第10章
桜ヶ丘高校





明け方の冷たい風が吹いた。誇らしげに桜を咲かしている木々は静かな音をたてて揺れる。

山の稜線にかかっている朝日の光によって、月が薄く、そして小さくなっていた。結城尚史はその朝方の景色を見ながら、大きな欠伸をした。

「ええ天気だわ。これこそ絶好の野球日和」

尚史はバットケースから1本の木のバットを取り出した。グリップより上は黄色く、下は赤色だが、所々白色の部分も目立っている。

グリップエンドに至っては、完全な白色である。その妙なバットを両手で握り締め、そしてバットのヘッドを肩に置いた。

「(今日の試合も、最初から俺は出ることが出来ないだろう)」

左足には、甲をちょうど覆い尽くすような湿布が貼られている。当然ながら、歩くたびに電気が走るように痛む。原因は、2回戦の広島聖鈴戦での自打球。

ヒビは入っていないが、怪我自体は軽くはない打撲と診断された。ドクターストップは辛うじて免れたが、全試合に出場は無理とのこと。

完治するにはまだそれなりにかかるらしい。尚史はもう1度確認するかのように、自分の左足の甲に強く触れてみた。

「うく・・・」

触れた瞬間、体全体に痛みが走り、尚史は小さく唸った。痛みで体が僅かに跳ね上がり、肩に置いてあったバットが地面に転がる。

尚史は立ち上がって、バットを拾う。満開の桜がまた揺れていた。









大勢の観客が入り浸り、ブラスバンドや応援歌で賑わうマンモス球場。

球児の聖地と呼ばれるこの甲子園では、数え切れないほどのドラマが生まれ、奇跡が起きている。この球場に来れば、弱小も無名も関係ない。

皆栄光の優勝旗を目指して戦う、言わば挑戦者なのだ。徳島県代表 神城高校対神奈川県代表 桜ヶ丘高校。今日、第78回の春の王者が決まる。









3塁側ベンチ。黒い帽子に真っ白なユニフォーム。

胸の刺繍には桜のマークの中からはみ出るようにして、「桜ヶ丘」と書かれている。この高校は歴史が古く、今年で82年目を迎えた。

その中で野球部は56年前に誕生し、春優勝2回、準優勝1回、夏優勝3回、準優勝2回と輝かしい功績を持っている。

もちろん数々のプロ野球選手も生まれている。そして今年も、プロのスカウトに注目されている選手がいた。

それもまだ新2年生の2人。そのうちの1人が、ベンチの前で軽いストレッチを行っており、もう1人はバットのヘッドを肩に置いて、座っていた。

「真よ」

真(しん)と呼ばれた少年が首を向けずに、反応する。その表情はどこか嬉しそうである。本人から言わせれば、これが自顔だそうだが。

「どした。ストレッチでアキレス腱でも切ったか?」

「切れたら、もっと騒ぐつーの。お前に頼みがあるんだよ」

そう言うと、ストレッチの少年は、真の両肩を強く掴んだ。真は相変わらず嬉しそうな顔のまま、少年に答える。

「何?彼女は譲れんぞ。俺とあいつのき・・・真面目な話みたいだな」

自分の危機を感じてしまうような目で睨まれていることと、掴まれている手の力がとんでもなく入っていることに、真は気がついた。

真はゆっくりと掴んでいる手を外し、少年に尋ね返した。

「で・・・頼み事って?」

少年は真剣な面持ちのまま、真に答えた。

「それはな・・・」









桜が咲き乱れるこの季節。球児達は選ばれ、この球場で激戦を繰り広げ、そしてそのほとんどが桜を咲かせず、散らした。

両校整列!

桜の蕾が開きかかっている2つのチーム。

これより神城高校と桜ヶ丘高校の試合を始めます!互いに礼!

お願いしまーす!!

外野の大きな声援とともに、戦いは今始まる。


先攻:桜ヶ丘高校(神奈川県)

1番 ファースト 高浜
2番 レフト 市岡
3番 ライト 野神
4番 ピッチャー 大槻
5番 セカンド 八幡
6番 キャッチャー 笹田
7番 センター 多田岡
8番 ショート 緑川
9番 サード 井町


後攻:神城高校(徳島県)

1番 センター 川上
2番 セカンド 高橋
3番 ピッチャー 一条
4番 キャッチャー 佐々木守
5番 ライト 和木
6番 ショート 篠原
7番 レフト 黒崎
8番 サード 木下
9番 ファースト 川相一郎


「・・・暇だな、佐々木妹」

「ほんまですな・・・」

「でも考えてみれば、こうやってベンチでのんびりと座ったことないんだよな・・・」

「ほんまですな・・・」

「違う意味で楽しめるかもな」

「ほんまですな・・・」

「本の間は?」

真奈に返事はなかった。









マウンド上のピッチャーが、片手にロージン1つ持って、相手打者が入るのを待っている。

ロージンを1回上にトスする度に長い後ろ髪が揺れ、白い粉が空へ消えて行く。早く構えなさいよ、とあおいは苛立ち気味に呟いた。

「(あおいちゃん・・・短気過ぎ)」

分かっている。彼女が短気なことぐらい。たぶん、子どもに物凄いギブスをつけさせて、それをばらしたときには、ちゃぶ台返しをするだろう。

某有名な漫画の話にもあったと思うが、気にしない。尚史は頭を押さえて、深いため息をついた。

「(やっと構えたわね。遅いわよ)」

あおいが一息ついて、大きく振り被った。足を上げ、上体を大きく捻る。いつもより背番号1が打者からよく見えていた。

マスクをつけて、ミットを構えている佐々木守の目からでもそれがよくわかる。

「(いつもより、よう捻っとるわ。ええ球が来るで)」

捻った体を解き、腕を目一杯振り、大きく前足を踏み出した。佐々木の予想した通り、唸るようなストレートが高めを突き進み、ミットに飛び込んだ。

「ストライク!」

ええ球やで、一条!

審判の高らかな声が響く。佐々木はボールをあおいに返し、大きな声であおいに激励を送った。

あおいは当然といったような顔で、恰好をつけてボールを受け取った。

「(本日も絶好調!)」

言葉通り、あおいは1番、2番を3球三振に打ち取り、あっという間にツーアウト。ここで桜ヶ丘のクリーンアップを迎える。

「3番 ライト 野神君。背番号9」

余裕の表情を浮かべていたあおいも、このときばかりは真剣な表情に変わっていた。

外野の3人もやや後ろに下がり、内野陣も1歩下がる。尚史と真奈は冷静にベンチから野神を分析していた。

「こいつは要注意だな。今までみたいに何も考えずストレートでいくとやられるぞ」

「1試合大会最多打点を塗り替えたぐらいですからね。この人は気をつけんと」

野神は1回戦の青森東工業戦で、桑田、松井秀喜らが持つ1試合最多打点(7打点)を塗り替える、8打点を記録している。

さらにホームラン3本とこれもまた、大会タイ記録であった。これで余裕でいられる奴はいない。

「(初球はストレート。出来る限り、内角を狙ってもっと速く感じさせる)」

「(内角ストレートか。ぶつけんようにな)」

佐々木が内角に寄り、ミットを構えた。あおいがロージンを念入りに叩いた後、振りかぶった。第1球目。

「(あ、逆にいった!)」

自分の出したサインとは逆に、投じたストレートはまったく逆の外角低めを突き進んだ。だが、コース的にはかなり際どい。

「(結果オーライや。ええとこ来とる)」

中村紀洋(オリックス・バッファローズ)ばりに構えていた野神の足が大きく上げり、これを打ちにいった・・・かのように思われた。


(コン)


え!?

何やて!?

今大会、ホームランと打点の2冠の打者である野神。当然、強打しかないと普通は思う。だが、この場面で野神はセーフティーバントをして来たのだ。

強打に備えて下がっていた木下は慌てて前進し、ボールを取った。だが投げる頃には、野神は1塁に到達していた。

「(小細工は無いと思ったけど・・・)」

「(裏を掻かれたな・・・)」

野神の奇襲攻撃に、ボー然とする2人。だが、やった本人はあまり納得していなかった。

「(バントは嫌いなんだがな。せこいし)」

だが無理に長打を狙えば、あの球なら三振する確率は高い。これでは試合前に大槻と約束したことが守れない。

野神はファーストベースを軽く2、3回踏み、苛立ちを抑えた。









「4番 ピッチャー 大槻君。背番号1」

「(バントまでしてくれて悪いな。点を取るにはこうするしないんだ)」

前で軽くバットを振り、大槻はバットを肩に乗せ、2人のサイン交換を待った。

「(打率0.409、本塁打1 打点7。打率以外、野神の方が上回ってるのに、何故か4番を打ってるんよな)」

「(でも、強打者に変わり無いわ。甘い球には気をつけないと)」

もちろんランナーがいることも忘れていない。野神は足も早く、この選抜でも6盗塁を決めている。

そうなると、不用意に変化の大きいスクリューは投げられない。城島や全盛期の古田みたいな肩があるのなら話は別だが、佐々木は肩はよくない。

盗塁されれば、ワンヒットで1点になる。相手が相手なだけに、こちらが先制するまでは1点もやれない。となると、どうするか。

「(お姉ちゃんが言ってたけど、この大槻って子。三振が0らしいのよね)」

三振が0ということは、当てることに長けているということ。ならばそれを利用して、当てやすそうな球で引っ掛けてやればいい。

「(今度はミスしないように・・・)」

左足をプレートに乗せ、しっかりと野神の様子を確認する。リードは小さく、走ってくる様子は無い。

大槻が肩に乗せていたバットを高橋由伸みたいに頭の上で上下に揺らし、足でリズムを取り始めた。

あおいが足を素早く上げる。野神は大きくリードを取るものの、走らない。

「(甘いな。140k/mストレートぐらいなら、ヒットにすることくらい容易い)」

あおいが投じたコースは、甘い外角高め。投じられる瞬間に引き上げていた足を降ろし、大槻はこれを打ちにいく。

「(かかった!)」

「(しまった、カットボールか!)」

ボールは軌道を僅かに変え、外側に逃げた。ストレートの軌道に合わせていた大槻は、瞬間的に添えていた左手を放した。

外側に逃げた分を片手を放して、僅かな距離を補ったのだ。


(キン!)


」 打球は3塁の木下の頭上を越え、レフト線に飛んだ。落ちれば2塁打は確定である。


(バシッ)


グローブの乾いた音が静かに響いた。捉らえたはずの打球がそこにない。飛び込んで取りに行った黒崎が腕だけを上げ、駆け寄ってきた審判に見せる。





「アウト!スリーアウト、チェンジ!」

あおいが笑顔で拍手をしながら、マウンドを降りた。逆に大槻は、苦虫を噛んだような表情を浮かべていた。

1塁ランナーの野神が駆け寄り、大槻を笑い顔でなだめる。

「アンラッキーだったな。芯で捉らえすぎだ分、伸び過ぎた。ま、しゃーねえよな」

「次は捉らえるさ。お前が塁にいる限り、ストレートかカッターしか投げられないんだからな」

「まあな。ビデオで研究した甲斐は一応あったな」

昨日の晩、大槻は、あおいが登板した試合をビデオに録画し、それが擦り切れるほどまで見て研究していた。

150k/mを越えるストレートでさえ連打するのは難しいのに、スクリューを混ぜられれば、ヒットすら難しくなる。

強力なスクリューでも、投げるときが分かれば、どうにかなるかもしれないと思った。

だが結局それで分かったのは、スクリューの凄まじさだけ。フォームの違いや投げるときの癖もまったく見当たらなかった。

そこで思いついたのが、誰かが塁に出てもらい、スクリュー自体を投げさせないようにすることだった。

「(足が少し速い奴なら、確かにスクリューは投げにくい。それが駿足な奴なら尚更だ。大槻の奴、考えたな)」

ベンチで腕を組んで、戦況を見守っていた尚史も、このことに気がついていた。それが、そんなに焦ることでもないということにも。

「(スクリューが無くとも、あおいちゃんの球が、そう打たれることはまずない)」

ただ1つだけ心配すること。それは・・・。

「ファアボールで自滅しないことだな。ただでさえ、あおいちゃんは貧乳なんだから」

その瞬間、俺の目に火花が散った。次に目覚めたときは、6回のときだった。




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