青く澄み渡る7月下旬の空。太陽が嫌味なぐらい、地上にいるものを照り付ける。
人は皆、帽子や手に持っている何かで頭を隠し、日蔭を求めている。公園の木々には、地中から出てきた蝉達の合唱が朝早くから始まっていた。
蝉はこの季節のために、地上に出て来て、仲間と共に悔いの残らぬよう、精一杯歌う。自分の命がこの夏の間だけと知りながら。
そしてそれは、高校球児も同じこと。高校3年生は、負ければその時点で終わりを意味する。
今までやって来たことを無駄にせぬよう全力を尽くし、蝉達と同じく、悔いの残らぬよう、精一杯戦い抜くのだ。
「(困ったときはど真ん中よね)」
「(間違っても、置きにいかんようにな)」
「(分かってますって)」
ここは、徳島県鳴門市。鳴門といえば、鳴門金時が有名である。
その鳴門市にある、徳島営鳴門総合運動公園野球場では、夏の太陽に照り付けられながら、熱戦を繰り広げている。
スコアは2回の1という数字以降、0の文字しか刻まれていない。
「(満塁だしね。ふりかぶっちゃえ)」
ダイヤモンドの形に土で汚れたをした四角いベース。そのベースに3人の打者が埋まっている。
マウンド上には、後ろ髪を束ね、背番号1をつけた少女が立っていた。
17歳という年齢を考えると、少しあどけない雰囲気の漂う顔付きである。ついで言うと、胸も無い。俗にいう、幼児体型である。
「(投げる球はもちろん……)」
身長160cmに満たない小さな体。ピッチャー、いや野球選手としては、かなり小さな部類に入る。
それでも少女は、全身を余すことなく使い、速球をポンポン投げ込んでいる。
そのフォームは、怪我や衰えと戦いながら、現在もメジャーで投げ続けている、トルネード投法の野茂英雄であった。
「(いけ!僕のストレート!)」
あおい投じた白球が、スパイラル回転で空気を引き裂きながら、相手バッターの胸元にえぐりこむ。
白零大付属の5番、在原が、大きく踏込み、これを打ちに行く。バットと白球の軌道は一直線上。
「(しまっ……)」
白球は僅かにバットの上を通過し、キャッチャーミットに突き刺さった。審判の腕が上がり、高らかな声で三振を宣告する。
在原はバットをホームベースに叩きつけ、ボール球を振らされたことを非常に悔しがった。
「この回でサヨナラにするよ、皆!」
「おう!」
「早いもんだな」
「そうですね」
「やはり、投手戦では試合展開がなあ……。って、慎ちゃん?」
慎ちゃんと呼ばれた男は、盛大にずっこけて、座席から落下していた。慎ちゃんと呼ぶこの男は、何故こけているのか分からない目で、慎ちゃんを見ていた。
「早いって……年月じゃないんですか。普通、パターン的に『ああ、あいつらも高校3年生になったんじゃのう』とか言うでしょ」
「ああ……それもあるな。流石、慎ちゃん。良いこと言うね」
慎ちゃんと呼ばれる男は、床に落ちたサングラスを拾い、傷がついていないか確認し、それを身につけた。
夏に浮かれた太陽の光を黒く遮断する。男はふう、と息を軽く吐いて、ゆっくりと腰掛けた。
「しかしまあ……本当に凄いバッターになりましたね、結城は」
サングラスの男は、鞄から冷たそうな雫を垂らしているお茶を取り出した。
話し掛けられた髪の男は、先程とは打って変わって、真剣な顔付きをして、返事を返す。たが、サングラスの男の話とはまったく関係の無い答えをだが。
「そろそろローカルズに帰らんか、慎ちゃん」
「え……?」
あまりにも唐突過ぎる話に、やや困惑気味のサングラスの男。髪の長い男は、構わず話を続ける。
「ワシ達は、色々な所で野球を見てき、色々な選手を見てきた。守備の上手い奴。凄い飛距離を飛ばす奴。足の速い奴。じゃが、全員何かが欠けていた」
「……」
サングラスの男は黙って、髪の長い男の話を聞いている。グラウンドから金属音が響いてくる。
「その何かっていうのは、ワシにもよく分からん。じゃが、結城と一……条はその何かを持っておる」
マウンド上のピッチャーが足を上げる。髪の長い男が流れ出てくる汗を、肩にかけてあったタオルで拭い、さらに話を続ける。
「願わくば2人を育てたい。あの2人なら、ローカルズを優勝へ導いてくれるだろうに」
優勝。その言葉が深く胸の奥に突き刺さる。
16球団〔+4球団はローカルズ(徳島・セ)・グローリーズ(大阪・セ)・シャークズ(長野・パ)・レグルス(東京・パ)〕の中で
唯一、リーグ優勝すら成し得ていない。いや、実際は成し得ていたはずだった。そのときに起こってしまったのだ。
一条つかさ。交通事故に巻き込まれ、死亡。事故を起こした車は現在も逃亡中。
その瞬間、ローカルズのリーグ優勝は泡となって消えた。それ以来、5位がやっとという弱小チームになってしまった。
打線が、いくらベーブルースの記録を越えた結城武久がいるといっても、所詮は40歳を越えている。衰えも見え始めている。
「今のローカルズの監督は誰だったっけ?慎ちゃん」
髪の長い男が、サングラスの男に尋ねる。サングラスの男は、自然と額から流れてくる汗を拭いつつ、質問に答える。
「確か……正田さんじゃなかったかな」
髪の長い男が手の甲に顎を乗せ、何やら正田という男について考えていた。
「正田か……。あいつなら、ワシが言わんでも取るじゃろう」
サングラスの男は一言、そうですね、と言って、燃えたぎるグラウンドに目を戻した。
「4番 サード 結城君。背番号5」
9回裏、ツーアウトランナー1塁。粘りに粘ってファアボールで出塁したあおいが、暑そうにしながら1塁ベースに立っている。
ヘルメットを深く被り、2回ほど素振りをして、右打席に尚史が立つ。マウンド上には、鈴江・南山バッテリーが作戦を練っていた。
「ランナーをあまり出したくないが、幸いツーアウト。カウント次第では歩かせて、5番と勝負もありだ。だから絶対、甘い球は投げるなよ」
南山は額から流れ出てくる汗をユニフォームの袖で拭い、マスクを被る。鈴江は鍔の先を持って、帽子を軽く弄り、南山にはっきりと言い返した。
「馬鹿。俺が逃げるかよ。ここを抑えて、絶対甲子園に行こうぜ」
「OK。じゃあ、しまっていくぞ!」
南山がマスク越しに、得意の笑顔で鈴江に元気良く言葉を返し、キャッチャーポジションへと帰っていった。
「敬遠の相談か?」
尚史が尋ねる。
「さあ、それはどうでしょう〜♪」
南山が笑顔でさらりと返す。
「そうか」
尚史は特に残念がる様子を見せず、いつものように構える。その視線の先は、ピッチャーの鈴江のみ。その差1点。鈴江が振りかぶる。
「(とにかく追い込む。ランナーは無視だ)」
あおいは当然スタートを切り、2塁へ。尚史はど真ん中の球を見送った。判定は当然ストライク。
「(あんの馬鹿。俺のサインを無視しやがったな)」
どうせ、次も振りかぶるに決まっている。南山はど真ん中ストレートのサインを出し、ミットを構える。第2球目。
「(やっぱりな……)」
南山の予想通り、鈴江は振りかぶった。そして投げた球はもちろん、ど真ん中のストレート。
尚史はまたもや見逃し、あおいは3塁へ。これでカウント2-0。あと1球で決まる。鈴江、そして南山の中で何を投げるかは決まっていた。
「(フォークだ)」
「(当然だな)」
首を縦に振り、鈴江が大きく振りかぶる。尚史が左足をゆっくりと引き上げる。
「(甲子園へ行くのは、俺達だ!)」
南山が内角一杯に寄り、ミットを構える。鈴江の腕が振られ、白球が投じられる。コースは丁寧についた内角高め。
「(勝ち進め、結城、あおい。栄光を掴め)」
髪の長い男が立ち上がる。隣のサングラスの男も立ち上がる。ライトスタンドの観客全員も立ち上がる。
美しい金属音を残し、白球が空高く舞い上がる。レフトが追い掛ける。
「(そしてワシは待っている。お前達が、ローカルズへ来ることを……)」
白球は美しい孤を描く。塁上にいる少女と打席にいる少年が、打球の行方を見守っている。
レフトがフェンスによじ登る。打球が落ちてくる。観客が固唾を飲んで見守る。そして打球は……。