第5章
犠牲の理由





(カキィ!)




湖可甲良が捉らえた打球は、またもレフトへ上がった。高さは充分。

湖可甲良は、中村紀洋ばりにバットを放り投げ、ゆっくりと一塁へ歩き出した。だが、高く上がり過ぎたせいか、フェンス手前で失速し始めている。

レフトの黒崎はフェンスを背に、緩やかに落下してくる打球をグローブに納め、審判がアウトを宣告した。

「はぁ……はぁ……」

荒々しい呼吸でマウンドを降りていく西条。マスクを片手に、呆然とした表情でベンチへ帰り行く佐々木真奈。

他のナインも、明らかに面を食らっている。結局、この回西条は、名備素粉と伊集院の2本のホームランと山田の2点タイムリーで4点を失った。

最後に打ち取った湖可甲良も、僅かに打ち損じてくれただけで、実質5失点に近い。真奈はレガースを外しながら、さっきのことを思い返していた。

「(選抜の西条先輩は、ふざけていた。キレもノビもなかった。でも今回はちゃう。キレもノビも絶好調や!)」

西条の絶好調時は、球離れが普段より遅くなる。真奈は、名備素粉、いや軽い投球練習のときに、西条の絶好調を悟っていた。

だから、どの球も打たれるはずがないのだ。何故なら、ホームランを打たれたのは、全てボール球なのだから。

「(確かに、パワーヒッターの多いチームとは知っていた。でも、ここまで馬鹿力とは思わんかった)」

しかし、打たれてしまったのはもう仕方がない。リードが狂っても、打つ方で取り返せばいい。

ヘルメットを被り、真奈はベンチから山田の投球に集中することにした。









「2回の表、神城高校の攻撃です。4番 サード 結城君。背番号5」

尚史の名前が読み上げられ、甲子園が沸き上がる。バットを片手に下げて、尚史はそのまま打席に入ろうとするが、その手前で足を止めた。

「凄い歓声……かなり期待されてんな」

この歓声に流石の尚史も参ったのか、打席の外で軽い素振りを行い始めた。

一旦気持ちを落ち着かせ、集中力を取り戻さないと、やはり尚史でも山田を打つのは厳しいのだ。

「さて……そろそろいいだろう」

バットを肩に担ぎ、大歓声の中、やっと右打席に尚史が入る。マウンドでは、山田が不敵な笑みを浮かべて、尚史の方を見ていた。

「この日を待ちわびてましたよ、先輩」

ロージンバックを片手に乗せ、山田が尚史に語りかける。当の尚史はそれを完全に無視し、ひたすら足場を固めていた。

今度は、汗だくの伊集院が語りかける。

「前の俺達とは違うのを思い知らせてやるぶふー」

尚史は「そうか」、と一言だけ言い、バットを軽く振って構えた。そのそっけない態度に、山田は不快感を覚える。

「(調子に乗るなよ。俺は昔のノーコンピッチャーじゃないんだぜ)」

山田がサインも出さずに、胸の前にグローブを持ってくる。足をゆっくりと上げ、体を縮こませる。

バネのように縮ませた体を一気に解放し、尚史に投じた。

「(ストレート……)」

長い腕で横から繰り出された白球は、急角度で尚史の足元をえぐり、ベースの上を通過する。

山田の投球モーション中に引き上げていた足を内側に降ろし、尚史はこれを強引に打ちに行った。

だが、白球はバットの上を通過し、伊集院のミットに納まった。判定はストライク。

「(タイミングが合っていない。次の球もストレートでまだ大丈夫だ)」

山田が伊集院にストレートのサインを出す。伊集院は静かに外側へ移動し、ミットを構える。

第2球目。先ほどの球とまったく同じコースの球。だが、尚史はまたも空振り。やはり完全な振り遅れであった。

「(理奈が三振したのも頷けるな。確かにタイミングが取りにくい)」

振り子と一本足は、タイミングの取り方は違えど、片足で間を空けて打つ打法である。山田みたいな変則的なフォームのような投手にはどうしても弱い。

かつて、一本足打法で前人未到の868本塁打を放ち、世界のホームランに輝いた王貞治(福岡ソフトバンクホークス監督)も、

小林繁(巨人→阪神)という変則フォームに対応できなかったそうだ。

「(だが、三振するわけにはいかない。春日を馬鹿にした、こいつらだけには)」

ヘルメットの鍔を持って軽く弄り、太陽の熱を帯びた金属バットでホームベースを軽く叩く。

マウンド上の山田は、しきりに体や帽子を触り、伊集院にサインを出していた。

「(タイミングが合っていない奴に、遊び球は不要だ。ここは変化球で決める)」

伊集院がバシバシとミットを叩き、ミットを突き出すように構える。山田がニヤッと笑い、胸の前にグローブを持ってくる。第3球目。

「(タイミングの合っていない奴に、この球が打てるわけがない。俺の勝ちだ)」

山田は通常より、やや早い腕の振りで、まったく同じコースを責めた。だが、投じた球はストレートではなく、大きな孤を描くカーブ。

それが、尚史の体を掠めるかのように変化し、内角低めに決まる。既に勝利を確信したか、山田はガッツポーズの体勢に入っていた。

「(こんなカーブ……)」

変化が大きく、ストレートより遅いカーブなら、タイミングを外され、サードゴロで終わり。

だが、尚史の軸である右足は、地面にしっかりと根を張った大樹かのように、ビクともしていない。

そうなると、話は別である。引き上げていた左足で、大きく外側に踏み込み、このカーブを迎え撃つ。

「(春日の足元にも及ばない!)」


(キィン!)


尚史が掬い上げた打球は、一直線にレフトの遥か頭上を越え、そのまま場外へ消えた。

やはり相撲取りみたいな体型の大塚は、一歩も動けず、ただボー然と見ていた。

場外へ消えたーー!!結城尚史、今大会の初ヒットは場外ホームラン!

果たして、これが高校生の打球なのかーー!?

場外ホームランで球場が賑わう中、それとは対照的に打った本人は、バットを置いて、静かにベースを回り始めた。

どんな大きなホームランでも、ソロホームランはソロホームラン。その差はまだ3点ある。

だが、尚史のホームランは、打球と同じくらいベンチに大きな勢いをつけていた。

よっしゃー!打てるぞ、あのピッチャー!

阿波の力を見せてやれ!

ベンチとレフトスタンドの大声援に気合が入ったか、5番の佐々木守、6番の佐々木真奈に連続してヒットが飛び出した。

だが、流石に激戦地を投げ抜いてきただけあって、後続が抑えられ、結局1点止まりであった。









2回の裏。西条は再び打たれた。9番の森永を三振に打ち取ったまではいいが、先ほどホームランを打たれた名備素粉にストレートのファアボールを与え、

今度は2番の軽日にライトスタンドへ叩き込まれてしまう。その差7-1。まだ2回ながら、ベンチに嫌なムードが漂う。

「(ちくしょう……これじゃあ、なんのために志願したか解らないじゃないか!)」

自分の不甲斐なさに、思わずグローブを叩きつけたくなる。だが、そこをなんとか堪え、西条は肩で呼吸をしつつ、ロージンバックを手に取った。

何回か触れ、その度に白い粉が舞い、青空へと吸い込まれていく。

額から流れる汗は、マウンドの土に染み込み、一瞬にして蒸発した。迎えるバッターは、3番の明治集英。

「(ストレートとスライダーは打たれても、スローカーブはまだ打たれとらん。積極打法なチームなら尚更や)」

緩い球とは、狙い打ちをされればかなり危ない球になるが、ストレートみたいな出合い頭はまずない。力のある者には、かなりの効果が期待できる。

「(スローカーブ自体誰も当てたことがない。打たれたのは、追い込む前のストレートやスライダーや。やっぱ、緩い球は苦手なんや)」

真奈がサインを出し、ミットをど真ん中に構える。汗を拭い、西条が静かに頷く。

「(くそったれが!)」

心を落ち着けるために、西条はロージンバックを手にしていた。だが、やはり苛立ちは抑え切れていなかったのか、それが投球に出てしまった。

「(あかん!失投や!)」

指のかかりが悪く、白球はど真ん中へ。これを明治が逃すはずがなかった。


(キン!)


明治の打球は上がらず、代わりに凄まじいライナーで西条の右へ飛んだ。

左投げなら捕れないことはないが、右投げの西条は逆シングルキャッチになるので、まず間に合わない。

「(これ以上、打たれてたまるか!)」

軽日のバットが緩やかに落下する。真奈が必死に叫び、西条がそれを無視する。

「(一条……)」

打球が、西条の右をライナーで抜ける。そのとき、西条の右肩がぴくりと反応した。

「(あとは頼んだ……)」

次の瞬間、西条の右手が白球の軌道を防ぎ、大きく後ろへ弾かれた。

ショートの篠原が、この打球をワンバウンドで捕球し、ファーストの佐々木守へ送球する。西条はその場にうずくまり、右手を必死に抑えていた。

先輩!

大成!

西条はん!

内野手の5人全員が慌てて駆け寄り、西条の周りに集まった。外野の3人も遅れて、西条の周りに集まる。

尚史が無言で抑えている西条の右手を手に取り、容体を確認する。

「無理だな。間違いなく骨をやってる」

西条の手のひらは真っ赤に腫れ上がり、小刻みに震えを生じていた。尚史が小さなため息をつき、脂汗を滲ませた西条にある疑問を尋ねた。

「何故、あんな危険を侵した。何か訳があるはずだ」

脂汗を滲ませ、西条が尚史の方へ顔を上げる。その表情が手の状態の悪さを物語っている。

「ーーちゃんだよ」

「?」

痛みに堪えながら話したせいか、重要な部分が途切れ、尚史の耳にはっきりと届かなかった。西条は声を絞り出し、もう一度、言葉を紡ぐ。

「春日ちゃんだよ」

「春日?」

春日。尚史がよく知っている人物の名前である。その人物も、今戦っている、この出部山保手治に負けてしまったわけだが。

「あの娘のピッチングを馬鹿にしてたのを聞いてたからさ。同じピッチャーとして、やっぱ許せなかったんだよ」

あの二人が来たのは、ブルペンである。西条が聞いていて、何も不思議ではない。尚史は黙って、西条の話を聞き続けた。

「監督にまで頼んで先発したのによ……。結局、この様だぜ。恰好ワリイよ……」

西条は怪我した右手を地面に何度も叩きつけ、その悔しさをあらわにした。

その度に痛みで顔が歪み、汗と涙が零れ落ちる。尚史はゆっくりと膝をつけ、西条の肩を軽く叩いた。

「恰好悪くなんかない。今のお前は誰よりも恰好良い」

西条は顔を伏せたまま、右手を叩きつけるのを止めた。尚史がもう一度、西条の肩を叩き、ゆっくりと立ち上がる。

「あとは任せろ。お前の意志は、俺達が無駄にはしない」









「プレイ!」

あの後、神城高校の守備位置の変更が伝えられた。レフトに和木が、ライトには黒崎が入った。

そして、西条が退き、次にマウンドを託されたのは、もうこの人物しかいない。

「さぁ……来なさい。大きな達磨さん達」

西条の意志を背負い、一条あおいが、今大きく振りかぶる。




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