第6章
止まらない二人





夏の甲子園大会2回戦。この日も気温は30℃を軽く越えており、スタンド、グラウンド共に景色が歪んで見えていた。

熱中症で倒れる人が出てもおかしくない暑さである。その暑さと同様、試合は異常な展開を迎えていた。

「あと3人ね……」

マウンド上には、西条に代わって、一条あおいが立っていた。束ねた長い髪が、熱を帯びた風によって揺れている。

あおいは、ロージンバックを軽く叩き、近くに放り投げた。暑さで噴き出た以外の汗が手に滲む。

森永は滲んだ汗をユニフォームに擦り付け、再びバットを握った。

「(速すぎるだぶ。絶対に打てないだぶ)」

あおいがゆっくりと、そして堂々した態度で振りかぶる。上体を大きく捻り、背番号1を相手に見せつける。

捻った体を一気に解き、汗だくの森永に向かって投げ込む。コースはど真ん中。

「(当たれだぶ!)」

森永が小さく踏み込み、バットを豪快に振り回した。空気を引き裂くようなストレートは、バットの上を通過し、真奈のミットに突き刺さった。

「ストライク!バッターアウト!チェンジ!」

森永が勢い余って尻餅をつき、あおいは晴天の空に向かって、高々と拳を突き上げた。

あと2人!絶対打たせない!

西条の心意気に感動したあおいは、4番の伊集院から、今打ち取った森永まで全員三振と、出部山打線を完全に封じ込めていた。

さらに驚くことに、変化球を一切、使用していないのだ。その驚異的な投手の球を受け取っている真奈も、流石に驚かされる。

「(今日は、ストレートのノビがめっちゃ凄い。結城先輩でも、打つん難しいで)」

肩自体は暖まっていないのか、ここまで150k/mのストレートは、以外にも1球も来ていない。

140k/m台であれば、出部山も当てることぐらいはできるはずである。それをさせないのが、この球のノビであった。

「(失投せえへん限りは、まず打たれる心配は無いなぁ。あとは打っていくだけや)」

ベンチに戻り、真奈はマスクを右手で外した。

そして、プロテクターを外しながら、ゆっくりとバックスクリーンに映し出された、自分のチームの打順に目をやった。

赤い線が選手の名前の下で鈍く光っている。その線が指す名前は、川上理奈。つまり、1番打者から始まる好打順。

その張本人がヘルメットを深く被り、バットを担いで、静かにバッターボックスへ向かった。









「(暑い。早くベンチに帰って、冷たい水を飲みたいぜ)」

ロージンバックを軽く握り、大きく息を吐いた。額から大粒の汗が流れ、口の中や目の中に入り込んでくる。

ユニフォームの袖でそれらを拭い、山田は伊集院にサインを出した。

「(内角高めのストレート。とにかく、強気に内角を攻めていこう)」

伊集院が返事代わりに、キャッチャーミットを豪快に叩き、そして静かに内角へ寄った。

理奈はバットを肩の上で寝かせ、足をやや開いて構えを取る。山田が足を上げる。第1球目。

「(ストレート。しかも、ちょっとスピードを抜いた球)」

理奈は長く持っていたバットを短く持ち替え、伊集院のストレートを捉らえる。

だが、踏み込みがなかったため、打球は前には飛ばず、バックネットに突き刺さった。

「(今ので大体解った。次は前に飛ばすわよ)」

理奈がバットを垂直に構え、足を大きく開いた。その構えは、マリナーズのイチローというより、オリックス時代のイチローに近い。

「(カーブを狙う。ストレートは抜かれるけど、カーブはあれより遅くできない。変化量にさえ気をつければ、打てる)」

次のバッターの高橋が見守る中、山田と伊集院がサイン交換を終えた。

伊集院がミットを豪快に叩き、山田がグローブを胸の前に持ってくる。足を上げ、第2球目を投じた。

「(来た!)」

山田が投じた球は、真ん中から理奈の膝元へ食い込むスローカーブ。

見逃せばぎりぎりボールだが、狙い球として待っていた理奈には、多少のボール球は関係ない。

軽やかに振っていた足を大きく外側へ踏み出し、緩やかに変化してくる球を振り抜いた。

短い金属音が響き、恐ろしく低いライナーがファーストの名備素粉に襲い掛かる。

「ファースト!」

太い体を揺らし、名備素粉が理奈の打球の前に回り込む。当たり自体は良かったが、飛んだ場所が悪く、名備素粉の守備範囲であった。

「(お楽しみはこれからよ)」

打球がグローブの手前でワンバウンドし、それを名備素粉が丁寧に捕球しにいく。だが、そこで思わぬことが起きた。

ぶひょ!?

ワンバウンドした打球は、名備素粉のグローブを霞め、大きく左へイレギュラーしたのだ。

さらに1塁ベースの上を通過しているため、審判はフェアと宣告した。当然理奈は、1塁を蹴って2塁へと向かう。

秘打!猫騙し!

ライトからボールがセカンドに渡る頃には、理奈は3遊間を激走していた。

これは投げても間に合わないと判断し、セカンドの湖可甲良は投げるふりだけをして、山田にボールを渡した。ノーアウト3塁。一打得点チャンス。

「2番 セカンド 高橋君。背番号4」

高橋が打席に立つ前に、ベンチに座っている、監督の俊彦を見た。普段、選手にほとんど任せきりの俊彦が、珍しくサインを出している。

3塁にいる理奈もそれに気付き、顔を俊彦の方へ向けた。高橋も見逃さないように、しっかりと俊彦の手の動きについていった。

「(なるほどね)」

理解が出来た高橋は、返事代わりに俊彦に向かってヘルメットの鍔を軽く動かし、そして左打席に入った。

「(スクイズは無い。1点差ならまだしも、6点差だ。回も浅いしな)」

さらにもう一つ付け加えると、ノーアウトでやることではない。点差が開いているときは、ランナーをとにかく溜め、流れを作ることである。

ここでスクイズをしてしまうと、1点が入る代わりに、ランナーが消えてしまう。

3つの根拠から、山田はスクイズを無視して、内角にストレートを投げ込むことに決めた。伊集院が端に寄り、ミットを構える。

「(突撃ー!)」

山田の足が上がると同時に、理奈はスタートを切り、高橋はバントの構えを取った。まさかまさかのスクイズ。

無警戒であった山田が外せるわけもなく、とにかくバントをさせにくいように、球威のある球を投げ込むしかなかった。

「(チィ!裏を掻かれた!)」

山田の投じた球と高橋のバットの軌道は、完全に合っている。理奈もほとんどベース付近に来ている。1点は確実に返した。


(キン!)


はずだった。高橋はバットの上っ面に当ててしまい、後方のバックネットへ打ち上げてしまったのだ。伊集院がマスクを外し、この打球を追い掛ける。

打球はそのまま伸びて、バックネットに当たった。突っ込んで来ていた理奈は、クルリと踵を返し、ゆっくりと3塁へ戻って行った。

「(ラッキーだった。打ち損じてくれて)」

スクイズをしてくる以上、やはりここはある程度、警戒する必要がある。山田はスリーボールになるまで外すというサインを伊集院に出した。

伊集院は、小さく右手の親指と人指し指で丸を作り、山田に返事を返した。

「(さらに撹乱させてみよう)」

今度は、高橋は左手でバットの芯に近い部分を持って、いきなりバントの構えを見せつける。山田はサイン通りに、外角高めに大きく外した。

理奈は走る恰好だけ見せて、スタートを切らなかった。はっきり言えば、元から切るつもりがないのだ。

「(大量リードしてるなら、普通は1点ぐらいやってもいいはずなのに。プライドが高いって損だね)」

今度は、始めからバントの構えではなく、いつもの福浦(ロッテ)の構えで、山田の投球を待つ。

理奈は先程と変わらず、ギリギリ頭から帰塁できるぐらいの大きなリードを取っている。山田の頭の中は、完全に混乱していた。

「(だー!スクイズすんのか、しないのかはっきりしやがれ!)」

一度キレてしまった集中力とは、そう簡単に戻ることはない。このあと、山田は1球も入らず、高橋を歩かせてしまう。

山田は完全に、俊彦の采配に引っ掛かっていた。

「(やっぱ、初めの考えを信じとくんだった……)」

しかし、やってしまったものは仕方が無い。心を落ち着けるため、山田は足下のロージンバックに手を伸ばした。









「3番 ピッチャー 一条さん。背番号1」

あおいが左打席に入った。バットを肩に乗せ、大きく足を開く。ヘルメットからはみ出たおさげを片手で弄りつつ、相手のサイン交換を待った。

山田がユニフォームの袖で汗を拭い、伊集院にサインを出した。

「(ここはシュートだ。俺のシュートは、ストレートと球速が変わらないから、間違いなく詰まってくれるはずだ)」

山田が巨体を揺らして、僅かに内角に寄った。マスクの間から汗が流れ落ち、グラウンドの土に吸い込まれていく。

サイン交換が終わったことに気がついたあおいは、肩に乗せていたバットを膨らみの小さい胸の前に持っていき、構えを取った。

山田は充分にランナーを警戒しつつ、足を上げる。高橋と理奈は大きくリードは取るものの、走ろうとはしない。

「(絶対にランナーを溜めて、結城先輩には回したくない)」

山田が腕を大きく横にしならせ、ボールを放す瞬間に人差し指に力を入れ、回転をかける。狙うコースは内角低め。今、そこに向かって投じられる。

「(ストレート!)」

あおいの足下に向かって、妙な回転のかかったボールが食い込んでくる。体が2、3度揺れ、あおいの肩がグッと内側に入る。

ボールがベースの手前で大きく外側へ逃げる。あおいは外側に向かって大きく踏み込み、これを捉らえた。


(キン!)


何!?

打球はあっという間に3塁頭上を越えていき、レフト線にギリギリ落ちた。レフトの大塚が腹の肉を揺らして、ファールグラウンドに転がる打球を追い掛ける。

この間に、理奈は悠々とホームへ。高橋は2塁を蹴り、3塁へ。あおいは一気に2塁に滑り込んだ。タイムリーツーベース。あと5点差。

「(んな馬鹿なことがあってたまるか……)」

山田は、先ほどのあおいのバッティングが信じられなかった。

「(あれは確実に引っ張りにかかっていたはずだ。でなきゃ、体がライトに向くわけがない)」

そう。打ったあとのあおいの体は、レフトではなく、完璧にライト方向へ向いていたのだ。

だから、あおい自身はライトへ引っ張りにかかっていたということになる。

では何故、普通なら併殺打のシュートを完璧に捉らえることが出来たのか。答えは、すぐに見つかった。

「(あんな打ち方、練習して出来るわけがない。……体が無意識に反応して、咄嗟に迎え撃ったんだ)」

俄に信じ難いことではある。だが、この結論以外、思いつくものがない。

何より、自分の決め球であるシュートが、たった1球で打たれてしまった。こちらのショックの方が何倍も大きいものだ。

「4番 サード 結城君。背番号5」

大歓声の脚光を浴びつつ、尚史が右打席に入る。1塁は開いているが、プライドの高い山田が歩かせるはずが無い。

尚史は充分、それを解っている。そして、決め球を打たれた今の山田に、もはや自分の敵ではないことも。

「(俺も初球だな。初球ストレートを狙う)」

肩で小さく呼吸し始めている山田。叫びのような声を上げ、尚史に向かって投じる。

しかしその球に、もはや力は無かった。こうなると、尚史の餌食となるだけである

「(じゃあな。ホンジャマカの片割れ)」

尚史が前に大きく踏み込み、バットでボールの下を上から叩き切る。

短い金属音が響き、打球はあっという間にレフトスタンド上段に突き刺さった。先ほどより何倍も大きい歓声が、甲子園を包む。

今度は上段に飛び込んだーー!!驚愕の2打席連続だーー!!5-7!さあ、試合が解らなくなってきました!

尚史がバットを放り投げ、1塁へ向かって、ゆっくりと歩き出した。マウンド上の山田は、膝から崩れ落ち、グローブを叩きつけた。

出部山ナインが山田の回りに集まってくる。尚史はその様子を見ながら、4つ目のベースを踏んだ。




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