第9章
桜に纏わる過去





暖かな日射しが降り注ぐ昼時の公園。

鮮やかな桜色に染まった木は、穏やかな風が吹く度に儚く散って行き、花の水たまりを作って行く。その桜の木の下で、少女が静かに微笑んでいた。

「また来ちゃったね・・・この季節」

桜の花びらが頭に降り懸かるが、少女はそれを退けようとしない。ただ、何かに対して作り笑いを必死に浮かべていた。

「あれから9年経つんだね。早いなあ・・・」

ゴムで縛っている片側の髪を解き、セミロングの真っすぐな髪があらわになる。16歳にしては、まだ幼さの残る顔付き。背も決して高くない。

成績は上位に入るほど。だからといってそれを鼻にかけない。学校での同性からの人気はそれなりに高く、異性からの評価は普通。

この少女を知る近隣の人々の評価も高い。当然の如く、これは自然とそうなった(成績除く)だけで、少女自身は何もしていない。

いつの間にか人が集まって、仲良くなっている。少女はそれが嫌だった。その理由はある人物が関係している。

9年前にあった放火事件。少女がまだ7歳のときだった。

「(出会いがあれば、必ず別れもある。私はそれが恐い・・・)」

幼い頃に植え付けられた、別れという残酷なもの。その別れは、幼い彼女から大事なものを奪い取ってしまった。

それは人が嬉しくなると必ず、表情に出てくる。そう『笑顔』であった。

「(今の私は確かに笑える。でもそれは・・・)」

心から笑えない薄っぺらいもの。まだ人形の笑っている顔の方が、価値がある。

人から笑顔が可愛いとかよく言われるが、それは誤解だ。薄っぺらい笑顔に何の価値がある。どう価値がつけれる。

「はあ・・・」

気がつけば、あまり自分には似合わない、難しいことを考えていた。少女は膝に顔を埋め、大きなため息をついた。









「あいつは?」

「朝早くから出て行ったみたいですよ。何か元気がなかったみたいですけど・・・心配です」

「そうか。ありがとう」

少年は、少女に簡単に御礼を言って、玄関の方へゆっくり向かった。









「あれ・・・寝ちゃってたみたい・・・」

埋めていた顔を上げ、少女は眠た気な目を擦った。それでも意識がはっきりしないのか、視界がぼやけていて見える。

仕方がないので、少女は自分の頬を叩いて意識をはっきりさせようした。だが次の瞬間、そんなことをしなくとも意識はしっかりと覚醒される。

「ここ・・・どこ?公園じゃない」

下が六帖半の畳で敷詰められ、天井から古臭い電灯がぶら下がっている。

壁は白く、少し高いところに小さな窓が1つだけある。テレビや本棚などは一切無く、端の方に折り畳みの机があるのみ。

人が使うには、寂し過ぎるかもしれない。少女は部屋の壁にもたれかかり、天井を見上げた。

「誰の家だろう・・・」

あれだけ古臭い電灯がある家は、そうそうにない。さらに天井には、色々と突いたような痕が多く残っている。

目を凝らさないとかなり見づらいが。そのとき、ふと少女の頭の中にある人たちの名前が浮き上がる。

「もしかして・・・あの家じゃ・・・」

天井のついた痕。あれは、この狭い部屋で箒や棒状のもので叩かれて出来たもの。さらに部屋の壁をよく見てみると、うっすらと亀裂が入っている。

これも箒で叩かれ、それがたまに外れて出来たもの。端にある机の上を見てみる。そこには鉛筆で『助けて』と無数に書かれていた。

「嘘でしょ・・・やめてよ・・・」

生気を失ったかのように、少女の顔が真っ青になり、体全体が震え出していた。

いよいよ立てなくなったのか、その場に座込み、両肩を震える手で掴んだ。少女は震える口で弱音を吐いた。

「嫌だよ・・・恐いよ・・・」

体の震えは止まるどころか、さらにひどくなっていく。口は震え、両目からは大粒の涙が零れ出している。精神的にはかなり不安定な状態であった。

(邪魔ね)

「え?」

少女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、周囲を見渡した。だが、誰もいない。少女は首を傾げた。

「気のせい・・・かな?」

涙を袖で拭き取り、小さな窓を見上げる。夕方の太陽の光が僅かながら差し込んでくる。

それを見て多少落ち着いたのか、少女の体の震えが少し止まっていた。

少女の表情から怯えというものが取り除かれ、落ち着きを取り戻しつつある。そのはずだった。

(邪魔よ)

「!」

今度はしっかりと女性らしき声が聞こえた。治まりつつあった震えが、一気に振り返した。

「奈美さんの声だ・・・」

(邪魔だな)

「光男さん・・・」

(あいつはいらないよな)

「敦君・・・」

いらない

邪魔

あんたも死ねばよかった

余計なことはするな

そんな暴言が、少女の耳に混ざって入り込んでくる。耳を塞いでも、頭の中に響いてくる。

やめて、聞きたくない。そんな少女の悲痛な叫びを上げる。しかし、その声は誰の耳に届くことはない。

いやああああ!!

少女は耳を塞ぎ、そのまま膝顔を埋め、泣き声を上げた。外の夕日は真っ赤に輝いていた。









「あいつが行きそうなとこは・・・」

旅館を出て、少年は前にたまたま迷って発見した道を、やや駆け足で進んでいた。隣には黒い猫が、少年に引き離されないようについて来ていた。

「ニャア」

黒い猫が短く鳴くと、さらにスピードを上げ、突然少年を抜き去った。少年は黙ってそれについて行った。









「・・・ここは」

膝に埋めていた顔を上げ、少女はゆっくりと立ち上がった。いつ来たのかわからないが、さっきまでと打って変わり、清々しい外の世界が広がっていた。

少なくとも辛いことは、まず起こらない。何故なら、これも昔見たことのあるものだったからだ。気がつけば、少女は前に走り出していた。

「もしかしたら・・・」

心臓の鼓動が激しくなる。自分があることに対して、期待感を持っていることがよくわかる。もしかしたら勘違いかもしれない。

それでも、私は走ることをやめない。絶対いる。あの人は絶対いる。そう強く信じているから。少女は大きく息を吸い込み、大きな声で叫んだ。

お父さーーん!









「尊ちゃん、ナイス。よく見つけてくれた」

少年が尊と呼ぶ黒い猫を抱き上げ、端に鮮やかに咲いている桜に近づき、その木を背にして眠っている少女に手を伸ばした。

「おい・・・」

少年は少女の肩を揺らし、暗い声で呼びかけた。少女が小さく唸り、閉じていた目がゆっくりと開く。

「・・・キャー!









ごめん!寝ぼけてて、てっきりアークデーモンに起こされたのかと」

「俺をあんなイボイボの牛の化け物と勘違いするな。あと少しで、警察に連れてかれて、新聞に載るところだったんだからな。『ロリコン犯罪者』って」

「ロリコンって・・・私と1歳違いじゃないの」

小柄、童顔、子どもに近い性格。これでロリと呼ぶ以外に何がある。だが、ここはあえて何も言わない。

言ったら言ったで、ひっぱたかれるのがオチである。尚史は小さくため息をつき、尊を抱き上げた。

あはは、と笑っている理奈だが、徐々にその笑顔が薄れていく。いつもと違う理奈の異変に、尚史はすぐに気がつき、やや心配そうに尋ねた。

「どうした?」

しかし、理奈は下を俯いたまま答えない。尚史は右の人差し指で軽く頬を掻き、またため息をついた。

「ほれ」

「へ?」

尊を降ろし、尚史は理奈に背中を向け、ゆっくりしゃがみ込んだ。理奈はどうすればいいかわからず、ただ突っ立っていた。

「乗れよ。本当は泣き虫の癖に強がるな。泣くんだったら、俺の背中で顔を隠して泣け」

私は泣き虫じゃない!私は強いもん!

尚史には見破られていた。私は決して泣くまいと涙を必死に堪えていた。涙は誰にも見せたくない。

見せてしまうと、私が本当は弱い人間だとバレてしまうから。外はもちろん、一緒に住んでいる尚史にすら涙を見せていない。

「いや、強くない。泣かないで強くなった奴なんていないんだ。俺だって唯とヒナが死んだときは泣いたんだ。そして今の俺がいるんだ!

尚史はすっと立ち上がり、理奈の方へ体を向けた。理奈はビビったような表情を浮かべ、1歩後ずさった。

「ひ・・・」

尚史の腕が上がる。理奈は体をすくめ、目を閉じた。尚史は腕を振り下ろし、理奈の・・・。

「・・・え?」

頭を撫でた。尚史の予期せぬ行動に理奈は戸惑う。

「まあ早い話、1人で強がらず、たまには人に頼れってことだな」

尚史は不器用ながら、ニッと笑った。理奈は当々、涙を堪えきれなくなった。尚史はそんな理奈を抱きしめた。

「笑顔か・・・」

桜の木の下で、尚史はぽつりと呟いた。









帰り道、尚史は妙にニヤついていた。理奈は不思議に思い、尚史を見上げながら尋ねる。

「何ニヤついているの?」

尚史は、やはりニヤつきながら、理奈に返事を返す。声も何か嬉しそうだった。

「お前さあ・・・」

「?」

「意外に胸でかいな」

「馬鹿」

理奈は顔をやや赤らめながら、尚史の細い横っ腹を軽く殴った。尚史はそれでもニヤついていた。









尚史と理奈のいるところから少し離れた甲子園球場。この球場でまた球児達の桜が儚く散って行った。

去年の夏の準優勝高、白零大付属。この高校が、たった1人の少年によって儚く散っていった。

大槻いったー!鈴江のストレートをライトスタンドへサヨナラアーーチ!!桜ヶ丘に桜前線だーー!!

ガッツポーズを作らず、平静を保ったまま塁を回る大槻奈義。だが、心の中では笑っていた。そう。いよいよ戦うのだ。

神城高校と。そう思うと、表情にまでその気持ちが出てしまいそうになる。

大槻は、自分の顔を両手で軽く叩き、なんとか笑いを堪えながら、チームメイトが迎えるホームに到達した。









春の選抜甲子園。いよいよ最後の戦いが始まる。




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