春の選抜甲子園6日目、第2試合。徳島代表 神城高校対広島代表 聖鈴高校。試合前の予想では、1回戦の調子から考えて、神城高校が有利と見られていた。
しかし、それは見事に覆され、5-1の聖鈴高校4点リード。しかも、チーム全員安打の記録付き。
一方神城高校は、2回の篠原のスクイズ以来、得点0。ヒットも佐々木兄妹の2人だけで、僅か3安打。
西条も3回以降、毎回ランナーを許すものの、味方の好守に救われ0点に抑えていた。
しかし、初回の先頭打者ホームランを含む4失点がなんといっても痛い。
チームに負けという2文字がちらつき始める中、6回の表。神城高校に不幸が2人の選手に襲い掛かる。
「(次の回までにあと1点は返しておきたい。そのためには先頭バッターの高橋が出ることなんじゃが・・・)」
神城高校監督、今井俊彦は今日の高橋をあまり期待出来なかった。
何故なら、この日の高橋は、2打席凡退。いずれも内角の球を大振りして打たされている、高橋らしかぬバッティングだった。
そして、この打席も外角の球を大振りして、早くも追い込まれていた。
「(春日の球は、いったと思ったら打たされている、心理的なものを利用したピッチングだ。大振りする奴は、春日の大好物さ)」
河崎は僅かに内角に寄った。春日は静かに、そしていつもよりゆっくりと振りかぶる。
だが、足を上げるのは早く、投げるのも早かった。振り子で打つ高橋のタイミングの外しにかかったのだ。
「(上手い。これは完全にタイミングを外した)」
高橋は小さく振った足を慌てて前に踏み出した。だが、バットの出が遅い。打ち取った、河崎が確信したその刹那。
(コン)
「(何!?)」
高橋は初めから打つ気などなかったのだ。あの球を見て大振りしてしまうのは、自分が1番分かっている。
分かっているが、体が勝手に動いてしまう。それならいっそうのことバントの方がいい。
だから高橋はバントを実行したのだ。そしてそれは成功した。ノーアウトランナー1塁。神城高校の本日4人目のランナー。
「(3番 ライト 一条さん。背番号1)」
あおいにしては珍しく、緊張した面持ちで左打席に入った。構えもいつもよりぎこちなく、何よりバットを短く持っている。
今までのあおいから考えれば、これは考えられないことだ。
「(長く持つふりをして、打つときになったら短く持ってくるのはあるが、まさかその逆をやってくるとかないよな)」
もしかしたらバントなのかもしれない。ここまであおいは1回戦も含めて、6打席ノーヒット。うち5三振。
そんなのを何故、3番に据えているかはわからないが、それだけの成績なら無いとは言い切れない。
河崎はどっちで来られてもいいように、1番当てにくい球を春日に要求することにした。
春日はゆっくりと頷き、プレートに足を乗せた。右投げの春日が正面がちょうど3塁方向に向くセットポジションを取る。
第1球目。真ん中からインローに食い込むスローカーブ。あおいはぴくりともせず、見送る。判定はストライク。
「(やはりバントは無しか?一応もう1球同じ球でいってみよう)」
第2球目。今度はアウトサイドのボールから、アウトローに入ってくるスローカーブ。今度は手を出し、空振り。カウント2-0。早くも追い込まれた。
「(バントは無いみたいだな。じゃあ仕上げはこの球だ)」
河崎が春日にサインを出す。春日はそれに頷き、セットポジションを取る。素早く足を上げる。そのとき、高橋がスタートを切った。河崎は奇襲作戦に焦る。
「(しまった!バントばかり考えていて、ランナーを警戒し忘れてた!)」
しかし、時既に遅し。河崎が要求したのは、僅かに落ちるチェンジアップ。いくら春日がクイックで投げても、これを刺すのは、よほど鈍速で無い限り難しい。
「(か、春日!?)」
だが、春日が投げたのはストレートだった。さらにご丁寧に、大きく外角へ外して。河崎は慌てて立ち上がり、それを受け取りにいった。
このとき、あおいは短く持っていたバットを素早く長く持ち替え、外角に大きく外された球に食らいついた。
「(当たれーー!)」
(キィン!)
打球はレフトにフラフラと上がった。本来なら余裕でレフトフライだが、今日はライトから3塁側スタンドに向かって風が吹いている。
弱々しいあおいの打球は、レフトが追い掛ける方向に、どんどん流れていく。
「(落ちろ!)」
あおいの願いが通じたのか、打球はレフト線ギリギリに落ちた。レフトがワンバンした打球を逆シングルで捕球し、そのまま反転してサードへ送球する。
高橋はスタートを切っていたが、アウトかセーフか判断しにくい打球だったため、1・2塁間で一旦止まって、そしてセカンドへ走った。これでノーアウト1、2塁。
「(本当はバスター狙いだったんたけどね)」
河崎はマスクをかぶりつつ、先ほどのあおいのバッティングにア然としていた。しかし、すぐに頭の中を切り替え、次の強力な相手が打席に入るのを待った。
「4番 サード 結城君。背番号5」
ここまでの尚史は2打数無安打、1三振。1打席目はスローカーブで三振。2打席目はフルカウントから、内角ストレートで裏を掻かれ、レフトフライ。
そして3打席目。3割打者なら、そろそろヒットが出るころである。
「(おいおいマジかよ・・・)」
対尚史戦。このときサインを出すのは、ピッチャーである春日。その春日が、なんと初球からチェンジアップのサインを出したのだ。
裏を掻けば確かに空振りを取れるが、下手をすれば、力の無い分だけ、1点差になる可能性も充分にある。
だが、河崎は春日のサインに何も言わなかった。この勝負には口だしは無用と思っているからである。
河崎は黙ってミットを構えた。春日がランナーに注意しつつ、素早い動作から第1球目を投げた。
内角のやや低めに美しい放物線を描く。尚史は果敢にも、これを打ちにいった。
「(落ちるとすれば、このあたりがポイントだ)」
春日の投じた球は、僅かに下に変化した。尚史のバットはその上を叩き、打球は斜めに、弾丸の如く、尚史の左足首に直撃した。
「あぐ!」
妙な声をあげ、尚史はその場に倒れ込んだ。審判が慌てて試合を止め、尚史に声をかける。
「大丈夫か、君?」
尚史はバットを杖代わりにして、何とか立ち上がり、審判に向かって黙って頷いた。
審判は心配そうな眼差しで、尚史を少しの間見ていたが、すぐにマスクをかぶり、試合を再開させた。
尚史が、どこかぎこちなく、バットを振る。誰が見ても、尚史の変化は一目瞭然だった。
「(動くから骨折はしてないが、下手すりゃ、ヒビ入ってるかもしれない)」
だが、4番が負けているのに退くわけにはいかない。退いてしまうと、確実にチームに悪影響を及ぼす。
額から流れ出る嫌な脂汗を、尚史はユニフォームの袖で拭き、バットをまた振った。
「(今の自打球で大丈夫なはずがない。俺だったら足に負担のかかるインローのストレートで勝負するが、あいつはどうするか)」
春日が帽子の鍔に軽く触れる。春日が出したサインは、インローのストレート。2人の考えは見事に一致した。
「(よっしゃ。さあ来い!)」
春日が1塁ランナーのあおいと2塁ランナーの高橋を要警戒している。5秒たっても、まだ投げない。要警戒して投げない理由。
それは足が速くない2人のエンドランを防ぐため。それと、尚史を焦らすため。
先ほどの自打球で痛めていれば、早くベンチに帰って、治療したいと思うはず。
それを焦らすことによって、冷静を失わせ、打ち取りやすくなる。怪我が酷ければ、その効果は何倍にもなる。
「(くそ・・・怪我がバレてやがる)」
だが、ピッチャーはプレートを踏んでから、20秒以内に投げなければ、ピッチャーはボークを取られる。
尚史はそれを知っているため、ギリギリ冷静でいられた。15秒経って、まだ春日は投げない。
19秒経って、審判が動きを見せたところで、春日はプレートから足を外した。一旦周囲を見渡したから、再びプレートに足を乗せた。
「(早く投げてくれ・・・痛みが限界が来てやがる)」
しかし尚史の願いとは裏腹に、春日は1塁へ牽制球を投げた。そんなにリードを取っていなかったあおいは、ゆっくりと1塁へ戻る。
春日はこれを3回ほど繰り返した。流石の河崎も、この春日の行動に焦りを感じ始める。
「(もういいんじゃないのか。これ以上はちょっとな・・・)」
尚史は自打球を受けてから、左足が微かに震えていた。
軸足でなかったのが幸いだが、やはり左足を大きく引き上げる1本足打法では、踏み込むときに大きな負担がかかる。
医者に見せれば、ドクターストップがかかるほどの怪我かもしれない。
2本足で打てば、その負担は大分違ってくるが、春日の球を打つには、この打法以外考えられなかった。ではどうするのか。尚史の答えは決まっていた。
「(一振り。しかもゆっくり歩ける、ホームランを打つ)」
尚史が狙ってホームランを打とうとしたことは、ほとんどない。
本当に狙って打とうとしたのは、1年前、高校野球界の天皇と謳われ、4球団指名を受けた榊柊ただ1人。
2人の対決は、5打数2安打3三振2本塁打というフライ・ゴロ・ヒット無しという、まさに三振かホームランという内容である。
「(こいつとの最後の勝負になるかもな)」
こいつ。
それはマウンドのショートカットの悪魔、春日桜。高校生にしては幼くて、三振取ったときの笑顔が可愛くて、微妙な判定に小首を傾げるのが可愛い。
別にあいつが好きとかそんな感情はない。ただ、俺が認めた後輩。それが春日桜。
「(結城先輩・・・いきます!)」
春日が足を上げる。身長155cmの小柄な体の腕が、目一杯振られ、ボールがかかった指によって、強い回転がかかる。
その鋭いキレのあるストレートが、尚史の膝元えぐる。引き上げていた足が地についた瞬間、激痛が電気が流れるように走る。
思わず苦痛の表情を浮かべるが、それでも尚史は、春日のストレートを捉らえた。
(キィン!)
バットから短い金属音が響く。尚史の打球は、サードとショートが1歩も動けない凄まじい速さで、三遊間を抜けていった。
あまりの速さに、待ち構えていたレフトの西田のグローブを勢いよく弾き飛ばした。
だが、ボールは前に転がったため、2塁ランナーの高橋は3塁で止まり、1塁ランナーのあおいは2塁で止まった。これでノーアウト満塁、になるはずだった。
「アウト!」
高らかな声と共に、1塁審判の片手が上がる。よく見ると、尚史はまだ1塁へ到達していない。
打球の速さが尋常ではないといっても、よほどの鈍足で無い限り、まずアウトにはならない。
もちろん、尚史は鈍足ではない。何故、アウトになったのか。やはり足の怪我だった。
「やっぱ無理だったか・・・」
アウトと宣告された瞬間、尚史はその場に片膝をついて、座り込んだ。
すぐに、何人かの1年生が駆け付け、ベンチへと運ばれていった。その光景を、春日は感慨深い目で見ていた。
「(先輩・・・ごめんなさい。負けるわけにはいかないんです。そうするしかなかったんです)」
尚史がベンチの奥へと消えて行く。春日は瞳から流れ出た1粒の雫をユニフォームの袖で拭い、その場で軽く頭を下げ、一礼する。
その瞬間、ベンチから怒鳴り声が聞こえた。それは、観客の歓声に負けないほどの大音量だった。
「あんたら情けないわ!先輩が怪我したから、諦めるんか!阿呆ちゃうか!」
甲子園に来ている色々な観客の混ざりあった騒がしい声の中、守は自分の妹の怒鳴り声を確かに聞いた。
何事かと思い、打席に向かおうとした足を一旦止め、ベンチに戻ろうとした。
「5番 ファースト 佐々木守君。背番号3」
だが、アナウンスで自分の名が呼ばれている。このままベンチに戻れば、確実に審判にチームの印象を悪くしてしまう。
守は戻りかけた足を、再び打席に向かわせた。
「(まあ、真奈が怒っとる理由は大体わかっとるけどな。ちょうどええからワイの分も怒っとけ。ワイも怒っとるんや)」
怒っているはずなのに、何故か守はニヤつきながら、右打席に立った。
その表情を見た春日は不気味に思い、冷汗が流れ、自然と足が動き、1歩下がった。守はそれに気付くことはなかった。
「何だと!」
目付きの悪い篠原が、さらに目付きを悪くし、怒りに震える真奈を、睨みつけた。
真奈はそれに臆せず、今まで我慢していたことを一気に爆発させた。自分ですら何を言ってるのか、わからないぐらいに。
「あんたら先輩が昨日、いやいつもどれだけ頑張っとるか、知っとんのか!?
それをあんたらは、馬鹿みたいに騒いで、寝不足でダラダラして。先輩が倒れたら、はい降参ですか!情けないわ!」
初めは、睨みつけていた篠原だが、そのうち、普段の目付きの悪さに戻り、黙って真奈の怒りを聞いていた。
俊彦は腕を組んで戦況を見守りつつ、黙ってそれを聞いていた。
(グワキィ!)
「お・・・」
真奈の怒りを半分ほど聞き終えた頃だろうか。何かをへし折ったような音が球場に響き渡り、打球がライトポール際に上がった。
「(キレるな!)」
打球はフェンス手前で失速し、ライト線を襲った。
本来ならファールになるはずの打球だったが、浜風によって、勢いと軌道が修正され、フェアゾーンに入ったのだ。
「よっしゃ!1点返したで!」
守の言う通り、2塁ランナーの高橋がホームイン。そして1塁ランナーのあおいが3塁へ。佐々木守の根性のタイムリーツーベース。尚もノーアウト1、3塁。
「6番 キャッチャー 佐々木真奈さん。背番号2」
アナウンスで自分の名前が呼ばれていると、一条あいがずっと怒り続けている真奈に言った。
真奈は間髪置かず言葉を吐き続け、荒くなっていた息を深呼吸で調える。
深呼吸の後、怒り続けていた間、ずっと流れ出ていた涙をユニフォームの袖で乱暴に拭う。
そして、ヘルメットを深くかぶり、銀色の金属バットを取り、打席へと向かった。その時、ベンチから出ていくときに、真奈はぽつりと小さく言葉を漏らした。
「もう腑抜け共は当てにせえへん。邪魔なだけや」
6回の裏。神城高校の大きな守備変更と選手交代が行われた。尚史に代わって和木がライトに入り、サードにレフトの黒崎が入った。
さらに、ライトのあおいがピッチャーに、レフトには西条に代わって、川相三郎が入った。そして・・・。
佐々木真奈の代わりに川相一郎がファーストに入り、キャッチャーに佐々木守が入った。