夏。ある人は西瓜と答え、またある人は海と答える。その言葉を聞いて思い浮かべるものは、色々あると思う。
では、高校球児はなんと答えるだろうか。当然、球児の聖地となる、甲子園を思い浮かべるはずである。
激闘の地区予選を戦い抜き、見事勝ち残ったチームだけに与えられる切符。その切符も何千校とある高校に、僅か49校にしか与えられないのだ。
3年間必死に頑張って来ても、その努力が報われなかったチームの方が遥かに多い。
また、この聖地で力を発揮できず、涙を飲んだ者も少なくはない。そして今日。また一つのチームの涙が甲子園の土に染み込んでいった。
「ありがとうございました!!」
縦縞のユニフォームに、黒い帽子。そして極めつけは、学校の頭文字のTというアルファベット。
まるで阪神タイガースを連想させるようなチームの選手達が泣きながら、スタンドに向かって深々と頭を下げた。
そしてゆっくりと移動し、甲子園の土を集めに行った。
「次も頑張れよー!」
「夏も優勝だー!」
「暑い中、ご苦労さん!」
そんな色々な言葉が、勝利したチームの選手の耳に届いてくる。選手達は綺麗に整列をし、ワンテンポ間を空けてから、笑顔で頭を下げた。
喜びに満ちた声が甲子園に響く。選手達は、ゆっくりとベンチに移動し、自分達の荷物を取りに行った。
「珍しいわね。君がノーヒットだなんて」
長い髪を一つに束ねた少女が、バットをケースに入れている少年に話し掛けた。少年はそのケースを肩にかけながら、少女に返事を短く返す。
「まあね」
凄くあっさりした返事だが、その少年の気持ちは、まさにその通りであった。
「君を除いた全員がヒットを打って、12安打8得点してるのに、えらく余裕ね」
少年が、のんびりとした口調で答える。
「たまにはあるさ。次打てばいいんだし」
「それもそうね」
グローブや替えのシャツなどが入った鞄を左肩にかけ、少年はベンチ奥の通路に向かっていった。
少女も右肩に鞄をかけて、少年の後ろに付いていくようにして、通路に入っていった。
太陽が皮膚をこがしているような錯覚が稀に起こっている。いくらなんでもそれはないだろうが、やはり今年の夏も暑い。
こういうときは、冷房のかかった部屋で寝るのが1番である。だが、それはしたくない。
理由は簡単だ。わざわざ甲子園に来てまで、ぐうたらに過ごしたくない。だからといって、動きたくはない。
ではどうするか。猫を抱き上げ、少年は普段あまり使っていない頭を稼働させ、どうするか考えた。そして良い考えが思い浮かんだ。
「縁側でのんびりいるのもいいかもしれない」
だが、その考えには欠点があった。縁側では、あの暑い太陽の光を浴びるということになる。まさに、自然日焼けサロンだ。
「まあ、縁側じゃなくても、部屋の障子開けてりゃいいか。風も入るし、風鈴も見えるし」
少年は、抱き上げていた猫を静かに降ろし、障子を左右に開けた。
少年の予想通り、熱くなった肌を冷やすような風が吹き込み、静寂の中から、心を落ち着かす風鈴の音が聞こえてくる。
さらに今日は、雲がなく、空に青い海が広がっていた。少年は元いた位置に座り、そしてしばらくしてから、丸まった猫の隣に寝転んだ。
「平和だねぇ。なあ尊」
尊と呼ばれた猫は、返事代わりに尻尾を軽く動かした。少年は軽く欠伸をした後、近くにあった座布団を半分に折り、それを胸の下に敷いた。
「風鈴の音……」
穏やかな風が部屋に吹き込み、風鈴が切ない音を立てる。少年は目をつぶり、小さく息を吸い込んだ。そして、歌い始めた。
泥だらけの服の下
また今日も一つ
増えた傷
パパにだけ
見せて笑ってた
夢見たもの
一つずつ
箱にしまって
いつか僕も
大人という
抜け殻になる
夏の終わりに
俯く向日葵
太陽昇れと
また咲くときを待ってる
やっと気付いた
心の傷跡
そっと隠しながら
この詩に込められた少年の願い。それは、穏やかな風に乗って、どこかへと運ばれていく。空は果てしなく青く続いていた。
少年のチームが泊まっている旅館から少し離れたところにある甲子園球場。時計の針は午後2時を指している。
太陽が最も高く位置し、これからどんどん高度を下がり、気温も下がっていく。しかし、涼しくなる頃には、月が出ているだろうが。
「メチャクチャ暑いな、春日。27球で完投して、さっさと冷えたジュースでも飲もうな。いいな」
キャッチャーのプロテクターやレガースを身につけた少年が、軽く準備運動をしている春日という少女に話し掛けた。
春日は、最後に軽く背伸びをし、そしてやっと春日は返事を返した。
「河崎先輩。27球は無理です。でも、54球ならいけると思いますよ」
「おいおい、お前な……」
その答えに河崎と呼ばれる少年は苦笑し、春日の頭に手を置いた。帽子からはみ出たツインテールが、僅かに揺れる。
河崎に釣られるかのように、春日も楽しそうに微笑んだ。
「じゃあ行くか。結城に会うためにも勝たないとな」
春日はほがらかな笑顔で、軽く縦に頷いた。河崎は、笑顔で元気よくベンチから飛び出した。
「今日は僕たちのデビュー戦だね、光生」
「ぶふ〜。そうだね〜」
「まずはあの娘を徹底的に打ち込んでいこうか」
「ぶふ〜。おーけー」
鼻息が荒く、まだ動いてすらいないというのに、滝のように流れてくる汗。
鞄を背負い、何かの絵がついた袋を持てば、完全に秋葉系になれるだろうと思われる男、伊集院光生は、バットを持って、ネクストバッターサークルに入った。
「ん……」
リーン。リーン。穏やかな風に揺れる鈴が、心地よい音を奏でる。
太陽は、先ほどより20度ほど下がっており、気温も僅かに低くなっていた。それでも暑いことに変わりは無いが。
「ん……」
枕に横顔を埋めて眠っていた少年の目がゆっくりと開かれる。それと同時に体を丸めて眠っていた尊も目覚めた。
「いつの間にか寝てたみたいだな……」
俯けになっている体をゴロリと半回転して、天井が見えるように仰向けになった。年代を感じさせる木製の天井が、自分の視界に入ってくる。
尊が自分の体を舐めて毛繕いし、のそのそと歩き、少年の頭元にそのまま座り込んだ。少年は頭だけを尊の方へ向け、喉へ手を軽く伸ばした。
伸びてくる手に特に警戒せず、尊はそのままの状態でいる。少年は、指先で尊の喉を軽く撫でた。尊は、人の笑顔みたいに微笑んでいる。
偽りも汚れもない。ただ幸せそうに微笑んでいる。それに釣られて、少年も優しそうな笑顔で微笑んだ。
「さてと……どっか行くか」
少年はゆっくりと立ち上がり、開けていた障子を閉めた。そして尊を抱き上げ、部屋を後にした。
「ぶひょひょ〜。あと1球で終わるぶふー」
マウンド上で、ロージンを手のひらで上下にトスする伊集院。大量に吹き出た汗が垂れ落ち、マウンドの土に吸われていく。
本人も拭いても無駄ということを分かっているのか、ユニフォームで拭おうともしなかった。
「(さていくか、光生)」
キャッチャーの少年が股の下でサインを出す。光生が頷き、大きく豪快に振りかぶった。打席に立つ、主砲でありキャプテンの河崎の腕に力が入る。
「終わらない。終われないんだ!春日のためにも!」
前足を大きく踏みだし、内角低めに白球を投じる。河崎が小さく踏み込み、これを迎え撃つ。
「終われないんだ!」
河崎のバットが、内角低めにえぐり込んでくるストレートを捉らえる。鈍い音が響き、フラフラとキャッチャー真上に上がった。
キャッチャーはマスクを捨て、落下点に入る。審判の腕が上がり、試合が終わった。
聖鈴高校。6-2で敗れる。
少年がそれを知ったのは、翌日のことだった。
「まさか春日がなぁ……」
ベンチで新聞を読む少年。何の内容を読んでいるかは、もちろん昨日の甲子園の結果だった。
「しかも相手の高校の名前……ある意味凄いな。何て読むんだ?」
新聞の他の小さな文字と比べ、チーム名は大きく書かれている。しかし、いくら覗き込んでも分からないものは、分からないものだった。
「まあ……その次の相手が、これだしな」
新聞を綺麗に半分に閉じ、バットを持って立ち上がった。軽く膝を曲げて屈伸運動をし、フリーバッティング用のゲージに向かった。まさにその時だった。
「おいらはこのおとなしそうな娘がいいぶふー」
「光生は女好きだねって、俺もか」
何やらブルペン辺りが騒がしい。二人が問題を起こすことはまずないので、恐らく外部の人間が原因しているのだろう。
ゲージに向かいかけた足を止め、少年はそのままグラウンドの出入口に方向を変えた。
「見学者なら、黙って見学してなさいよ!」
顔を真っ赤にし、フェンスから声をしきりにかけてくる男達に怒鳴る少女。だが、男達はまったくといっていいほど怯んでいない。
「強気な娘もいいかもしれないな。俺はこの娘がいいかも」
さらりとした長い黒髪を持つ男が、腕を組んで、何かに軽く数回頷いた。隣の男は、無限に流れてくる汗を、肩にかけたタオルでしきりに拭き取っていた。
「もっと君達のこ」
その先の言葉を言い切ることはできなかった。何故なら、背中に強い衝撃が襲い、自分の顔面がフェンスにぶつかったからである。
「うちのアイドル2人に何しやがる。このホンジャマカが」
黒髪の少年は、顔面を必死に押さえ、痛みを堪えていた。汗だくの少年は、多少驚きの表情を見せつつ、蹴り飛ばした少年に話し掛けた。
「結城先輩ぶふー。久しぶりだぶふー」
結城先輩と呼ばれた少年は、頭を軽く掻き、返事代わりに小さなため息をついた。
顔面を押さえていた少年も痛みがひいたのか、呼吸を整えてゆっくりと立ち上がった。
「相変わらず、容赦ない人だ。だから、人から怖がられるんだ」
「煩い、ホンジャマカ。さっさと帰りやがれ」
少年の皮肉に、尚史が冷たく言い放った。二人はそれでも怯まない。
「そういやあの春日って娘、先輩の後輩でしたよね」
「ああ、春日のことか」
二人は顔を見合わせ、不適な笑みを浮かべた。そして汗を拭いながら、光生が言ってはならない言葉を紡ぐ。
「弱すぎるぶふー。余裕だったぶふー。ねぇ、宮ちゃん」
尚史の手に力が自然と入る。しかし、表情に出ていないせいか、二人はまったく気がついていない。
さらに宮ちゃんこと、山田宮一郎がニヤつきながら、さらに尚史に油を注ぐ。
「あんなのが先輩の後輩だなんて信じられませんよ。あ、でも選抜で先輩、抑えられてましたね。こりゃ失言」
宮一郎がチラリと尚史の方を見る。尚史は顔を俯けたまま、黙っている。奇妙に思った二人は、さらに尚史の顔を覗き込んだ。
「……す」
「え?」
二人はよく聞き取れなかった。もう一度聞こうと耳を傾けようとするが、その必要はなかった。
「潰す!!」
尚史には珍しく、怒りのあまりに我を失っていた。流石にこれには、二人の表情に焦りを隠せない。
「逃げるぞ光生!」
「ぶひょー!」
体格の正反対な二人が慌ただしく、道を駆け抜けて行く。途中転んだり、人にぶつかったりもしたが、とにかく駆け抜けて行った。
「春日……。お前をコケにする奴は、例えお前が許しても俺が許さない」
尚史は握りしめた拳を自分の頬に向けて、勢い良く殴り飛ばした。頬に真っ赤に腫れ上がり、口の中から血が流れ出した。
その血を拭い、空を見上げる。広大に広がる青い空の中に、夏の太陽が光輝いていた。