上空は灰色に染まり、まだ冬の余韻を感じさすような冷たい雨を降らしている。
球場の両スタンドは傘で完全に埋まり、それでも尚、手を休めることなく応援は続いている。
バックスクリーンの上に存在する旗は、いつものように、風で激しく揺れている。
しかし、この日は珍しく、微弱ながらも、3塁方向からライト方向に向かって風が吹いている。
だが、風があるとはいっても、この大槻の球をたった1打席だけで打てるのかどうか。不安と緊張の中、佐々木真奈が右打席に入った。
「(代打か。まだ佐々木妹は恐くない。恐いのは・・・)」
笹田がマスク越しに、ネクストバッターサークルを見る。片膝をつき、バットを肩に担いで、いつもと変わぬ冷たい目で、尚史が真奈を見つめている。
見ているのは佐々木妹のはずなのに、何故かこちらがプレッシャーを感じてしまう。
笹田は首を大槻のいるマウンド方向に戻し、何を投げさすか考える。
「(目の慣れていない代打なら、変化球で翻弄するべきだ)」
大槻の変化球は、スライダー、シュート、チェンジアップ。いきなり遅い球を投げさせて、翻弄するのも良い手かもしれない。
何よりこの試合では、チェンジアップを2、3球程度しか投げさせてない。
まさか、いきなりチェンジアップが来るとは、思わないだろう。笹田は、チェンジアップのサインを出し、内角に寄った。
「(この試合もあと少しだ。気を抜くなよ、大槻)」
大槻が堂々と振りかぶる。足を大きく上げ、腕を鉞のごとく振り下ろした。
投じた球は、緩やかな放物線を描き、笹田のミットに納まる。タイミングを狂わされた真奈は、バットを引き、見送った。判定はストライク。
「(ちゃう。私の待っとう球は、こんな球やあらへん)」
第2球目。やや真ん中寄りのアウトハイの球。真奈が外側に大きく踏込み、これを打ちに行く。
だが、この球はスライダーであった。真奈のバットは掠りもせず、空振った。
「(シュートを狙ってたか。スライダーを投げさせてよかった)」
投手有利のカウント2-0。1球外して、またそこから配球をを考えることもできる。
だが、流石に大槻の球威も落ち始めている。あとこの回を抑えればいいが、やはり早く打ち取ってしまいたい。
「(佐々木妹は、何かイメージ的には、どこか頑固っぽい気がする)」
あくまで見た目で判断したものだが。だがもし本当に頑固なら、シュートを投げるのは危険である。
ピラニアの池に飛び込むようなものである。笹田はスライダーのサインを出し、内角に僅かに寄った。大槻が振りかぶる。
「(来い・・・)」
キレ味の鋭い球が、真奈の膝元へ。真奈がバットを引いて、大きく内側へと踏込む。
「(当たりや!)」
真奈のバットが大槻の外へ強く逃げるスライダーを巻き込む。打球は右中間のど真ん中へ。
「ライト!」
真奈がバットを放り投げ、全力疾走で走る。センターがボール取っている間に1塁を蹴り、2塁へ。右中間を真っ二つに破るツーベース。
「(あの空振りはスライダーを投げさすための伏線だったのか?)」
それとも、狙い球を変えたのかのどちらか。しかし、打たれたことを気にしていても仕方がない。笹田はマスクを被り、その場に腰を降ろした。
「9番 ファースト 結城君。背番号5」
肩にバットを乗せ、尚史が右打席に入る。この打席は先程とは違い、真剣な眼で大槻を睨んでいる。
流石の大槻も、この尚史の眼を見て、少し臆してしまった。
「(なんて眼をしてやがる。これが本当の結城尚史なのか)」
大槻は臆してしまった心を落ち着かせるために、ロージンを手に取った。
「(甘いと、一発でサヨナラだな。当然、監督からも敬遠のサインはない)」
打順的に言うと、今敬遠をするのはかなり厳しい。大槻からヒットを打っているのは、あおい、理奈、尚史、真奈の4人。
そのうちわけは、あおいは2安打、尚史が1安打、真奈が1安打、理奈が4安打。敬遠出来ない理由も、もうお分かりであろう。
当たりに当たっている理奈と勝負を選ぼうなら、まさに命知らずである。
逆に言えば、ここで尚史を打ち取れば、敬遠して、当たっていない高橋と勝負が出来る。
高橋をダブルプレーで仕留めれない場合は、2安打のあおいに回るが、足を怪我しているため、まず打つことは出来ない。
「(2度目のターニングポイントか。ここで打ち取らないと、流れは神城に行くかもな)」
大槻がロージンを放り投げ、笹田のサインを見る。笹田が出したのは1球低めに外すとのこと。
「(やっぱ、慎重に入るべきだよな)」
2塁ランナーの真奈をちらっと見つつ、クイックモーションから投じられる。
「(走ってきた?)」
真奈は、大槻が投じた瞬間にスタートを切った。だが、スタートを切るにしては遅すぎる。笹田なら、低めに外したストレートでも刺せるだろう。
(コン)
「!?」
笹田は一瞬、何が起きたか理解できなかった。しかし、打球音と打球の位置を見れば、尚史が何をしたかはすぐに分かる。
「(完全に意表を突かれた!バントエンドランだったのか!)」
大槻が転がった打球を捕球し、サードに送球しようとした。だが、タイミング的に真奈は完全にセーフである。
3塁を諦め、1塁へ送球しようとした。足を怪我している尚史は、あまり進んでいない。刺せる。大槻はそう思った。
「投げるな大槻!ランナーを忘れるな!」
大槻はボールを投げるふりだけし、そして笹田に投げた。本塁へ突っ込もうとしていた真奈だったが、3塁に慌てて戻った。
「(惜しい。ファーストに投げれば、佐々木妹がノンストップでいくはずだったのに)」
尚史は短く舌打ちをし、ベンチへと帰って行った。足を痛めている尚史が一振りとはいえ、ホームランを打ち、ましてやセーフティーバントの内野安打狙い。
誰が監督をしようとも、ここは代走を出す。尚史の代わりには、盗塁、走塁センスのまったくない、川相二郎が入った。
「(なんにせよ、約束通り最高の場面で理奈に繋いだ。あとはあいつ次第だ)」
「1番 センター 川上さん。背番号8」
灰色に染まった上空からは相変わらず、雨が降り続いている。その強さは僅かに強まっており、これより強くなるのであれば、中断は免れない。
だが、この試合を止めることを誰が出来よう。ノーアウトランナー1、3塁。川上理奈がヘルメットを深く被り、左バッターボックスに入る。
「(嫌なバッターを迎えちまったな)」
ここまで理奈は、大槻に対して4安打。過去に、大槻が1人の打者にここまで打ち込まれたことは、もちろんない。
それも大槻は腹を立てているが、もう1つのことで腹を立てているのだ。
「(内野安打、ライト前、左中間への2塁打、右中間への3塁打。この俺が順番に打たれている)」
もしこれでホームランが出れば、サイクルヒット+サヨナラ優勝という凄い記録が生まれるのだ。
だが、まず理奈にホームランは無いと見ていい。何故なら理奈は、ホームランを狙えるほどパワーが無い。
失投があれば、ホームランを打てるかもしれないが、疲れてきた大槻とはいえ、それはまずない。尚史も理奈もそれは充分分かっていた。
「(でも、尚史がベンチに引っ込んで、あおいちゃんもあんな状態じゃ、サヨナラにしないと勝ち目は無い。それに・・・)」
それに。今日はあの人の誕生日だから。理奈はユニフォームの右袖を引き、バットの先を空へ向ける。
甲子園のスタンドが異常なまでに沸き上がっている。大槻が笹田のサインに頷き、セットポジションを取る。
「(私があの家を逃げ出したあの日)」
大槻が足を上げ、笹田の構えたミットに渾身のストレートを投げ込む。
雨の音にも負けないぐらいのミットの渇いた音が、甲子園に響き渡る。
審判の腕が上がり、ストライクをコールする。理奈はもう1度右袖を引き、バットを空へ向けた。
「(ちょうど、あの日も雨だった)」
バットを1回転させ、足を開いて、バットを軽く揺らしながら、肩に担ぐようにして構える。
大槻は川相の足を気にしつつ、笹田のミット目掛けて、全身全霊を込めたストレートを投げ込む。
「(私はあの日、宛もなくさ迷い、雨に打たれていた)」
足を大きく振り、大槻のストレートを打ちに行く。打球が真後ろに飛び、ファールとなった。
「(自殺しようかさえも考えてた)」
大槻が額から流れてくる雫をユニフォームの袖で拭い、笹田の出すサインを見る。大槻がそれに頷く。
「(そんな絶望の中で、私は確かに見た)」
大槻が足を上げる。笹田が内角に寄り、ミットを構える。
「(私に希望の光を与えてくれた、雨に揺れるあの桜)」
時計の振り子がゆっくり振れる。今、理奈の足が静かに時を刻む。
「(私は一生忘れない)」
時計の振り子に、鋭い切れ味を持つ球が切れ込んでくる。端まで振り切った振り子は、今度は前へと振れる。
(キィン!)
理奈のバットが大槻のスライダーを捉らえた。打球は高々と上がり、ライトへ。理奈はバットを持ったまま、打球の行方を目で追っていた。
「(上がり過ぎだな。スライダーを僅かに打ち損じた)」
真がライトフェンス際で、グローブを構えた。真奈がタッチアップの体勢にを取り、打球の様子を見ていた。
「な、なんや・・・」
真奈はこの打球に思わず見とれてしまった。真奈だけではない。この球場にいる多くの人間が、この打球に見とれてしまっている。
「(どうやったら、こんな綺麗な打球になるんや)」
だが、真奈はすぐに正気を取り戻した。打球はライト最奥。いくら綺麗な放物線を描いても、入らなければ、絵に書いた餅である。
まだ、犠牲フライには充分なりそうなので、意味がないことはないが。
「(桜の花びらは風に運ばれ、そして地面にゆっくり着地する)」
フェンスを背にグローブを構えていた真が、いきなりフェンスに上り始めた。
「(高く上がった分、風に吹かれてる。まずい!)」
打球が緩やかに落下し始める。球場が静寂に包まれ、観客が固唾を飲んで見守る。
神城高校の選手は、ほぼ全員がベンチを出て来て、全員がそれぞれ叫んでいた。
「(あの日見た桜・・・あなたに捧げます)」
お父さん
あなたは桜をこよなく愛し、いつも桜を見に、あの公園へ連れて行ってくれましたね
そして、いつかあなたに言いましたね
大きくなったら、今度は私が綺麗な桜を見せるんだって
でも、あなたはもうこの世にはいません
それでも、天国からあなたが、今の私を見ていると信じています
桜は終わりを象徴するものでもあり
桜は始まりを象徴するものでもある
桜が散っても、緑の葉が生い茂り、新たな生命が生まれる
だから、あなたのために頑張って来た私の人生も終わりを告げる
そして
また新たな私の人生が始まります
自分の未来に桜を咲かすために
見てて下さい
そして
見守っていてください
終わりと始まりを司る花
雨桜
灰色の空の切れ目に、光が差し込んでくる。雨は止み、穏やかな風が吹く。
1枚の桜の花びらが、甲子園のスタンドに舞い降りた。熱い熱い想いの篭った桜が・・・。
少女は笑う。怒りも、悲しみも、憎しみもそこにはない。ただ透き通るような笑顔。ただそれだけが、そこにあった。
少女の心にも、やっと春が来たのだ
寒い寒い冬を抜け
穏やかな春がやっと・・・