第9章
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暗い。そりゃそうだ。電気をつけていないのだから。そこで眠っている尊なんか、目を懲らさないと見えないぐらいだ。

唯一の光といえば、空にぽっかりと浮かんだ満月ぐらいだ。散らばった星の中で、煌々しく輝いている。

昔から月は人をおかしくするということを聞いたことがある。

もしかしたら、いや間違いなく、それは今の俺に当て嵌まっていると言っていいか。

ヤメロ……

頭の中に、誰かの声が響く。冷静で、どこかで聞いたことあるような声だ。

だが、そんな小さな声では、今の俺には届かない。ここまで来てしまったのだから、もう後には退けない。

ヤメロ……

黙れ。俺に指図するな。

「結城……さん?」

あいは部屋を見渡している。俺を探しているのだろう。

表面化された黒い欲求が、俺の中でうごめいている。止めれない。止まらない。

ヤメロ……

頭に響くこの言葉を無視し、俺はただ己の欲望のための行動に移した。

「あい」

「あ、ゆう」

俺はそのまま、あいを押し倒した。









「う〜ん……お姉ちゃん……」

同じ容姿、同じ体型を持つ、双子の妹の一条あおい。布団は2つあるが、片方は誰も入っていない。

「僕が悪かったから、変なとこにムヒ塗るのやめて……」

姉のあいの夢を見ながら、一条あおいは小さく寝返りを打った。









「結城……さん?」

尚史は覆いかぶさるように、あいの上に乗っかかっていた。

あまりに突然の出来事に、あいはよく状況を飲み込めていない。だが、それを理解するのに10秒もいらなかった。

「(犯される……?)」

全員が寝静まっている。電気もついていない。そして部屋には、自分と尚史の2人だけ。そう思って間違いないだろう。

逃げないと。だが、力で敵わないあいが、尚史を退かすことなど不可能に等しい。

暴れても、今の尚史が、自分に何を仕出かすかわからない。だからといって、何もしないわけにはいかない。

「結城さん」

恐い。だが、この状況に臆していないような虚勢を張った。庭で鳴く虫の声が、自分の耳に入ってくる。

「……」

尚史に返事は無い。代わりに、自分の服に向かって腕を伸ばして来た。

「(結城さん……)」

あいは尚史の目を見た。あの冷たい、だがどこか優しさを感じるようなものではなかった。

ただ、欲望に塗れていた。泥のように濁った、自分を完全に見失っている、そんな目であった。

「(……)」

同時に尚史に対して、不思議と自分の中から恐怖感が薄れていくのがわかった。

覚悟した……というのとは少し違う。あいは目を閉じ、手を横に広げた。

「……」

あいの制服を限界までめくり上げる。ほっそりとしたライン、そして雪のような白い体があらわになる。やはり胸は小さかった。

「……」

心の中の黒い欲求が、さらに要求してくる。俺はあいのスカートをめくり上げた。

ヤメロ……

また頭の中で、声が響いた。胸から妙な痛みを感じたが、気のせいと思いたい。

「……」

真っ白で、無地の白い布があらわになった。黒い欲求がさらに活発化される。俺はそのまま、あいのそれに手を伸ばした。

ヤメロ……キズツケルナ……

伸ばした手が、自分の意志とは反して勝手に止まった。何かが、黒い欲求を抑えている。

誰の声だ?お前は誰だ?何故、俺を止めようとする?

「(俺は何なんだ?)」

その女を犯せ──

己の欲望をぶちまけろ──

黙れ。指図するな。言われなくとも、やるつもりだ。

ヤメロ……

煩い。お前が誰なのかは知らない。だが、この状況で止められるものか。

目の前に獲物がいるのに、ライオンに待てと言ってるのと同じだ。

ヤメロ……

「煩い!黙れ!」

両手で頭を抑えながら叫んでいた。それとは、別の声が頭の中にまた響き渡る。

お前は結城武久の息子──

無抵抗の人間を殺し、その血を浴びても、何とも思わず、平然といられる冷酷な人間なのだ──

……違う。馬鹿親父と同じではない。あんなに冷酷非道な人間ではない。

「……?」


ジャア、メノマエノソレハナンダ?


誰かが問い掛けて来た。自分の声によく似ていた。

「!」

尚史は慌てて手を引っ込め、あいから逃げるように離れた。

そして、自分の手に視線を落とし、今までやっていたことを思い返した。

「俺は……」

あいの乱れた服装が、それをやってしまった後悔感が自分の強く心を締め付けてくる。

男は女を守らなければならない。

球部内に留まらず、学校内でも可愛いと言われている。

頭も良い。

それを鼻にかけず、誰にでも優しい。

その笑顔は太陽に向かって穏やかに咲く向日葵のようで、誰もが癒される。

そんな良い奴を、俺は男の義務を放棄してまで汚そうとした。未遂とはいえ、それは決して許されることではない。

「あい……」

尚史の声に反応し、あいがゆっくりと目をあける。そしてこちらへ視線を向けてくる。

尚史はあいを直視することができず、視線を床に落とした。

「結城さん」

声はしっかりとしている。今の尚史にはそれが恐ろしく思えた。

「(怒っているよな……流石のあいも)」

罵声を浴びせられ、暴力を振るわれ(これはないと思うが)、軽蔑されようとも俺は……償わないといけない。

1人の女に、深い心の傷をつけたのだから。

「(やはり俺は……)」

あの馬鹿親父と同じなのか。己の欲望ためなら、人を利用してまで叶えようとするあの親父と。

やはり逃げようのない現実なのか。

「(とにかく……ちゃんと目を見て謝ろう。……恐いけど)」

俯けた顔をゆっくりと上げていく。胸の辺りで少しの間、静止したが、覚悟を決め、完全に顔を向けた。

「え……」

俺はお前を騙した。

俺はお前を襲った。

俺はお前を汚そうとした。

なのに何故、そんな優しい眼をしている?卑怯な奴に対して、どうしてそんな眼をしていられる?

どこか恐れながら、俺はあいに問いた。あいはゆっくりと微笑み、柔かな口調で答えてくれた。

「信じていましたから」

何故そんなことが言える?その問いにも答えてくれた。

「結城さんだからです」

俺は何も言えなくなった。









「うう〜ん……お姉ちゃん……」

薄く、ちょうどお腹の部分だけを隠している布が、あおいの寝返りによって、誰もいない布団の上に被さる。

額に右手を当て、あおいが小さく呟く。

「いい加減、キャベツとレタスの違いを分かってよ……」









あいは微笑んでいた。全てを温かく包み込む春の陽射しのように。瞳は澄んでいた。

果てしなく続く、曇り無き青空のように。空には煌々と満月が輝いている。暖かい風が吹き込み、あいの髪が小さく揺れた。

「何があったかは知りません。でも、私は結城さんを信じています」

「……」

あいの言葉が、俺の心を奥深くまでえぐりこんでくる。胸が苦しくなる。

純粋な奴とは知っていた。たが普通、こんなに純粋でいられるものだろうか。


結城さんだからです──


どうして、俺をそこまで信用できる?俺はお前を襲った。汚そうとした。

そんな奴を何故?解らない自分に、そしてあいにさえ苛立ちを感じてしまう。

「俺はお前を襲った。そんな男を許せるのか?」

あいは迷わず縦に頷いた。その表情は、穏やかなものであった。

「嘘だ」

解っている。あいが嘘をつかないぐらい。でも、やはり信じられないのだ。

「本当はどこかで憎んでいるはずだ」

あいは無言で首を横に振った。自分の中の苛立ちがさらに募る。

「何故だ……」

声が怒りに震えている。怒るのは俺じゃない。本来怒るべきなのは、目の前にいるあいなのだ。

判っているが、感情を抑えることができない。

「何故、本当のことを言わないんだ……。言えよ、罵れよ、軽蔑しろよ!

何を言っているのだろう。あいに怒鳴って何になる。傷つけようとしたのは俺なのに、何故俺がキレている。

自分が泣かしたのに、泣いた相手が悪いと言っている我が儘な子どもみたいじゃないか。

俺は結城武久の息子なんだ!欲望を満たすためなら、手段を選ばない奴なんだよ!

風が部屋を吹き抜ける。温かい風なはずなのに、妙に冷たく感じてしまう。あいは黙っている。

無表情だ。いい加減、呆れてしまったのだろう。頭を右手で抑え、畳に視線を落とした。気がつけば、涙がこぼれ落ちていた。

「俺は卑怯な奴なんだよ……。だから、ヒナや唯を救えなかったんだ……。そんな男を信用しないでくれ……」

弱音出てくる。涙が止まらない。決して、他人には見せたくない姿。特にあいには見せたくなかった。

見せれば、俺のイメージというものが崩れてしまうから。そうなれば、今までの関係も崩れてしまう。

大切な仲間を失くしたくない。唯に似た大切な仲間を。その一心だった。

「頼む……」

なのに、俺は弱さを見せてしまった。

「……」

あいとの関係も、目の前で砂城のごとく崩れ去ってしまった。絶望感が自分の周囲に漂っている。死んでしまいたい……。

「尚史さん」

名前を呼ばれ、視線をあいの方へ戻した。するとあいが近づき、優しく顔に手を当てる。そして顔を俺に近づける。

「……」

「……」

時間が止まる。2人だけの世界。涙眼で映る彼女は、誰よりも美しく、何よりも愛おしかった。









「うう〜ん……」

隣の布団の上で、非常に暑そうな表情を浮かべつつ、あおいが呟く。

「勝手にバストアップブラを使ったの謝るから、僕のプリンをぐちゃぐちゃに混ぜないで〜」

その表情には、うっすらと涙が浮かんでいた。









「ふふ……」

眼の前にぼやけて映るあいの笑顔。後頭部から伝わる柔かで、優しい感触。

白魚のように細い指が俺の顔のラインをなぞる。くすぐったい。でも、それを言う気力も無い。

あれから俺はどれくらい泣いたのだろう。

どれくらい本音をぶつけたのだろう。

月は既に頂点を越えている。壁に時計はあるが、暗くて良く見えない。予想では1時を越えている……と思う。

迷惑をかけた。

俺を真上から見下ろしている彼女に。

「悪いな……」

ぽつりと出た言葉。あいは笑顔でそれを否定した。

「いいえ。私も悪いことをしましたから、おあいこです」

悪いこと?何かしたのだろうか。あいに尋ねてみた。あいの頬がほんのり赤く染まる。

「さっきのことですよ」

さっきのこと。当然、はっきりと覚えている。あれが悪いことになるのだろうか。……思い出したら、何か恥ずかしくなってきた。

「ふふ……顔が赤いですよ」

「うっ……」

バレバレだった。まさか、この俺が表情に出るなんて。ああ、あいが笑っている。さらに恥ずかしくなってきた。

「これじゃ、本当に子どもだな……」

右手で両眼を覆った。ぼやけて映っていたあいの顔が、指の間からところどころしか見えない。

すると、あいが俺の右手をゆっくりとどかし始めた。

「ダメですよ。これでは、私の顔が見えませんよ」

またあいが微笑んでいる。その微笑みが、俺には凄く大人に感じられた。いや、それだけじゃない。

俺が襲ったときも、泣いたときも、慌てず、焦らず、笑顔で対応していた。

1、2年生のときは、泣き虫で恥ずかしがり屋と思っていたのに、いつの間にこんなに大人になっていたのだろう。

ひょっとしたら、俺だけが気付かず、周りは気付いていたかもしれない。

「俺は変わらない……よな」

最近は丸くなったと思っていた。だが、それはやはり単なる幻覚にしか過ぎなかったみたいだ。

「尚史さん」

さっきどけた俺の右手をあいが優しく握り締めた。綿のように柔らかい感触が伝わってくる。心臓の鼓動が高鳴っていく。

「ど、どうした?」

冷静な俺が、焦っている。やはり、今の俺はどうかしているようだ。

「尚史さんも1人で辛かったんでしょうね」

そう言って、今度は頭を撫でられる。不思議とそれが心地よい。何故だろう。

「ふふ……寝てもいいんですよ」

「……」

あいは優しく俺の手を握ってくれている。温かい。こうやってくれる人は、いなかった気がする。

母親を早くに亡くして、心の支えとなっていた、ヒナと唯が死んで……。

俺が求めていたのは、もしかしたら誰かに抱擁されることだったかもしれない。




だから、一条あいが欲しかった──




温もりを与えてくれる彼女が──







「すまないな……」

うふふ、と笑って彼女はまた頭を撫でてくれた。

その心地よさが、さらに夢の世界へと自分を誘う。外では、煌々と月が輝いていた。









静まり返った部屋。聞こえるのは、虫の音色と少年の寝息だけ。少年の髪が揺れる。

夏の夜の温かい風に。少女が空を見上げる。少し切なそうな顔になる。そして、ゆっくりと眼を閉じた。

「おやすみなさい……尚史さん」

空には、満月が静かに鳴いていた。




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