第2章
少年と少女





カーテンの隙間から、朝日が差し込んでくる。夏の太陽は出てくるのが、早すぎる。

もう少し遅れてもいいんじゃないのか、そんなことを思いつつ、タオルケットで頭を隠し、目覚まし時計を手探りで探す。

何か硬いものに触れたような気がする。それを手に取り、タオルケットの中へ運び、寝ぼけた意識で、今何時かを確認する。

時間は、ちょうど7時を指していた。

「……まだ寝たい」

時計を元の位置へ戻し、頭を隠していたタオルケットを勢い良く、放り投げる。空中でそれが大きく広がり、バサッと音を立てて床に落ちた。

「暑い……」

Tシャツがうっすらと汗で濡れ、額からも汗が流れ出している。外の気温は現在26℃。暑いのも無理はない。

「スボンいらない……」

目をつぶったまま、片手でズボンを脱ぎ始めた。だが、汗でベトついているのか、片手ではずり下ろすことが出来ない。

仕方なく、両手を使ってずり降ろし、さっきのタオルケットと同じように投げ捨てた。小さく覆う白い布地が、あらわになる。

「さっきよりはまだマシかも……」

寝苦しそうな表情が、少しずつ和らいでいき、やがて静かな眠りについた。穏やかな風が吹き、カーテンが静かに揺れる。

真っ白なシーツの上で、少女の寝息だけが、部屋に響いていった。









太陽が頂点に達した昼間の時刻。静かに流れる川のせせらぎ。ときに、夏にしては珍しく涼しい風が吹き、周囲の木々を揺らす。

それらのうち、1本の木の下で少年が、木を背にして空に流れ行く雲を眺めている。隣には、小さく丸まった黒い生き物が1匹。

時折、毛に纏われた尻尾が動いている。首には、赤い首輪がつけられており、小さな鈴もついていた。

少年が、頭の後ろに回していた手を口に持って行き、そして大きな欠伸をした。

「嵐の前の静けさだねえ」

少年が丸まっている生き物の背中をそっと撫でてやる。生き物は、ビクッと体を反応させたが、その体制を解くことはなかった。

「明日から甲子園だからな。激しい試合が待ってんだろうな……」

少年が首を僅かに後ろへ向ける。

「なあ、あおいちゃん」

そして、少女に声をかけた。少女は、やや不機嫌そうな表情を浮かべ、少年の隣に腰を降ろした。緑葉が散り、目の前の川に流れていく。

「気付いてたんなら、もっと早く声をかけなさいよ。変態狼」

「変態狼……」

確かにそう言われても仕方がない。少年は、少女にあだ名の通りのことを今までやって来たのだから。少年は頭を掻き、少女に言い返す。

「……男は皆、エロい狼よ。仕方がないさ」

「さあどうだか」

少女は、ちょうど少年と背中合わせになるように、木に腰掛ける。綺麗に束ねられた髪が、僅かに揺れる。

少年は、無理矢理手を延ばして、その揺れる髪を優しく撫でた。少女が驚いたように、その手を払いのける。

「何、勝手に触ってんのよ!」

少女は顔を真っ赤にし、少年を怒鳴り付けた。少年は、少し笑いながら少女に返答する。

「いや、なんか触りたかったから。しかし、綺麗な髪だよな。羨ましい」

「ほ、褒めたって何にも出ないわよ……」

頬をほんのり赤く染め、少女はプイッと首を横に向けた。恥ずかしがる少女に、少年がさらに追い撃ちをかける。

「ほどいたときなんか、凄い可愛いんだろうな。ああ、見てみたいな」

もちろん、少年は冗談で言っている。少女の結われた髪の話題を出すと、少女がキレて叩かれることぐらい承知である。

だが、少年はそれでも、怒らせて少女をからかうのが、楽しいのだ。少年は、次に来る少女の行動を想像し、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

「う〜……」

「?」

だが、少年の予想とは裏腹に、少女は恥ずかしそうに唸り声を上げた。少年は、これに少しばかり焦る。

「も、もしもーし……」

だが、少女は膝に顔を埋めて、顔を上げようとしない。よく見れば、耳まで真っ赤である。

「(やり過ぎたか……)」

少年は、さっき言ったことを非常に後悔した。分かっていた。実は人一倍恥ずかしがり屋で怖がり、泣き虫というぐらい。

他人には、決して見せない弱み。少女にとってそれを見せることは、翼をもがれた天使みたいなものである。

確かに、少年は少女をからかうのを趣味みたいにしている。だが、絶対に傷つけることだけはしてはいけない。

少年は、少し頭の中で言葉を整理し、そしてそれらを紡いだ。

「そういや……新しい変化球の名前決まってんの?」

新しい変化球。その言葉に、少女は埋めていた顔を上げて、口を開いた。

「まだだけど。全然決まんないのよ」

少年は、空に向かって軽く腕を伸ばした。指の間から、今にも吸い込まれそうな青い空が広がっている。雲はない。

向日葵達は、さぞ喜んでいるだろう。人間達はそうではないが。小難しいことを考えつつ、少年がゆっくりと口を開く。

「暇だから、俺も考えてたんだけどさ……」

「……」

少女がまた赤くなる。何故、赤くなるのかわからない。また少女自身もそれがよくわからなかった。

「……ってどう?一応、君の名前から取ったんだけど」

少年の言葉を聞いて、また心臓の鼓動が速くなる。少女は胸を抑え、空を見上げた。そして僅かな間を空けて、言葉をなんとか紡ぐ。

「ま、まあ君が考えたにしてはいい名前じゃないの。候補に上げとくわ」

動揺をなんとか隠そうと、いつものような話し方で返事を返す。……たぶん、バレバレであろうが。

「そう……それじゃあ、俺は寝る。お休み」

少年が目をつぶり、伸ばしていた手を静かに降ろした。黒い生き物が小さな欠伸をし、また眠りについた。









「(寝たのかな……)」

寝息らしき音は一応聞こえてくる。だが、本当に寝たのかは分からない。少女は、それを確認するために、静かにゆっくりと立ち上がる。

スカートについた土や芝を払い、少年のいる方へ回り込む。ほんの僅かな間だけ木陰を出ただけというのに、肌が焼けそうになった。

「(寝てる……)」

やはり、彼は寝るのが早い。少女はそう思った。少年が寝るのに、カップラーメンが出来るまで待つ必要はない。

どうすれば、ここまで早く寝ることが出来るのだろうか。少女は膝を曲げて、腰を僅かに浮かせてその場に座った。

「(よく見てみると、初めて出会ったときそんなに変わらないね)」

彼は、中学2年生の練習試合のときに、初めて出会ったと思っている。でも、それは半分間違い。

実はそれより前に出会っている。でも、覚えていないのは仕方がないかもしれない。だって、幼稚園のときのことだから。

「(高校に入って、君と再会したときはビックリしたけどね)」

今でも、昔の彼の印象はよく覚えている。目付きは悪いし、ほとんど喋らない、なんとも近づき難い雰囲気だった。

でも、僕はそんな彼に助けてもらったのだ。男の子4人を相手に勇敢にも一人で。殴られても、蹴られても怯まない。そのときから、彼は凄かった。

「(で、結局勝っちゃったのよね)」

でも、僕は逃げてしまった。助けてもらった御礼も言わずに。理由はよくわからない。後で、そのことをずっと悔やんだ。

「(今も悔やんでるけどね)」

少女は音を立てないように、ゆっくりと少年の髪に手を伸ばした。柔らかな感触が指を包み、シャンプーの香りがほのかに漂う。

さらに手を回し、少年の額に自分の額を当てた。少年の寝顔が目の前にあり、少女の顔が一気に紅潮する。少女はそれでも我慢し、目をつぶった。

「(ありがとうね。変化球の名前、凄く気に入ったよ)」

穏やかな風が吹き、木々が優しく揺れる。太陽の光が、星のように水面に輝いていた。









8月。いよいよ、最後の戦いが始まる。




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