第8章
まんげつのなく頃に





夕暮れに染まる甲子園球場。

東の方は暗闇に染まり始め、バックネット裏の観客を覆う銀傘の影は、少しずつ闇に同化し始めている。

球児が駆け抜け、歓喜に満ち溢れ、涙を流した広大なグラウンドには、誰も立っていない。

この日、3つのチームがこの甲子園から去ることとなった。1つ目は、島根の松江商業高校。

敗因は、サードの決勝タイムリーエラーであった。2つ目は、愛媛の正岡第一高校。

延長戦になるほどの接戦ではあったが、最後の最後でサヨナラ弾を浴び、敗北を喫した。

そして3つ目。神城高校対出部山保手治高校。出部山が、持ち前通りの猛打を初回から見せつけていた。

だが、神城も負けじと尚史のホームランやあおいのタイムリーなどで点差を徐々に縮めていった。

そして、9回。ドラマは最高潮を迎えた。









9回の表、3番のあおいから始まる好打順。5回にはタイムリーを放っているだけあって、期待がかかる。

「(1発狙いたいところだけど、ここは結城君に繋がないと。彼のおかげで流れが変わってきたんだから)」

ここまで尚史は、3打数3安打3本塁打5打点1四球。

いきなり敗色濃厚だった雰囲気を、たった1人で変えたといっても過言ではない。

下手に一発を狙って凡退するぐらいなら、ヒットで出塁して、少しでもプレッシャーを与えた方がいい。

そう思ったあおいは、僅かにバットを余して握った。

「(ん?)」

山田がマスク越しに、あおいのいつもより余して握っていることに気がついた。

指1本ぐらいだが、あおいのスイングスピードから考えれば、伊集院のストレートに対応するには充分である。

もちろん、マウンド上の伊集院も、それには気がついていた。

「(なるほどな)」

山田が思わず頷く。光生がユニフォームの袖汗を拭き取り、大きく振りかぶる。あおいに対しての第1球目。

「(カーブ!)」

初球をストレートに絞っていたあおいは、膝元に食い込んでくる変化球に対応できず、バットは大きく空を切った。

「(間違ってなければ、もう1回カーブだな)」

山田の予想通り、伊集院のサインはカーブであった。さらに、コースはど真ん中を要求している。甘い球と見せかけるためだろう。

「(もし、カーブを待ってたら……って、それも野球か)」

山田がミットを構え、伊集院がそこに寸分狂わず投げ込んだ。

ストレート狙いだったあおいは、またしても空振り。カウント2-0。早くも追い込まれた。

「(ここまでは、光生の予想通りだな)」

伊集院の考えていることは、単純だった。

バットを短く持ってストレートに対応しようとするのなら、変化球でそれをさらに速く見せればいいこと。

単純なことだが、あおいには通用している。伊集院が、山田にサインを出す。

「(やはりストレートか)」

そのストレートをさらに速く見せるためのコース。山田はそこにミットを構えた。

「(よし……来い!)」

伊集院が大きく振りかぶり、足を上げる。体の肉が揺れ、前足を大きく踏み出す。

地響きに似た音が響き、指先からボールが離れた。強い回転のかかったそれは、あおいの頭ぐらいの高さを直進する。

「(良いコース!スピードも乗っている!)」

内角高め。約ボール1個分、外れている。打ち気に流行っているあおいを打ち取るには、充分な球だった。

「(高い!)」

そう思ったところで、時既に遅し。バットはもう振り出している。止めることは出来ない。

「(とにかく当てないと!)」

あおいは、慌ててバットのヘッドを上昇させた。伊集院の球の下にバットを潜り込ませる形となった。

「(お願い!当たって!)」

額から一筋の汗が流れる。無限に広がる夏の空。ベンチ、スタンドからの声援。熱を帯びた風の感触。

グラウンドに蒔かれた水の蒸し暑い匂い。それらの感覚が全て停止され、ただ目の前に迫ってくる白球だけに注がれる。

届けーー!!


(カキィン!)


澄んだ金属音が熱を帯びたグラウンドに響く。負けられないあおいの執念が、白球を捉らえた。

打球はライトへライナーで上がっている。ライトの軽日がでかい体を揺らして、必死に追い掛ける。

「(光生の1番速い球を打ち返しただと!)」

それだけではない。ストライクゾーンから1個分外れた球を普通は捉らえることなど出来ない。

しかし、あおいはその球を捉らえ、尚もその打球はライトへ伸びて行っているのだ。

入れー!

あおいが叫ぶ。ライトの軽日が、追うのを諦めた。飛距離は充分。あとは、ポールの内か外か。

入るな!

キレろぶふー!

2人が叫ぶ。運命の打球は外側へと大きくキレていく。







ガシャ


まさにその外側に打球は直撃した。驚愕の同点ホームラン。あおいが拳を突き上げ、1塁ベースを回った。

「そんな馬鹿な……」

「有り得ないぶふー……」

マウンド上でうなだれる伊集院。悔しさのあまりに、ミットを叩きつける山田。2人は冷静さを完全に欠いていた。

「あとは頼んだわよ!」

「任せとけ」

ハイタッチを交わし、尚史が右打席に立った。レフトスタンドが一気に沸き上がり、歓声が甲子園を飲み込む。

流れは完全に、神城高校のものとなっていた。

「(今、引導を渡してやるよ)」

尚史が構える。マウンド上の伊集院は、さっきの一発が完全に尾を引いていた。

「(光生!?)」

なんとか冷静さを取り戻した山田が出したサインは、臭いところをついて歩かせろというものだった。

3ホーマーしている尚史なら、ノーアウトでも、歩かせるのが当然である。

もちろん、伊集院もこれには同意していた。だが伊集院には、そこまで出来る力は、もう残っていなかった。

「(じゃあな)」

引き上げていた左足を前に大きく踏み出し、ベースの手前でこれを振り抜いた。


(カキィン!!)


尚史がバットをゆっくりと放り投げた。伊集院は後ろを振り返らない。山田はマスクを取り、打球の行方を目で追った。




観客もその行方を追う。




高々と上がった打球は、空に吸い込まれるように伸びて行き、




逆転の一打となって、レフトスタンド中段に突き刺さった。




4打席連続ホームラン。




少年は拳を突き上げ、ゆっくりとベースを回り始めた。空は蒼く澄んでいた。









「おはようさん」

「おはよう。あんたにしちゃ、起きるの早いわね」

「まあな」

太陽も昇り、雀も活発に動いているが、時間的にはまだ7時を回っていない。

練習も朝からではなく、昼からであるので、まだ眠っているものがほとんどだ。応接間、つまりここには、当然誰もいない。

無地の白いTシャツ、黒いジャージの恰好の尚史が頭を掻き、眠そうに大きな欠伸をした。

「あんたの活躍が、凄く取り上げられてるわよ。あとあおいちゃんと」

理奈が机の上に置いてあった新聞を1部取り、それを尚史に手渡した。尚史はそれを広げ、記事の内容を確認した。

まだ眼は完全に開き切っておらず、油断すれば今にも眠りこけそうである。

「甲子園新記録!神城、結城の4連続アーチでベスト16へ!……か」

尚史は昨日の悪夢を思い出した。

「あれは辛かった……」

昨日の出部山戦で尚史が更新した1試合4ホーマー。

その前に1試合3ホーマーという記録を作ったのが、現在もオリックス・バッファローズでプレイ中の清原和博(PL→西武他)と、

去年の夏、辻内と共にチームを引っ張った、平田良介(大阪桐蔭→中日)。

その偉大な記録を塗りかえた尚史は、記者達に執拗な質問攻めに遭ったのだ。

逃げるという手もあったのだが、途中で半ば自棄糞になり、全部答えていったのだ。

「あれのおかげで、試合以上に疲れたんだよな……」

はぁ、とため息をつき、尚史はさらに記事に眼を通した。足下では、尊が横で座り込んでいる。

理奈もまだ眠いのか、小さく欠伸をした。

「……」

眠そうだった尚史の表情が突如、厳しいものに変わった。理奈はその変化にすぐに気がつき、理由を尋ねた。

「どしたの?何か悪いことでも書いてあった?」

尚史は首を横に振った。だが、何もなかったことはない。

でなければ、尚史があんな厳しい表情をするはずがない。必ず新聞に何か書いてあった違いない。理奈はそう思った。

「悪い……着替えて、どっか行ってくる。監督にそう言っておいてくれ」

尚史は新聞を机の上に置き、いかにも気分悪そうに部屋に戻って行った。

理奈は先ほど渡した新聞に何が書かれたか気になり、机の上のそれを手に取り、読み出した。

記事の真ん中辺りに差し掛かったとき、その答えが書かれていた。

「……気分悪くなるのも無理ないわね」

理奈もその記事の内容を見て、尚史と似たようなため息をついた。足下には、尚史についていかなかった尊が体を舐めている。

「おはよ〜。朝から新聞読むなんて、流石理奈ちゃんね」

少し間の抜けた声が、耳に入ってくる。理奈は机に新聞を置き、持ち主の方へ顔を向けた。

「おはよう。いつも早いね、あいちゃんは」

「そうかな。今日は遅いぐらいだけど」

今日は。では、いつも何時に起きているのだろうか。理奈は、それについて尋ねてみた。

あいが下唇に指を当てて、少し考える。そして、口を開いた。

「5時かな。昨日は、流石に私も疲れちゃったし」

あんたは老人か。突っ込みたいが、とりあえず心の中で、それは閉まっておくことにする。

「で……何かあったの?」

「え?」

あいの思いがけない質問に、理奈は動揺した。天然だが、あいはこういうところは鋭い。

恐らく嘘をついても、すぐにバレるだろう。理奈は少し呆れたように笑い、あいに答えた。

「実はね……」









旅館から少し離れたグラウンド。周囲に人の気配は無い。

ユニフォーム姿の尚史は、ピッチングマシーンで1人、ただひたすら打ち込んでいた。

クソッタレが!

快音と共に、マウンドの上を恐ろしい速さのライナーが通過する。

この打球なら、確実にグローブを弾くか、下手をすれば、顔面直撃か。

しかし、誰もいないので、そのまま通過していき、1度もグラウンドに落ちることなく、センターのフェンスに直撃した。

その辺りに散らばっている白球がまた1つ増えた。

「俺を……あんな糞親父と比較するな!

快音がまたも響き、先ほどの打球を、まるでコピーしたかのように、まったく同じコース、速度で通過していった。

「はぁはぁ……」

胸が苦しい。体が休憩を要求している。普段より疲れが早い。左腕につけた時計を見てみる。

ちょうど短針が8の数字を指している。つまり、あれから1時間以上経っているのだ。

恐らく、旅館の方では飯が出来ているに違いない。そう考えると、突如、体に力が入らなくなる。

足が震えている。歩けない。だが腹は鳴っている。蝉も騒がしく鳴いている。イライラしてくる。

「……クソッタレが」

悪態をついても仕方がない。とりあえず、すぐ近くのベンチに座って、休憩だけでもとることにした。

動けないので、そうするしかないし。

「暑い……」

真夏の太陽が、容赦無く地上に暑さを振り撒いている。

いつの歳(18年しか生きてないが)になっても、この暑さには慣れ親しめない。

タオルを持ってくればよかったのだが、状態が状態であったため、そこまで頭が回らなかった。

仕方がないので、団扇代わりに手で仰いでやる。

だが、暑さはそれを遥かに上回り、さらに俺の体温を上げてくる。苛立ちは募るばかり。

「だ〜れだ」

いきなり視界が暗闇に覆われた。この気温なのに、氷のようにひんやりとして、赤ん坊の肌のように柔らかい。

「えっと……」

誰なのかは解っている。解っているが、手の感触があまりにも気持ち良すぎて、ちょっとした混乱に陥っている。

嗅覚が嫌でも働く。シャンプーの良い香りを感知しているから。それがさらに、俺に動揺を誘った。

「えっと……かいか?」

何で貝なんだよ。いかにどれだけ動揺しているか、よく判る。

「あいですよ。海の幸じゃありません」

「いや……すまん。ていうか、何でお前がここにいるんだ」

もし理奈に聞いたとしても、あいつに行き先を告げていなかったはず。

では、何故判ったのだろうか。あいは微笑みながら、その質問に答えてくれた。

「なんとなくです」

言い直せば、動物的勘というやつか。あいらしい答えだ。

「で……用件は?」

「えっとですね……」

あいが肘にかけていた袋をがさがさと漁り始めた。そのときだった。


ぐ〜


漁っていた手が止まり、あいは尚史の方へ顔を向けた。どこかで鳴いている蝉の音が、止まった。

「えっと……これはその……」

腹が鳴ったぐらいで、何をそんなに焦っている。テストのときだって鳴ったことがあっただろうが。

自分にそう言い聞かすが、動揺は治まらなかった。

「ふふ……。ちょうど、そのお腹に用があるんですよ」

あいは先ほど漁っていた袋から、角の丸い三角形の固体と、

『タウリン1000mg配合!リポビタンT!』と書かれた緑茶を取り出した。なるほど。飯を持って来てくれたのか。

「(しかし、タウリン配合の緑茶って一体……)」

どこで売っていたのか物凄く気になるが、とりあえず今は、飯を食わねば。あいが持つおにぎりに手を伸ばした。だが、あいは。

「ダメですよ。ちゃんと、『おにぎりください、あい様』って言わないと」

と言って、おにぎりを持っていた手を背中に回した。本気で言わないとダメみたいだな。

微妙に屈辱。だが、背に腹は変えられない。

「お、おにぎりください……あい様」

微妙じゃない。言葉で表現できないぐらいだ。

「ふふ……では、どうぞ」

あいが嬉しそうに微笑む。確かに屈辱的だが、不思議にも、憎たらしいと思わない。

逆に、心が落ち着いていくような……そんな気がする。

「なんだかな……」

頭を軽く掻き、尚史はあいが差し出しているおにぎりを受け取った。遠くのボールが、風で転がっていた。









朝早くから打ち込みをしていた俺は、監督に無理するといけないから、昼から休んでおけと言われ、旅館に戻って来ていた。

だが、何もすることがない。俺は非常に困っていた。

「さて……どうするか」

本を読もうにも、肝心の本がない。ゲームをしようにも、ゲームがない。

遊びに行こうにも、金がない。頭の中で結論づけてみる。何もない。

「ニャー」

いや、あった。正しくはいた。尊と遊べばいい。

「尊」

そう呼ぶと、尊が近くに寄って来た。老人が杖をついて歩くように、とてもゆっくりと。

首を撫でてやる。とても、嬉しそうな表情になる。

「眠い……」

昨日のインタビュー。普段慣れない早起き。朝からの打ち込み。

そしてとどめには、尊の笑顔で気が抜けて、溜まっていた疲れが一気に出たのだろうか。

まあ、これといってやることはないし、何より休憩のための早上がりなのだから、寝てしまっても構わない。

「というわけで、尊。おやすみ……」

撫でていた尊の首から手を離し、尚史は眼を閉じた。尊は空を見上げ、小さな欠伸をした。









「……」

暗闇に広がる謎の空間。聞こえてくるのは、自分の足音だけ。この空間は、前にも何度か来たことがある。

そして、この空間が現れるのは、過去を思い出したとき。または、過去に関係する人物が現れたときか。

お前は結城武久の息子──

「誰だ」

無抵抗の人間を殺し、その血を浴びても、何とも思わず、平然といられる冷酷な人間なのだ──

「違う……」

己の欲望を満たせ──

「俺に欲望など……」

榊唯──

「え……?」

過去のお前の欲望は、榊唯を自分の物にしたかった──

違う!

今のお前は、榊唯とよく似た人物を自分の物にしたがっている──

違う!

その名は──

止めろ!

そう叫んだ瞬間、空間がいきなり現実世界のものとなった。

「夢か……?」

戻って来たのだ。あの声が聞こえない世界に。心臓の鼓動は激しい。

汗も尋常でないほど、吹き出している。だが、それがあの世界から解放された証拠である。

「何て夢だ……」

右手で頭を抑え、しばらくそのままでいた。どこかの部屋から、柱時計の音が聞こえてくる。

「俺の欲望……」

唯の存在は、何よりも大切だった。誰に対しても優しく、人気者で、誰よりも可愛かった。

届くはずが無かったのだ。近づくことすら、不可能だったはずなのだ。

「なのにあいつは……」

話し掛けてくれた。太陽のような笑顔で。湿ったところに生える苔のような根暗な俺に。

どこか戸惑いはあったかもしれない。でも、純粋に嬉しかった。 「懐かしい記憶だな」

故に、榊唯を手に入れたかった──


頭の中で、声が響いた。夢の中で聞こえて来た、あの声が。

「誰だ……」

周囲を見渡しても、人はおろか、その気配すら感じない。額から嫌な汗が吹き出している。心臓の鼓動も、さっきより激しい。

「気のせい……か」

お前は欲しがっている──


気のせいではなかった。もう一度、周囲を見渡してみる。やはり、気配すら感じない。

だが、確かに声は聞こえた。低く、自分を惑わすような言葉で。証拠に、頭痛がしている。

「止めろ……その先を言うな……」

一条あいを──







違う!!

違わなかった。当たっていた。だけど、信じたくなかった。

犯せ──

「嫌だ……」

欲望を満たせ──

「……」

頭が割れるように痛い。

火で焙られているように体が熱い。

心臓が暴走している。

お前は結城武久の息子なのだ──

「俺は……」







一条あいが欲しい──







空には、まだ出始めの満月が鳴いていた。




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