暗い。そりゃそうだ。電気をつけていないのだから。そこで眠っている尊なんか、目を懲らさないと見えないぐらいだ。
唯一の光といえば、空にぽっかりと浮かんだ満月ぐらいだ。散らばった星の中で、煌々しく輝いている。
昔から月は人をおかしくするということを聞いたことがある。
もしかしたら、いや間違いなく、それは今の俺に当て嵌まっていると言っていいか。
ヤメロ……
頭の中に、誰かの声が響く。冷静で、どこかで聞いたことあるような声だ。
だが、そんな小さな声では、今の俺には届かない。ここまで来てしまったのだから、もう後には退けない。
ヤメロ……
黙れ。俺に指図するな。
「結城……さん?」
あいは部屋を見渡している。俺を探しているのだろう。
表面化された黒い欲求が、俺の中でうごめいている。止めれない。止まらない。
ヤメロ……
頭に響くこの言葉を無視し、俺はただ己の欲望のための行動に移した。
「あい」
「あ、ゆう」
俺はそのまま、あいを押し倒した。
「う〜ん……お姉ちゃん……」
同じ容姿、同じ体型を持つ、双子の妹の一条あおい。布団は2つあるが、片方は誰も入っていない。
「僕が悪かったから、変なとこにムヒ塗るのやめて……」
姉のあいの夢を見ながら、一条あおいは小さく寝返りを打った。
「結城……さん?」
尚史は覆いかぶさるように、あいの上に乗っかかっていた。
あまりに突然の出来事に、あいはよく状況を飲み込めていない。だが、それを理解するのに10秒もいらなかった。
「(犯される……?)」
全員が寝静まっている。電気もついていない。そして部屋には、自分と尚史の2人だけ。そう思って間違いないだろう。
逃げないと。だが、力で敵わないあいが、尚史を退かすことなど不可能に等しい。
暴れても、今の尚史が、自分に何を仕出かすかわからない。だからといって、何もしないわけにはいかない。
「結城さん」
恐い。だが、この状況に臆していないような虚勢を張った。庭で鳴く虫の声が、自分の耳に入ってくる。
「……」
尚史に返事は無い。代わりに、自分の服に向かって腕を伸ばして来た。
「(結城さん……)」
あいは尚史の目を見た。あの冷たい、だがどこか優しさを感じるようなものではなかった。
ただ、欲望に塗れていた。泥のように濁った、自分を完全に見失っている、そんな目であった。
「(……)」
同時に尚史に対して、不思議と自分の中から恐怖感が薄れていくのがわかった。
覚悟した……というのとは少し違う。あいは目を閉じ、手を横に広げた。
「……」
あいの制服を限界までめくり上げる。ほっそりとしたライン、そして雪のような白い体があらわになる。やはり胸は小さかった。
「……」
心の中の黒い欲求が、さらに要求してくる。俺はあいのスカートをめくり上げた。
ヤメロ……
また頭の中で、声が響いた。胸から妙な痛みを感じたが、気のせいと思いたい。
「……」
真っ白で、無地の白い布があらわになった。黒い欲求がさらに活発化される。俺はそのまま、あいのそれに手を伸ばした。
ヤメロ……キズツケルナ……
伸ばした手が、自分の意志とは反して勝手に止まった。何かが、黒い欲求を抑えている。
誰の声だ?お前は誰だ?何故、俺を止めようとする?
「(俺は何なんだ?)」
その女を犯せ──
己の欲望をぶちまけろ──
黙れ。指図するな。言われなくとも、やるつもりだ。
ヤメロ……
煩い。お前が誰なのかは知らない。だが、この状況で止められるものか。
目の前に獲物がいるのに、ライオンに待てと言ってるのと同じだ。
ヤメロ……
「煩い!黙れ!」
両手で頭を抑えながら叫んでいた。それとは、別の声が頭の中にまた響き渡る。
お前は結城武久の息子──
無抵抗の人間を殺し、その血を浴びても、何とも思わず、平然といられる冷酷な人間なのだ──
……違う。馬鹿親父と同じではない。あんなに冷酷非道な人間ではない。
「……?」
ジャア、メノマエノソレハナンダ?
誰かが問い掛けて来た。自分の声によく似ていた。
「!」
尚史は慌てて手を引っ込め、あいから逃げるように離れた。
そして、自分の手に視線を落とし、今までやっていたことを思い返した。
「俺は……」
あいの乱れた服装が、それをやってしまった後悔感が自分の強く心を締め付けてくる。
男は女を守らなければならない。
球部内に留まらず、学校内でも可愛いと言われている。
頭も良い。
それを鼻にかけず、誰にでも優しい。
その笑顔は太陽に向かって穏やかに咲く向日葵のようで、誰もが癒される。
そんな良い奴を、俺は男の義務を放棄してまで汚そうとした。未遂とはいえ、それは決して許されることではない。
「あい……」
尚史の声に反応し、あいがゆっくりと目をあける。そしてこちらへ視線を向けてくる。
尚史はあいを直視することができず、視線を床に落とした。
「結城さん」
声はしっかりとしている。今の尚史にはそれが恐ろしく思えた。
「(怒っているよな……流石のあいも)」
罵声を浴びせられ、暴力を振るわれ(これはないと思うが)、軽蔑されようとも俺は……償わないといけない。
1人の女に、深い心の傷をつけたのだから。
「(やはり俺は……)」
あの馬鹿親父と同じなのか。己の欲望ためなら、人を利用してまで叶えようとするあの親父と。
やはり逃げようのない現実なのか。
「(とにかく……ちゃんと目を見て謝ろう。……恐いけど)」
俯けた顔をゆっくりと上げていく。胸の辺りで少しの間、静止したが、覚悟を決め、完全に顔を向けた。
「え……」
俺はお前を騙した。
俺はお前を襲った。
俺はお前を汚そうとした。
なのに何故、そんな優しい眼をしている?卑怯な奴に対して、どうしてそんな眼をしていられる?
どこか恐れながら、俺はあいに問いた。あいはゆっくりと微笑み、柔かな口調で答えてくれた。
「信じていましたから」
何故そんなことが言える?その問いにも答えてくれた。
「結城さんだからです」
俺は何も言えなくなった。
「うう〜ん……お姉ちゃん……」
薄く、ちょうどお腹の部分だけを隠している布が、あおいの寝返りによって、誰もいない布団の上に被さる。
額に右手を当て、あおいが小さく呟く。
「いい加減、キャベツとレタスの違いを分かってよ……」
あいは微笑んでいた。全てを温かく包み込む春の陽射しのように。瞳は澄んでいた。
果てしなく続く、曇り無き青空のように。空には煌々と満月が輝いている。暖かい風が吹き込み、あいの髪が小さく揺れた。
「何があったかは知りません。でも、私は結城さんを信じています」
「……」
あいの言葉が、俺の心を奥深くまでえぐりこんでくる。胸が苦しくなる。
純粋な奴とは知っていた。たが普通、こんなに純粋でいられるものだろうか。
結城さんだからです──
どうして、俺をそこまで信用できる?俺はお前を襲った。汚そうとした。
そんな奴を何故?解らない自分に、そしてあいにさえ苛立ちを感じてしまう。
「俺はお前を襲った。そんな男を許せるのか?」
あいは迷わず縦に頷いた。その表情は、穏やかなものであった。
「嘘だ」
解っている。あいが嘘をつかないぐらい。でも、やはり信じられないのだ。
「本当はどこかで憎んでいるはずだ」
あいは無言で首を横に振った。自分の中の苛立ちがさらに募る。
「何故だ……」
声が怒りに震えている。怒るのは俺じゃない。本来怒るべきなのは、目の前にいるあいなのだ。
判っているが、感情を抑えることができない。
「何故、本当のことを言わないんだ……。言えよ、罵れよ、軽蔑しろよ!」
何を言っているのだろう。あいに怒鳴って何になる。傷つけようとしたのは俺なのに、何故俺がキレている。
自分が泣かしたのに、泣いた相手が悪いと言っている我が儘な子どもみたいじゃないか。
「俺は結城武久の息子なんだ!欲望を満たすためなら、手段を選ばない奴なんだよ!」
風が部屋を吹き抜ける。温かい風なはずなのに、妙に冷たく感じてしまう。あいは黙っている。
無表情だ。いい加減、呆れてしまったのだろう。頭を右手で抑え、畳に視線を落とした。気がつけば、涙がこぼれ落ちていた。
「俺は卑怯な奴なんだよ……。だから、ヒナや唯を救えなかったんだ……。そんな男を信用しないでくれ……」
弱音出てくる。涙が止まらない。決して、他人には見せたくない姿。特にあいには見せたくなかった。
見せれば、俺のイメージというものが崩れてしまうから。そうなれば、今までの関係も崩れてしまう。
大切な仲間を失くしたくない。唯に似た大切な仲間を。その一心だった。
「頼む……」
なのに、俺は弱さを見せてしまった。
「……」
あいとの関係も、目の前で砂城のごとく崩れ去ってしまった。絶望感が自分の周囲に漂っている。死んでしまいたい……。
「尚史さん」
名前を呼ばれ、視線をあいの方へ戻した。するとあいが近づき、優しく顔に手を当てる。そして顔を俺に近づける。
「……」
「……」
時間が止まる。2人だけの世界。涙眼で映る彼女は、誰よりも美しく、何よりも愛おしかった。
「うう〜ん……」
隣の布団の上で、非常に暑そうな表情を浮かべつつ、あおいが呟く。
「勝手にバストアップブラを使ったの謝るから、僕のプリンをぐちゃぐちゃに混ぜないで〜」
その表情には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「ふふ……」
眼の前にぼやけて映るあいの笑顔。後頭部から伝わる柔かで、優しい感触。
白魚のように細い指が俺の顔のラインをなぞる。くすぐったい。でも、それを言う気力も無い。
あれから俺はどれくらい泣いたのだろう。
どれくらい本音をぶつけたのだろう。
月は既に頂点を越えている。壁に時計はあるが、暗くて良く見えない。予想では1時を越えている……と思う。
迷惑をかけた。
俺を真上から見下ろしている彼女に。
「悪いな……」
ぽつりと出た言葉。あいは笑顔でそれを否定した。
「いいえ。私も悪いことをしましたから、おあいこです」
悪いこと?何かしたのだろうか。あいに尋ねてみた。あいの頬がほんのり赤く染まる。
「さっきのことですよ」
さっきのこと。当然、はっきりと覚えている。あれが悪いことになるのだろうか。……思い出したら、何か恥ずかしくなってきた。
「ふふ……顔が赤いですよ」
「うっ……」
バレバレだった。まさか、この俺が表情に出るなんて。ああ、あいが笑っている。さらに恥ずかしくなってきた。
「これじゃ、本当に子どもだな……」
右手で両眼を覆った。ぼやけて映っていたあいの顔が、指の間からところどころしか見えない。
すると、あいが俺の右手をゆっくりとどかし始めた。
「ダメですよ。これでは、私の顔が見えませんよ」
またあいが微笑んでいる。その微笑みが、俺には凄く大人に感じられた。いや、それだけじゃない。
俺が襲ったときも、泣いたときも、慌てず、焦らず、笑顔で対応していた。
1、2年生のときは、泣き虫で恥ずかしがり屋と思っていたのに、いつの間にこんなに大人になっていたのだろう。
ひょっとしたら、俺だけが気付かず、周りは気付いていたかもしれない。
「俺は変わらない……よな」
最近は丸くなったと思っていた。だが、それはやはり単なる幻覚にしか過ぎなかったみたいだ。
「尚史さん」
さっきどけた俺の右手をあいが優しく握り締めた。綿のように柔らかい感触が伝わってくる。心臓の鼓動が高鳴っていく。
「ど、どうした?」
冷静な俺が、焦っている。やはり、今の俺はどうかしているようだ。
「尚史さんも1人で辛かったんでしょうね」
そう言って、今度は頭を撫でられる。不思議とそれが心地よい。何故だろう。
「ふふ……寝てもいいんですよ」
「……」
あいは優しく俺の手を握ってくれている。温かい。こうやってくれる人は、いなかった気がする。
母親を早くに亡くして、心の支えとなっていた、ヒナと唯が死んで……。
俺が求めていたのは、もしかしたら誰かに抱擁されることだったかもしれない。
だから、一条あいが欲しかった──
温もりを与えてくれる彼女が──
「すまないな……」
うふふ、と笑って彼女はまた頭を撫でてくれた。
その心地よさが、さらに夢の世界へと自分を誘う。外では、煌々と月が輝いていた。
静まり返った部屋。聞こえるのは、虫の音色と少年の寝息だけ。少年の髪が揺れる。
夏の夜の温かい風に。少女が空を見上げる。少し切なそうな顔になる。そして、ゆっくりと眼を閉じた。
「おやすみなさい……尚史さん」
空には、満月が静かに鳴いていた。