第13章
桜の咲いた日





上空は灰色に染まり、まだ冬の余韻を感じさすような冷たい雨を降らしている。

球場の両スタンドは傘で完全に埋まり、それでも尚、手を休めることなく応援は続いている。

バックスクリーンの上に存在する旗は、いつものように、風で激しく揺れている。

しかし、この日は珍しく、微弱ながらも、3塁方向からライト方向に向かって風が吹いている。

だが、風があるとはいっても、この大槻の球をたった1打席だけで打てるのかどうか。不安と緊張の中、佐々木真奈が右打席に入った。

「(代打か。まだ佐々木妹は恐くない。恐いのは・・・)」

笹田がマスク越しに、ネクストバッターサークルを見る。片膝をつき、バットを肩に担いで、いつもと変わぬ冷たい目で、尚史が真奈を見つめている。

見ているのは佐々木妹のはずなのに、何故かこちらがプレッシャーを感じてしまう。

笹田は首を大槻のいるマウンド方向に戻し、何を投げさすか考える。

「(目の慣れていない代打なら、変化球で翻弄するべきだ)」

大槻の変化球は、スライダー、シュート、チェンジアップ。いきなり遅い球を投げさせて、翻弄するのも良い手かもしれない。

何よりこの試合では、チェンジアップを2、3球程度しか投げさせてない。

まさか、いきなりチェンジアップが来るとは、思わないだろう。笹田は、チェンジアップのサインを出し、内角に寄った。

「(この試合もあと少しだ。気を抜くなよ、大槻)」

大槻が堂々と振りかぶる。足を大きく上げ、腕を鉞のごとく振り下ろした。

投じた球は、緩やかな放物線を描き、笹田のミットに納まる。タイミングを狂わされた真奈は、バットを引き、見送った。判定はストライク。

「(ちゃう。私の待っとう球は、こんな球やあらへん)」

第2球目。やや真ん中寄りのアウトハイの球。真奈が外側に大きく踏込み、これを打ちに行く。

だが、この球はスライダーであった。真奈のバットは掠りもせず、空振った。

「(シュートを狙ってたか。スライダーを投げさせてよかった)」

投手有利のカウント2-0。1球外して、またそこから配球をを考えることもできる。

だが、流石に大槻の球威も落ち始めている。あとこの回を抑えればいいが、やはり早く打ち取ってしまいたい。

「(佐々木妹は、何かイメージ的には、どこか頑固っぽい気がする)」

あくまで見た目で判断したものだが。だがもし本当に頑固なら、シュートを投げるのは危険である。

ピラニアの池に飛び込むようなものである。笹田はスライダーのサインを出し、内角に僅かに寄った。大槻が振りかぶる。

「(来い・・・)」

キレ味の鋭い球が、真奈の膝元へ。真奈がバットを引いて、大きく内側へと踏込む。

「(当たりや!)」

真奈のバットが大槻の外へ強く逃げるスライダーを巻き込む。打球は右中間のど真ん中へ。

ライト!

真奈がバットを放り投げ、全力疾走で走る。センターがボール取っている間に1塁を蹴り、2塁へ。右中間を真っ二つに破るツーベース。

「(あの空振りはスライダーを投げさすための伏線だったのか?)」

それとも、狙い球を変えたのかのどちらか。しかし、打たれたことを気にしていても仕方がない。笹田はマスクを被り、その場に腰を降ろした。









「9番 ファースト 結城君。背番号5」

肩にバットを乗せ、尚史が右打席に入る。この打席は先程とは違い、真剣な眼で大槻を睨んでいる。

流石の大槻も、この尚史の眼を見て、少し臆してしまった。

「(なんて眼をしてやがる。これが本当の結城尚史なのか)」

大槻は臆してしまった心を落ち着かせるために、ロージンを手に取った。

「(甘いと、一発でサヨナラだな。当然、監督からも敬遠のサインはない)」

打順的に言うと、今敬遠をするのはかなり厳しい。大槻からヒットを打っているのは、あおい、理奈、尚史、真奈の4人。

そのうちわけは、あおいは2安打、尚史が1安打、真奈が1安打、理奈が4安打。敬遠出来ない理由も、もうお分かりであろう。

当たりに当たっている理奈と勝負を選ぼうなら、まさに命知らずである。

逆に言えば、ここで尚史を打ち取れば、敬遠して、当たっていない高橋と勝負が出来る。

高橋をダブルプレーで仕留めれない場合は、2安打のあおいに回るが、足を怪我しているため、まず打つことは出来ない。

「(2度目のターニングポイントか。ここで打ち取らないと、流れは神城に行くかもな)」

大槻がロージンを放り投げ、笹田のサインを見る。笹田が出したのは1球低めに外すとのこと。

「(やっぱ、慎重に入るべきだよな)」

2塁ランナーの真奈をちらっと見つつ、クイックモーションから投じられる。

「(走ってきた?)」

真奈は、大槻が投じた瞬間にスタートを切った。だが、スタートを切るにしては遅すぎる。笹田なら、低めに外したストレートでも刺せるだろう。


(コン)


!?

笹田は一瞬、何が起きたか理解できなかった。しかし、打球音と打球の位置を見れば、尚史が何をしたかはすぐに分かる。

「(完全に意表を突かれた!バントエンドランだったのか!)」

大槻が転がった打球を捕球し、サードに送球しようとした。だが、タイミング的に真奈は完全にセーフである。

3塁を諦め、1塁へ送球しようとした。足を怪我している尚史は、あまり進んでいない。刺せる。大槻はそう思った。

「投げるな大槻!ランナーを忘れるな!」

大槻はボールを投げるふりだけし、そして笹田に投げた。本塁へ突っ込もうとしていた真奈だったが、3塁に慌てて戻った。

「(惜しい。ファーストに投げれば、佐々木妹がノンストップでいくはずだったのに)」

尚史は短く舌打ちをし、ベンチへと帰って行った。足を痛めている尚史が一振りとはいえ、ホームランを打ち、ましてやセーフティーバントの内野安打狙い。

誰が監督をしようとも、ここは代走を出す。尚史の代わりには、盗塁、走塁センスのまったくない、川相二郎が入った。

「(なんにせよ、約束通り最高の場面で理奈に繋いだ。あとはあいつ次第だ)」

「1番 センター 川上さん。背番号8」









灰色に染まった上空からは相変わらず、雨が降り続いている。その強さは僅かに強まっており、これより強くなるのであれば、中断は免れない。

だが、この試合を止めることを誰が出来よう。ノーアウトランナー1、3塁。川上理奈がヘルメットを深く被り、左バッターボックスに入る。

「(嫌なバッターを迎えちまったな)」

ここまで理奈は、大槻に対して4安打。過去に、大槻が1人の打者にここまで打ち込まれたことは、もちろんない。

それも大槻は腹を立てているが、もう1つのことで腹を立てているのだ。

「(内野安打、ライト前、左中間への2塁打、右中間への3塁打。この俺が順番に打たれている)」

もしこれでホームランが出れば、サイクルヒット+サヨナラ優勝という凄い記録が生まれるのだ。

だが、まず理奈にホームランは無いと見ていい。何故なら理奈は、ホームランを狙えるほどパワーが無い。

失投があれば、ホームランを打てるかもしれないが、疲れてきた大槻とはいえ、それはまずない。尚史も理奈もそれは充分分かっていた。

「(でも、尚史がベンチに引っ込んで、あおいちゃんもあんな状態じゃ、サヨナラにしないと勝ち目は無い。それに・・・)」

それに。今日はあの人の誕生日だから。理奈はユニフォームの右袖を引き、バットの先を空へ向ける。

甲子園のスタンドが異常なまでに沸き上がっている。大槻が笹田のサインに頷き、セットポジションを取る。

「(私があの家を逃げ出したあの日)」

大槻が足を上げ、笹田の構えたミットに渾身のストレートを投げ込む。

雨の音にも負けないぐらいのミットの渇いた音が、甲子園に響き渡る。

審判の腕が上がり、ストライクをコールする。理奈はもう1度右袖を引き、バットを空へ向けた。

「(ちょうど、あの日も雨だった)」

バットを1回転させ、足を開いて、バットを軽く揺らしながら、肩に担ぐようにして構える。

大槻は川相の足を気にしつつ、笹田のミット目掛けて、全身全霊を込めたストレートを投げ込む。

「(私はあの日、宛もなくさ迷い、雨に打たれていた)」

足を大きく振り、大槻のストレートを打ちに行く。打球が真後ろに飛び、ファールとなった。

「(自殺しようかさえも考えてた)」

大槻が額から流れてくる雫をユニフォームの袖で拭い、笹田の出すサインを見る。大槻がそれに頷く。

「(そんな絶望の中で、私は確かに見た)」

大槻が足を上げる。笹田が内角に寄り、ミットを構える。

「(私に希望の光を与えてくれた、雨に揺れるあの桜)」

時計の振り子がゆっくり振れる。今、理奈の足が静かに時を刻む。

「(私は一生忘れない)」

時計の振り子に、鋭い切れ味を持つ球が切れ込んでくる。端まで振り切った振り子は、今度は前へと振れる。


(キィン!)


理奈のバットが大槻のスライダーを捉らえた。打球は高々と上がり、ライトへ。理奈はバットを持ったまま、打球の行方を目で追っていた。

「(上がり過ぎだな。スライダーを僅かに打ち損じた)」

真がライトフェンス際で、グローブを構えた。真奈がタッチアップの体勢にを取り、打球の様子を見ていた。

「な、なんや・・・」

真奈はこの打球に思わず見とれてしまった。真奈だけではない。この球場にいる多くの人間が、この打球に見とれてしまっている。

「(どうやったら、こんな綺麗な打球になるんや)」

だが、真奈はすぐに正気を取り戻した。打球はライト最奥。いくら綺麗な放物線を描いても、入らなければ、絵に書いた餅である。

まだ、犠牲フライには充分なりそうなので、意味がないことはないが。

「(桜の花びらは風に運ばれ、そして地面にゆっくり着地する)」

フェンスを背にグローブを構えていた真が、いきなりフェンスに上り始めた。

「(高く上がった分、風に吹かれてる。まずい!)」

打球が緩やかに落下し始める。球場が静寂に包まれ、観客が固唾を飲んで見守る。

神城高校の選手は、ほぼ全員がベンチを出て来て、全員がそれぞれ叫んでいた。

「(あの日見た桜・・・あなたに捧げます)」







お父さん







あなたは桜をこよなく愛し、いつも桜を見に、あの公園へ連れて行ってくれましたね







そして、いつかあなたに言いましたね







大きくなったら、今度は私が綺麗な桜を見せるんだって







でも、あなたはもうこの世にはいません







それでも、天国からあなたが、今の私を見ていると信じています







桜は終わりを象徴するものでもあり







桜は始まりを象徴するものでもある







桜が散っても、緑の葉が生い茂り、新たな生命が生まれる







だから、あなたのために頑張って来た私の人生も終わりを告げる







そして







また新たな私の人生が始まります







自分の未来に桜を咲かすために







見てて下さい







そして







見守っていてください







終わりと始まりを司る花







雨桜







灰色の空の切れ目に、光が差し込んでくる。雨は止み、穏やかな風が吹く。

1枚の桜の花びらが、甲子園のスタンドに舞い降りた。熱い熱い想いの篭った桜が・・・。

少女は笑う。怒りも、悲しみも、憎しみもそこにはない。ただ透き通るような笑顔。ただそれだけが、そこにあった。







少女の心にも、やっと春が来たのだ







寒い寒い冬を抜け







穏やかな春がやっと・・・




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