球場のスタンドが、色様々な傘によって埋められていく。
あれだけ青く晴れていた空は、気がつけば灰色の雲に覆われ、グラウンドにまだ小さな雨粒が降り始めていた。
しかし、その程度の雨では、試合は中断されない。場面は6回の裏。ノーアウト、ランナー無し。
右打席には結城尚史が立つ。恐らく、この試合のターニングポイントになるであろう。
「(今回は、あいの話を聞いてないわけだが、こいつは一体、どんな球を投げるんだ?)」
彼女によって、今まで気絶していたため、大槻の持ち球を知ることなく打席に立つ羽目になった。だからといって、彼女を恨むことはできない。
怒らすようなことを言ったのは、自分である。そして、長い間気絶していたのも悪い。
・・・何故、誰も起こしてくれなかったのか気になるが。尚史はヘルメットを深く被り直し、バットを軽く振った。
「(あと、監督のあの言葉も気になる)」
かつて西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)の不動のエースで、年間42勝、8年連続20勝等々、数々の記録を残した投手。
それが稲尾和久。監督は、すれ違い様にその人物をヒントがてらに、口にしたのだろう。
「稲尾・・・」
「久しぶりだな、結城」
笹田が尚史に話し掛けた。だが、考え事をしている尚史の耳には届かない。笹田はもう一度、尚史に声をかける。
「おい、無視するなよ」
それでも尚史は、笹田の言葉に耳を傾けようともしない。笹田は、少しムッとした表情で大槻にサインを出した。
「(スライダーか。まあ、いくらあの結城とはいえ、代打では、俺の球を打てるはずないわな)」
大槻が縦に首を振った。笹田が内角に寄って、ミットを構える。尚史はバットを肩に担いだまま、いつもの構えをしようとしない。
大槻は構わず振りかぶり、笹田のミットに目掛けて投げた。尚史の内角をえぐるようにして、大槻の投じた球は大きく外側へスライドした。
審判のコールはストライク。だが、2人は今の尚史の態度に、不快感を覚えた。
「(踏み込むどころか、打つという気迫すら見られない)」
「(一体、何を考えている。やはり、1番わからん奴だ)」
笹田は、様子を見るため、もう1度大槻にスライダーのサインを出した。大槻は静かに頷き、第2球目を投じた。
もし、打つ気があるなら、同じ球種の球を見逃さず、打ちに来るはず。
だが、笹田の予想とは反して、尚史はピクリとも動かない。判定はストライク。笹田は、この尚史に不快感より、不気味さを感じ始めた。
「(おいおい・・・本気で何考えてんだ、こいつは?)」
流石に同じ球を投げさすのはまずい。いくらなんでも、目が慣れているはず。ならば、ストレートを1球外さして、次の4球目に勝負をかける。
笹田が、外すようにストレートのサインを出した。だが、これに大槻が首を振る。そして、大槻がサインを返した。
「(外角高めじゃなくて、内角高めにいきましょう。140k/mのストレートならいくらなんでも、のけ反るでしょう)」
笹田は、大槻のサインに同意し、内角高めにミットを構えた。大槻が振りかぶり、第3球目を投じる。
「ボール!」
尚史は、顔面近くに来たボールを避けようともせず、ただ黙ってずっと同じ構えを保っていた。
「(恐くないのか?今のなら、普通のけ反るぞ)」
「(顔にも出にくいからな。尚、タチが悪い)」
笹田は苦笑しつつ、大槻に決め球のサインを出した。大槻の口元僅かに緩み、そして軽く頷いた。
「(来る)」
肩に担いでいたバットを降ろし、尚史がようやくいつもの構えを見せた。大槻が振りかぶる。尚史の足が大きく引き上げられる。
「(1球で俺の球を打てるはずがない。ナメられたもんだ)」
ど真ん中に決まる球。それが大きく、尚史の胸元に切れ込んでくる。
「(あの言葉が間違ってなければ、この球は・・・)」
引き上げられていた足が、大きく外側に降ろされる。無駄な力を抜いた尚史が、剃刀のごとく切れ込んでくる大槻のシュートを一刀する。
(キィン!)
短い金属音と共に、打球が高々と舞い上がった。笹田がマスクを取った。取ったが、何かを叫ぶまでの時間はまったくなかった。
打球は、ライナーでレフトスタンド上段に飛び込んだ。レフトは1歩も動くことができなかった。
「入ったーー!!先制ホームランがレフトスタンド上段に飛び込んだー!
均衡を破ったのは、代打結城尚史の一振り!神城高校先制!」
大槻が帽子を深く被り、マウンドの土を蹴った。笹田はマスクを持ったまま、レフトスタンドを見上げていた。
「(何故、シュートが来ると分かったんだ?)」
3塁を回って、ホームに尚史が帰って来た。足がまだ痛むのか、それを庇うように歩きながら、ベンチへと帰って行った。
「監督。俺だから良かったもの、他の人だったら、あんなヒントじゃ、絶対分かりませんから」
「お前だから出したんじゃよ。稲尾の決め球はスライダーではなく、シュートだとな。それが当たったんじゃから文句あるまい」
「・・・恰好良いこと言ってると思ってるんでしょうけど」
尚史が、グラウンドの方向へ首を向けている俊彦に向かって、ビシッと指差した。
「声がニヤついてます」
俊彦が慌てたように後ろを振り向いた。その様子に、尚史は小さなため息をついて、ベンチに腰掛けた。
7回の表、桜ヶ丘高校の攻撃。3番の野神から始まる打順。ここまでの野神の成績は、1打数1安打1四球。
チームが2安打しかしていない分だけあって、野神の出塁は非常に大きい。
「ストライク!バッターアウト!」
だが、その野神もあおいのスクリューの前に、あえなく三振に終わる。野神は笑い顔のまま、バットを叩きつけ、ベンチへ戻って行った。
「4番 ピッチャー 大槻君。背番号1」
左打席に大槻が入った。肩にバットを乗せたまま、2人のサイン交換を待っている。
「(三振が無いのが、わかった気がする・・・)」
過去2打席を見て、大槻には分かりやすい特徴を、あおいは発見していた。あおいは鍔を持って帽子を左に2回動かし、守にあるサインを出した。
「(うまくいけば、簡単に打ち取れるはず・・・)」
大槻が頭の上で、緩やかにバットを動かし、あおいが投球に入るのを待つ。
佐々木守が僅かに立ち上がり、ミットを構えた。あおいが振りかぶる。第1球目。
「(高めのストレート。ヒットに出来る)」
大槻が果敢にも、初球からバットを出し、あおいが、コントロールを重視して投げたストレートを捉らえる。
打球は1塁側スタンドに飛び込み、ファールとなった。このバッティングで、あおいはあることを確信した。
「(三振が無いのは、彼が積極果敢なバッティングだからよ)」
当てるのが上手いというのも、確かにある。そうでなければ、1打席目のカットボールも芯で捉らえることは出来ない。
だが、それ以上に積極打法なのだ。そうなると、ある程度配球を考えやすくなる。
「(際どいボール球なら振ってくるはず。追い込めば、スクリューでいけるから)」
第2球目。これも同じように、コントロールを重視した、外角高めのストレート。
大槻はこれに手を出し、ファール。カウント2-0。ここまでは、あおいの予想通り。
「(向こうも多分、分かってると思う)」
あおいが左肩を右手で軽く叩き、スクリューのサインを出した。守がバシッとミットを叩き、気合を入れた。
「(だからこそ、投げ甲斐があるのよ)」
あおいが振りかぶる。足を上げ、上体を大きく後ろへ捻る。大槻がそれに合わせて、足を大きく引き上げる。遊び球無しの第3球目。
「(しまっ・・・!)」
あおいの腕からボールがすっぽ抜け、何の変化もしない、単なる棒球を投じてしまった。
これで決めるはずのあおいと守にとって、予想外のこと。だが、それは大槻も同じことだった。
「(マジか!)」
タイミングを完全にストレートに合わせていた大槻。上げていた足は、降ろしてしまい、バットも出かかっている。
「(すっぽ抜け程度で、お前が三振するわけないよな)」
腕と足を組み、ベンチにどっかりと座って、大槻をじっと見つめる。
「(だってよ。お前は)」
大槻の足が再び引き上げられる。
「(天才バッターなんだからよ)」
(キィン!!)
「ふぐっ!」
大槻が打った打球は、ライナーであおいの右足に直撃した。打球が大きく跳ね上がり、あおいがその場に倒れ込む。
跳ね上がった打球を篠原が飛び込み、ダイレクトで捕球する。審判の腕が上がり、アウトを宣告した。
「あおいちゃん!」
ファーストを守っていた尚史が、足を引きずりながら、一目散へあおいの元へ駆け寄る。その後からも篠原や高橋も寄って来た。
「うう・・・」
あおいは足を押さえたまま、妙な唸り声を上げている。額からも嫌な脂汗が滲み出ており、怪我の程度を示すには充分過ぎるものであった。
尚史が膝をついて、あおいの肩を持って、軽く揺らす。あおいはその腕を振払い、また唸り声を上げた。
「仕方がないな」
「何をする気や、結城はん」
「後で、治療を頼む」
「は?」
尚史が両腕を大きく上げると、仰向けになって倒れている、あおいを抱き抱えた。その手はどこを持っているか。答えは簡単である。
(ムニュ)
「あ・・・やっぱ小さい。でも、俺はこれぐらいの大きさが好みだな」
あおいの周りを囲んでいた、佐々木守や高橋、審判らが、全員1歩後ろへ下がった。
これは尚史の行動に驚いたのもあるが、妙な殺気が、あおいに集まっているのを感じてしまったのが、理由である。
だが当の尚史は、遠慮なく、あるものを揉み続けている。しかも、恐れることなく・・・というよりも、満足そうに。
だが、揉まれている者の殺気は、徐々に高まっていく。そして、それはついに限界を迎えた。
「止めんかーー!!このど変態!!!」
甲子園に響き渡る怒声。華麗に決まるアッパーカット(回転をつけて)。満足そうな笑顔を浮かべ、尚史が甲子園のマウンドの上で、派手に宙を舞う。
そして、尚史の口から流れ出た血が、桜の花弁のように色鮮やかに美しく舞った。
怒鳴り声を球場中に張り上げたあおいだが、この回、5番の八幡に一発を浴び、同点に追い付かれてしまう。
それでも、なんとか投げきり、6番の笹田をファーストフライに打ち取り、7回を終えた。
7回の裏、5番の和木から下位打線へと繋がる打順。全員、6球近く粘ったが、ことごとく、大槻のシュートとスライダーの餌食となった。
そして8回の表。怪我負いのあおいに、桜ヶ丘が追い撃ちをかける。
「一条!」
執拗なバント攻撃である。怪我をしているせいで、あおいは球威が落ちており、バントしやすくなっている。
こうなれば、あおいに捕らせるようにようにすることぐらい、簡単に出来る。
「しつこい・・・男は・・・嫌われるわよ・・・」
行きも絶え絶えな状態で、あおいはファーストの尚史に向かって送球する。その瞬間、あおいは膝から崩れ、マウンド上にへたりこんでしまった。
「こんな怪我ぐらいで・・・情けない・・・」
あおいは尚史の肩を借りて、なんとかベンチへ帰り着いた。
「一条。これ以上は黙っとくわけにはいかん。あとは西条に任せておくんじゃ」
俊彦は、もはや呼吸すらままならないあおいに向かって、ついに大ナタを振った。
「・・・」
答える気力すらないのか、あおいは何も喋らない。
グラウンドは一層騒がしさを増す一方、ベンチには暗い雰囲気が漂い始めた。呼吸を整え、あおいの口が開く。
「私は・・・エースです。このチームを優勝させるために、ここまで頑張って来たんです」
あおいが、呼吸を一旦整え、そして言葉を紡ぐ。
「例え、この右足が砕けようとも、私は・・・」
ーーーー投げ抜きます。
「6番 キャッチャー 笹田君。背番号2」
試合は延長戦に入った。もはや、あおいの足は限界に達している。俊彦も今すぐ審判に言って、代えてやりたいのが本心である。
だが、ほとんど満身創痍に近いあおいが、それでもグローブを取って、マウンドに立っているのだ。これで降板さすなど、誰が出来よう。
(キィン!)
大槻の打球が足に当たり、バント攻撃をされ、それでも頑張って投げ抜こうとするあおい。
その頑張りに、心を打たれた者もいるだろう。これが、明日無き高校野球なんだと。
だが、勝負の世界に美しいという言葉など存在しない。あるとすれば厳しく、そして残酷という言葉だけである。
その言葉の前にあおいは
無残にも力尽きた。
「傘だらけのスタンドに、白球が飛び込んだーー!!
笹田の今大会2号ホームランが土壇場で出ました!桜ヶ丘高校!ついに勝ち越し!!2-1!」
灰色の空から降り注ぐ無限の雫。マウンド上で、膝から崩れたあおいに、容赦なく降り注ぐ。
それでもあおいは立ち上がり、次の打者へと立ち向かう。体は死んでも、その目は鋭い眼光を放っていた。
10回の裏。8番から始まる打順。
希望という名の光にすがり、神城高校の最後の攻撃が始まる。