第7章
もう一人のエース





「あと2点差だな」

ホームベースをしっかり踏み締め、すぐ近くにいた佐々木守と軽くタッチを交わした。

そして、ベンチへ戻る途中、ヘルメットを取り、額から流れ出てくる汗をユニフォームの袖で拭い、長い息を吐いた。

それは緊張から解かれたとかそういうのではなく、次に来ることに対しての心の準備のために吐いたものである。そして、その予想は見事に当たった。

流石は4番だな!

美味しいとこ取りやがって!

主人公みたいな活躍しやがって!

ベンチ前で待ち構えていた、怪我の西条と女性陣を除く、チームメイト全員が尚史の頭をそれぞれが容赦無く叩き始めた。

少しでも痛みを和らげるために再びヘルメットを被ろうとしたが、叩かれている間にヘルメットを足下に落としてしまい、もはやどうにもならない。

「(……やり過ぎだ。痛い。あと主人公みたいじゃなくて、主人公だ)」

入学当初から比べると、確かに丸くなったし、エロくなった(これは関係ない)。何より、滅多なことでは怒らなくなった。

だが、いくらなんでも容赦無く叩き過ぎだろう。流石の俺でも、いい加減キレそうだ。ていうか、あと1発叩いたらキレる。

「さて……佐々木を応援するかな」

思わず殺意を覚えてしまいそうなすっきりした笑顔の篠原がそう呟くと、叩いていたチームメイト全員が、それぞれの元いた席に戻った。

……こいつら、タイミングを解っていやがる。

「(次はやられる前に、先手を討たないとな)」

痛みの残る頭を摩りつつ、反対側を向いて小さく回転しているヘルメットを拾いに、腰を曲げる。

その刹那、肩に何か冷たいものがかけられた。ヘルメットの鍔を掴み、それを拾い上げ、顔を上げる。そこには、一条あいの姿があった。

「ナイスホームランでしたよ。やっぱり凄いですね」

痛みが吹き飛ぶような、可愛らしい笑顔。気の利いた冷やしタオル。どこぞの馬鹿共とは、まさに月とスッポン。

いやそれでは、スッポンが可愛そうだな。そんなどうでもいいことを思いつつ、御礼の言葉と共に、ヘルメットとバットをあいに渡した。

「(さて試合は……)」

今の山田なら、西条ですらヒットを打てる。ましてや長打力のある佐々木兄妹なら、ホームランも充分期待できる。

つまり同点に出来る可能性もあるわけだ。とにかく、あと1点が欲しい。そうすれば、流れは神城に完全につく。

「(初球から積極的にいけ。俺のホームランの流れを消すな)」

尚史の思いが伝わったのか、佐々木守は初球のカーブの抜け球をセンター前に、佐々木真奈は初球の内角ストレートを上手くライト前に落とし、

ノーアウト1、2塁とチャンスを広げた。ここで、ミート力はあるが、チャンスに弱く、顔を見ただけで小さな子どもが泣き出したという噂持ちの篠原。

「今、その話は関係ないだろうが!このロリコンが!」

晴天の夏の空に向かって篠原がどデカい声で吠えた。その声は何度もエコーされながら、青空の奥へと消えていった。

誰に向かって言ったのかは不明(?)だが、それで落ち着きを取り戻した篠原が打席に入る。

チャンスであまり期待出来ないが、押せ押せムードの今なら、それもあまり関係ないだろう。

「(ふ、ふざ……けん……なよ)」

肩での荒い呼吸。額から流れ出る滝のような汗。誰かを睨むような眼差し。チームで唯一の爽やかであったあの雰囲気は、かけらも残っていない。

コントロールとタイミング外し。これが山田の最大の武器と言っても過言ではない。だが、今の山田には、この2つを使って投げることは出来ない。まず1つ。

打たれたため、冷静さを失い、自分のピッチングを忘れて、力でねじ伏せようとしていること。2つ目。疲れからの握力低下。これで制球するのは難しい。

俺が負けるはずねぇんだ!

もはやどうにもならない状態。流石にこのままではまずいと思ったのか、伊集院はタイムをかけて、マウンドに行こうとした。

だが、それより先に山田は投球モーションに入ってしまった。伊集院は慌ててミットを構え、ボールになることを祈った。 「(内角……っておい!)」


グチャ!


決して近くで聞きたくないような生々しい音が響いた。篠原が股間を抑えて、声にもならない声で、必死に悶えている。男でも理解できまい。

いや、理解したくあるまい。右打者の背中からそのままベースを貫く130k/m台のボールが、股間に当たったときの痛みを。

テレビで見ている者は笑っているかもしれないが、流石にこの球場で笑う者はおらず、逆に騒然としていた。打席内で悶えに悶え、そして。

担架だ!早く!

顔を真っ青にして、座ったまま、ついに篠原は前のめりにして倒れた。

何やら、「大成は感動を残して降板したのに、なんで俺は金的でノックアウトなんだ……」とか、「なんでパワプロ13はPS2だけなんだ」とか、

今にも消えそうなか細い声でぶつくさ言っている。

それが煩わしいのか、救護係の1人が手際良く、篠原の首を叩いて、眠らせ(気絶させ)た。試合はもちろん一時中断となった。

「痛いな……」

「可愛そうですね……」

「理奈や佐々木妹はともかく、あおいちゃんは胸に当たると痛いよな」

「何でですか?」

「ナイチチだから」

次の瞬間、金属バットが尚史の頭に、鈍い音ともに減り込んだ。ベンチに公園の噴水のような血が華麗に舞った。









数分後、試合は再開され……なかった。

何故なら、出部山保手治の監督である山軽秘蘇雄(やまかる ぴすお)が、審判にピッチャーの交代を告げたからである。場内に女性の声が響き渡る。

「出部山保手治高校、ピッチャーの交代をお知らせ致します」

暑苦しいナインに囲まれ、伊集院がレガース、プロテクター、ミットを外し、山田にそれらを渡した。

山田は代わりにグローブを渡し、レガース等を装着し始めた。女性が告げる内容はまだ続く。

「ピッチャー山田君に代わりまして、伊集院君。山田君はキャッチャーに入ります。ピッチャー伊集院君」

レフトスタンドが大いに沸き上がる。それほど2人は、人気者なのだろう。

そう思いながら、貧血で倒れそうなのを気合で堪えつつ、尚史はベンチに飛び散った自分の血を吹いていた。

「(なんにせよ、エースを引きずり降ろしたんだ。エースより凄いってことはないよな)」

黒崎みたいに、そう考えるのが普通であろう。エースは、そのチーム内で1番頼れる者なのだから。

「(まあキャッチャーだし、肩は強いから、少しは速いぐらいだろうな。良くて135k/mぐらいか)」

黒崎はあまり伊集院に脅威を抱いていなかった。もしエースより凄い球を投げられるなら、何故ピッチャーをしない?

そちらの方が大成するに決まっている。もしプロでそれが通用しないなら、馬鹿力に頼った打撃に集中すればいい。

珍しく真面目なことを考えながら、黒崎は打席の中で、軽くバットを振った。

「プレイ!」

だが、どんな規則でも例外があるということだけは、忘れてはならない。今それがまさに、伊集院に当て嵌まる。


パァン!


山田が内角高めに構えたミットに伊集院の投じた球が突き刺さり、恐ろしく渇いた音が響いた。

バックスクリーンに示されている数値は144k/m。どこの高校でも、立派にエースを張れる球速である。

まさか、これだけ速い球を投げられるとは思わなかった黒崎は、金縛りにあったかのように、まったく動くことができなかった。

「(な、なんでこいつがエースじゃないんだ……)」

さらに疑問が募る第2球目。ど真ん中から内角低めに決まるカーブ。落差も激しく、さらに球速も136k/mと、山田のストレート並の速さであった。

もちろん黒崎は空振り。滅多に大振りのしない黒崎にしては珍しく、尻餅をついていた。

「(すげぇカーブ……打てねぇよ、こんなの)」

バットを杖代わりにして立ち上がり、尻についた土を払った。結局黒崎は、内角高めのストレートを振らされ、空振り三振に倒れた。

ナイピッチ!光生!

これに調子づいたか、このあと伊集院は、西条の代わって入っている和木、そして理奈を三振に打ち取り、後続を見事に抑えた。









あと一人!あと一人!




ライトスタンドの言葉合唱のにより、球場全体が震えている。

ウグイス嬢の声は掻き消され、おまけにレフトスタンドの歓声までもが、その合唱により妨げられていた。

「あと1人か……」

容赦の無い太陽の光が、マウンド上の一条あおいを照らしている。たまに生暖かい風が吹き、綺麗に束ねられた髪が、静かに揺れる。

手にしていたロージンを元の位置へ戻し、手を後ろへ回し、真っ直ぐ目を向けた。

「(僕もそうだけど、真奈ちゃんも超強気だね。まあ、そこがいいんだけどね)」

あおいがちょっと呆れたように笑い、大きく振りかぶる。上体を捻り、力を蓄える。

逃げないように体にリボンを結び、誰にもわからないぐらいに、一瞬静止する。

そしてそのリボンをほどいた。白球が風を切り裂き、ミットに突き刺さった。審判の腕が上がった。

「ストライク!」

金縛りにでもあったかのように、明治のバットは動かない。タイミングを測っているのかといえば、そうでもない。

早い話、手が出ないのだ。三振してはならないプレッシャーとライトスタンドの歓声が、完全に明治を飲み込んでいた。

それとは対照的に、マウンド上のあおいは、躍動感に溢れていた。緊張という言葉を微塵も感じさせない。

トルネードもいつもより大きく捻っている。もはや、勝負の結果は見えていた。

「ストライクツー!」

またもど真ん中に、白球が突き刺さった。もちろん明治は動けなく、ただ突っ立っているだけ。ライトスタンドの期待の声がさらに騒がしくなる。

だがやはり、あおいに緊張という色は見られない。あおいは真奈のサインを見た。少しだけ戸惑いを見せた。

「(……最後はあれでいくの?)」

「(やっぱ用心してですよ。私もストレートでいきたいですけど、他が期待してますしね)」

あおいが目をつぶり、少しだけ考える。そして、笑顔ですぐに頷いた。

「(いくよ、真奈ちゃん)」

「(はいな、あおいちゃん)」

左足を下げ、あおいが大きく振りかぶる。小柄な体を大きく捻り、同時に束ねられている髪が小さく揺れる。

太陽がマウンド上に咲く一輪の花を照らしていた。

「(当たれぶひ!)」

明治は固まった体をなんとか動かし、先ほどとまったく同じ球を打ちにいった。バットの軌道は合っている。無理矢理動かしたのが幸いしたのだろう。

「(真奈ちゃんの予感が当たったね)」

バットが球に接触する。その寸前に、球は変化し、縦に割れるように左打者の明治の膝元に食い込んだ。

明治のバットは、豪快に空を切り、そして明治本人は激しく尻餅をついた。

三振だーー!なんということだ!まさかまさかの9連続三振!甲子園に魔女が舞い降りたー!

本来なら抱き付きたいぐらいの喜びであろうが、まだツーアウトである。あおいは、「魔女じゃないわよ」と呟き、小さくガッツポーズを作った。









6回の表、2番の高橋から始まる好打順。

だが、その好打順も高橋はどん詰まりのピッチャーフライ、あおいはライトフライと簡単に打ち取られ、あっという間にツーアウトとなってしまった。

せめて1人出てほしかったと思うが、それも仕方がないことか。尚史はそう思いながら、右打席に立った。

「(140k/m後半のストレートは速い。だが……)」

打てない速さではない。先ほどのあおいの打席も、風が無ければホームランだったかもしれない当たりであった。

相手のストレートの速さに臆しなければ、確実に打てる。さらにもう一つ。カーブは捨てる。

悩むぐらいなら、何かに絞った方がいい。幸い、伊集院はカーブとストレートしかない。確率的には2分の1。

「(いや、初球は100パーセントあれだろ)」

山田がリードしているならともかく、もし伊集院がリードしていたのならどうなるだろうか。そうなると、答えはおのずと見えてくる。

「(……決めた)」

尚史が体をやや前屈みにして構える。伊集院が振りかぶり、豪快に足を上げる。左足を引き上げ、スイングに必要な溜めを作る。

「(やはりな……)」

伊集院が投じた球種は、ストレート。しかも大胆にも、尚史が最も好きな内角低め。あとは力負けしないスイングをすればいい。

「(伊集院はストレートで俺を抑えたかったんだろうが……)」

尚史が足を僅かに3塁方向へ開き、ベース前でこれを捉らえた。


キィン!


「(145k/mぐらいじゃ、俺を抑えるのは無理だ)」

澄んだ金属音と共に、力強い打球がレフトスタンドに向かって飛んで行く。レフトとセンターが追い掛けるも、それは無駄なことであった。

いったー!3打席連続ホームラーーン!!今日1人5打点!結城尚史に魔物が取り付いたのか!?恐ろしい高校生です!

伊集院が額からバケツをひっくり返したような汗を流し、マウンド上でうなだれている。

尚史は、「あと1点」と小さく呟き、ゆっくりと1塁ベースを蹴った。




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