや、シャイニングボール!(一条あい案)」
「絶対私の無双変化!(一条あおい案)」
会議もとい喧嘩は、鶏が鳴き始めるまで続いた。その間に、隣の人から苦情が何度も来たのは言うまでもない。
「なんで倒れるんじゃろうな・・・」
「わかんない・・・」
神城高校監督今井俊彦の前に、5本ほど酒缶(200ml)が転がっていた。その内訳は、俊彦3本、娘の咲輝が2本。
そして、2人の前に青冷めて倒れているキャプテン高橋。言うまでもないが、高橋は酒を飲んでいない。
「まさか酒の匂いもダメじゃったんじゃ・・・」
「かもね・・・」
「おお・・・」
「すごい・・・」
「先輩・・・俺、感動したっす」
「や、やばい・・・・・俺の(自主規制)」
暗い部屋に男達が、黒い箱型テレビに釘付けになっている。画面には、みだ(自主規制)が映っていた。
持ってきたと思われる少年、篠原が妖しい息を吐きつつ、満面の笑みを浮かべていた。
「苦労した甲斐があったぜ。お前ら俺に感謝しろよ」
篠原を中心に、いつの間にか円が出来ていた。そして、全員一斉に篠原に平伏した。篠原はやっぱり満面の笑みを浮かべていた。
それぞれの夜は更けていき、明日の試合を迎えた。ある少女と尚史。過去の想いを胸に、2人は甲子園の舞台に立つ。