第8章
桜と葵





よっしゃあ!来い、一条!

「なんなの・・・この采配」

キャッチャーミットを元気よくバシバシと叩き、豪快に突き出す佐々木守。

一方、俊彦の采配にかなり呆れ気味の一条あおい。いや、あおいでなくとも、誰でも呆れてしまうこの采配。

その呆れてしまう采配を払った本人は、ベンチで面白そうものを見るような目で、戦況を見守っている。

そんな俊彦を見て、あおいはもはや言葉も出ない。出るとすれば、

「この痴呆爺。ボケるにはまだ早いわよ」

と、俊彦の悪口ばかりである。しかし、こうなったのだから仕方がない。

気を取り直して、あおいは右肩を左手で叩き、守にサインを出した。守は僅かに内角に寄り、ミットを構える。

「(内角ストレート・・・やったな)」

あおいが大きく振りかぶる。上体を打者に背中が見えるほど大きく捻り、力を溜め込む。捻りが大きいほど溜め込まれる力は大きいが、制球がつけにくくなる。

だが、あおいは制球を無視して、ただ速い球だけを投げ込むことを心に決めていた。

「(僕はとにかく速い球を投げる。誰にも負けないぐらいに!)」

あおいが大きく足を前に踏み出す。

打者からは背中しか見えない、捻られた上体が一気に解かれていく。腕がしなり、あおいの小さく綺麗な指が白球を一瞬にして切る。第1球目。

「(速い!いや、速いだけじゃない!)」

投じられた球は唸るように打者の内角を鋭くえぐる。は手出しが出来ず、見送った。判定はストライク。

あまりにも速すぎるストレートに、も驚くが、そのストレートを投げたあおい自身も守のキャッチングに驚いていた。

「(普通150k/mなんて、急造キャッチャーが捕れないわよ。これも根性で捕ったっていうの?)」

しかし今のは、珍しく構えていたところにボールがいっただけかもしれない。1球だけでは、まだ分からない。

「(試しに無双変化(第5章参照)いってみようか。これ捕れたら、もう天才の領域ね)」

あおいのスクリューの握り方は、どちらかというとシュートに近い。そのため、ほとんどストレートと同じ腕の振り方で投げる。

だからあれだけ変化しながら、ほぼストレートと同じ球速で投げられるのだ。

球種が違うが、榊のホリィボールもストレートとほぼ同じ速さで変化する。だが、変化の仕方が違う。

打者の手前でブレーキがかかり、そこから大きく折れるような変化、それがホリィボール。またの名をドロップ。

だが、あおいのスクリューはブレーキせずに1度浮き上がり、そこから落ちるような変化が起こる。

ホリィボールほど変化は大きくないが、普通のスクリューよりは大きく落ちる。

この変化球を扱えた者は、過去に1人だけ。それが、この変化球の生みの親にあたる。

「(とにかくピッチングで勢い付けないと、バッティングも狂うからね)」

あおいが大きく振りかぶる。足を上げ、上体を限界まで捻る。上げた足を勢いよく踏み出し、第2球目を投じた。

右打者の石原にとって、甘い内角高め。石原は短く持ったバットで、それを打ちに行く。


高めのボールは僅かに浮き上がり、そして一気に沈んだ。ストレートと思っていた石原は、当然空振り。ボールは、しっかりと守のミットに納まっていた。

「(捕った・・・急造キャッチャーなのに・・・)」

何も驚いているのはあおいだけではない。

捕った本人の佐々木守、ベンチで見守っていた、正捕手の佐々木真奈、守をキャッチャーに指名した本人、監督の今井俊彦だって驚いている。

理由は皆同じ。急造キャッチャーがよく捕れたな、と。

「(これなら、なんとかいけそうね)」

捕れるとなって安心したか、この後あおいは1番、2番、3番をバットに掠らすことなく、3者連続三振に打ち取った。









「ボール!ファアボール!」

7回の表、9番の川相三郎から始まる打順。春日はこの川相三郎は三振で打ち取ったものの、理奈に粘られ、フルカウントからファアボールを与えてしまった。

河崎はマウンドには向かわなかったが、明らかに春日の異変に気がついていた。

「(球離れが早くなってる。球を抑えれなくなってるから、コントロールできないんだ)」

春日が1試合で1四球1死球というのは、高校生が木のバットを使うぐらい珍しいことである。

春日は球威があまりないため、コントロールと打者の心理を利用して、今まで打ち取って来た。

だが、そのコントロールが乱れるということは、何を意味するか言わなくとも分かるだろう。

「(コントロールが効かないのもやばいが、今のあいつの心理状態もやばいな)」

何故、心理状態が危ういのか。理由は6回の表、結城尚史と佐々木真奈の打席が原因していた。

「(あいつは人一倍心配性だ。尊敬する結城がベンチに引っ込むほど怪我をすれば、自然と心配になる)」

そして佐々木真奈。春日には大変珍しいストレートの失投。それが真奈の軸足に直撃したのだ。当然真奈が立てるはずもなく、川相一郎に代打。

なんとかライトフライには打ち取ったが、フルカウントまでいっていた。さらに川相が振らなければ、ファアボールというもの。

「(本来ピッチャーは、すぐに頭の切り替えが出来ないと、はっきり言って厳しい。例えどんな凄い奴でもな)」

春日は確かに凄い。コントロールと打者心理を上手に利用するピッチングは、確実にプロに通用する。その心の弱ささえなければだが。

「(とにかく次の打者をゲッツーに打ち取る。この回を凌げば、監督も春日を交代させるだろう)」

球離れが早くなっている春日を考えると、ストレートみたいに指先でボールを切るような球よりも、変化球で抑える方がまだコントロールしやすいかもしれない。

ストレートが入らない投手でも、変化球ならストライクが簡単に取れるという例があるぐらいだ。そう考えると、変化球の方が遥かにマシである。

「(それにバントと盗塁は出来ない。2塁が開くと敬遠されると思うはず。いくら偶然でも、ヒットを打ってるからな。力もあるし)」

どのみち、河崎は盗塁やバントをして来ても、無視することに決めている。今の春日の状態を考えると、余計な神経を使わせたくないのだ。

「(低めのチェンジアップ。多少甘く入ってもいい。あと内野を・・・)」

河崎は立ち上がり、内野を2歩ほど前進させた。

間を抜かれる可能性が高くなるが、ここまで高橋はセーフティバントのヒットだけで、チェンジアップ自体は攻略できていない。

バントを防げば、ヒットになる確率は低くなる。

「(あとは春日のピッチング次第だ。頼むぞ、春日)」

額から流れ出る汗をユニフォームの袖で拭い、春日はプレートに足を乗せた。

充分理奈の足を警戒しながら、第1球目を投じた。その瞬間、理奈はスタートを切り2塁へ。

「(このチェンジアップを無理にヒットにしようと思ったら駄目だ)」

春日の投じたコースは、内角低めに決まる絶妙のチェンジアップ。高橋は足を振らず、バットを木槌を扱うかのように振り上げた。

「(ここは思いっきり叩いて、内野安打を狙う!)」


(キン!)


高橋が上から思い切り叩いた打球は、高くとファーストの上に上がった。進塁打とするなら最適な打球だが、内野安打とするにはかなり厳しかった。

「(飛んだ位置が良かった。これなら、ワンアウト3塁で敬遠出来る)」

だが、ここで安心するのはまだ早い。高橋が打った方向はファースト。つまり、ライト方向から吹く風の影響をもろに受ける。

のわぁ!

打球は風に煽られ、1、2塁間へ流れていく。落下点にいたファーストと、まさか来るとは思わなかったセカンドが追い掛ける。

その間に高橋はファーストベースを走り抜けた。結果オーライの内野安打。

「3番 ライト 一条さん。背番号1」

「(表情には出てないけど、明らかに疲れてきてる。もし、この回で交代としたら最後のチャンスね)」

バットの先でホームベースを軽く叩き、グリップを少し余して構えた。









「(この回だ。頑張ってこの回で切るんだ、春日)」

帽子を取り、ユニフォームの袖で汗を拭う春日。構えたバットで、もう一度ホームベースを叩き、今度は肩に担いだ。

初球を何に絞るか。あおいの中で、それは既に決まっていた。

「(ストレート。それも内角高め)」

春日が足を上げる。

「(その理由は)」

小柄な体から目一杯腕が振られ、渾身のストレートが投じられる。

「(勘!)」

内角高めに浮いたストレート。見逃せばボールだが、あおいは強引にバットを出し、ライト方向へ思い切り引っ張った。


(キィィィン!)



打球はライトへ高々と上がった。定位置にいたライトを凄まじい速さで追い越し、スタンドへ突き刺さった。僅かにポールの外側を通過して。

「ファール!」

距離も高さも完全にホームランとなる打球のはずだった。原因はやはり、風だった。

ライトポール際に上がったあおいの打球の勢いが風によって弱まり、僅かに逸れたのだ。

「(やばかった・・・。やはり、今の春日のストレートでいくのは無謀だ)」

となると、必然的にスローカーブかチェンジアップとなる。

ここで、まずツーストライクと追い込むことが大事と河崎は考える。空振りの取れる球。当然、スローカーブしかない。

「(内角低め、スローカーブ)」

河崎がミットを構える。第2球目。緩やかな孤を描くスローカーブ。曲がりは鈍く、ほとんどスローボールに近い。あおいはこれを苦もなく捉らえる。


(キィン!)


審判の両手が上がる。打球は痛烈に3塁ベースの外側を通過していった。あと10cm中なら、完全ツーベースである。

「(一瞬ヒヤッとした。球が遅いから、僅かに振り出しが早かった。あれがストレートなら完全にやられていた)」

こうなると投げる球はただ一つ。

「(来い、春日。チェンジアップだ)」

春日が大きく頷く。あおいの手に力が入り、球場が静寂に包まれる。

「(チェンジアップで来る・・・)」

春日の細い腕が、鉞のごとく振り下ろされる。チェンジアップ狙いだったあおいは、慌ててストレート狙いに変えた。

「(ストレート!?とにかくファールにしないと!)」

ストレートに考えが変わったあおいは、早めに踏み込んだ。だが、春日の投じたのはチェンジアップ。それも普通よりワンテンポ遅い。

「(上手い。ほとんど、ストレートの振りと変わらない。ナイスだ、春日)」

あおいが踏み込んだあとでも、まだボールは来ない。このまま泳がされて、ショートゴロゲッツー。それが普通の選手ならだが。

「(このー!)」

あおいは全体重を踏み込んだ右足に乗せ、耐え凌いでいた。しかし、それでもボールはまだ来ない。

「(もうダメ、限界・・・)」

振り出すのを我慢していた腕が、自らの意志と反して、外角に決まるチェンジアップを握ったバットで捉らえにいく。

完全とまではいかないものの、体は泳ぎ、満足なスイングも出来ない状態。そんな状態のまま、あおいはチェンジアップを捉らえた。


(カキ)


打球はレフトにフラフラと上がっている。犠牲フライにするにも浅過ぎる。

それでも理奈はスタートを切れる体勢を取っている。あおいは1塁へ走ることなく、打席から自分の打球の行方を追っていた。

「まだ落ちてこない・・・」

マスクを取った河崎が小さく呟く。情けなく泳いで、しかもまともなスイングが出来ずに捉らえた打球。

しかし、その打球が落ちてこないのだ。それどころか、浜風によって、ファールグラウンド方向に流されながら、レフトへ伸びていく。

「おいおい・・・」

レフトの西田が上がった打球を見上げながら、ゆっくり後ろへ下がる。そのとき、ふと固いものが背中に当たったような気がした。

さらにこれ以上下がることができない。追い掛けていくうちに、フェンスまで来てしまったのだ。

この時ちょうど、フラフラと上がっていた打球が落下し始めた。西田が腕を伸ばし、これを捕りにいく。





(コン)


打球は風に流されながら、ボールに直撃した。春日の左手からグローブ抜け落ち、レフトスタンドが騒然となる。打った本人のあおいは打席でア然としていた。

入った!入った!ギリギリいったー!最先端レフトポール直撃!

風に揺られた打球は、起死回生の同点スリーランホームランだー!









「じゃあな」

「また、夏に戦いましょうね」

旅館の門の前。明かりのないところで、少年と少女が別れた。2人に怒りや悲しみなどなく、ただあっさりとした笑顔があった。

少年は少女の姿が消えるまで見送ったあと、軽く背伸びをし、空を見上げた。

「(ヒビ入ってなくてよかった。佐々木妹の足も重傷じゃなかったみたいだし)」

何より試合に勝てた。4番と正捕手を試合中に欠きながら。見上げていた顔を真正面に戻し、軽く息を吐いた。

視界には、一定の感覚で街灯が1本1本輝いている。目を凝らせば、霊でも見えそうだ。

「(あおいちゃんも頑張ったけど、佐々木兄もよく頑張った)」

あおいの同点スリーランのあと、佐々木守のポール直撃の勝ち越しホームラン。

そのままあおいが聖鈴打線をノーヒットに抑え、逆転大勝利。表情にも言葉にも出さないが、尚史は安心していた。これならなんとかいけそうだ、と。

「(まあ結局、あいつを打てず仕舞いだったけどな。耳が聞こえなくなっても凄いわ、あいつ)」

耳が聞こえなくなった。その事実を本人の口から聞かされた。もちろん、俺はそれなりのショックは受けた。

だが、そんな風になっても、あいつは野球を捨てなかったし、俺との対戦を夢見、そしてそれを実現させた。

きっと並々ならない努力をしてきたんだろう。そう思うと、年上ながら尊敬してしまう。

「(やれやれ・・・俺もまだまだだな)」

まだ少し寒い風が、尚史の肌に吹き付ける。無数に光る春の星空をもう1度見上げ、背伸びをした。









暗がりの部屋に、俊彦が立っていた。電灯は一応あるが、俊彦はそれをつけようとせず、障子を開けて、月を眺めている。

「ツカサボール・・・。『七色変化球の俊彦』と呼ばれたワシでも投げられなかった魔球・・・。やはり、あの血じゃから投げられるんじゃろうか・・・」

俊彦が、年老いた手でボールを握る。握り方はほとんどシュートに近いが、少し違う。そのまま俊彦は立ち上がり、庭に出た。

「(あの王貞治ですら、1度も打てなかった魔球。それが、このツカサボール・・・)」

大きく振りかぶり、足をゆっくり上げる。目一杯に腕を振り、肘と手首を軽く捻る。その瞬間、俊彦の手からボールが落ち、その場に膝をついた。

「やはり無理か。こんな球を投げるあやつは凄いのう・・・」

1球も投げることが出来なかったというのに、額に脂汗が滲み、肘が強く痛む。

年というのもあるが、ツカサボールの反動がそれだけ大きいということなのだ。

痛みを堪えつつ、そのまま空を見上げ、今はいない人物に話し掛ける。その目は大変悲しいものであった。

「お前は今、どんな目で一条あおいとあいを見とるんじゃろうな」

桜の木を揺らし、俊彦の髪や肌を風が優しく撫でる。上を見上げれば、光の塵の中に輝かしいほど光る満月が浮かんでいる。

その満月を悲しげな目で見ながら、静かに涙を流した。




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