穏やかな風が私の髪を揺らす。山の稜線に向かって、太陽が傾き始めている。景色はオレンジ一色の光に包まれていた。
懐かしい──
真ん中に立つ桜の木。色の剥げたジャングルジム。完全に鎖が錆び付いてしまっているブランコ。
夕方頃になれば、この辺り一帯は人通りが絶えてしまうこの公園。今でも覚えている。
ある少年と初めて出会った場所──
2度とこの場所に訪れることは出来ないはずだった。何故なら、今は無き公園なのだ。
ちなみに後地として、今は駐車場となり、桜の木は別の場所に植え変えられたそうだ。
何故、自分がここに?──
何故、桜が咲いている?──
判らない。考えても、答えなど見つかるはずがない。ただ、ラッキーと思っていい。
もう一度、この思い出の場所に来ることが出来たのだから。私は歩き出す。あの桜の木に向かって。
桜は何よりも儚い。それを自分に例えてしまうときがある──
確かに私は、神城のエースで、ノーヒットノーランを達成している。
3番を打ってるし、甲子園でも春夏合わせて、2本のホームランを打っている。プロも夢ではない。
私が男であれば──
女性プロは、これまでに5人生まれている。有名なのは、高卒ルーキーながら、ローカルズの勝ち頭として活躍中の夏目汀。
そして、私と同じ苗字の女性プロ第一号の一条つかさ。他の3人も活躍はしたものの、実働期間は大体6年ほど。
理由は簡単。男と比べ、女は体力の衰えが早いから。たとえ、ルーキーから華々しく活躍しても、早々と散ってしまう。
桜は女性プロ選手の象徴と言っていいかもしれない。
私はあと何年、野球が出来るだろうか──
もしかしたら、衰えの魔の手はすぐそこまで来ているのかもしれない。そう思うと、背筋が寒くなる。何より、辛くなる。
「お姉ちゃんも桜が好きなの?」
「え?」
隣の小さな女の子がいきなり私に話し掛けてきた。いつの間にいたのだろうか。
「好きじゃないの?」
そう言って、女の子の表情が悲しそうになる。私はそれに焦らず、笑顔で答える。
「好きだよ。とってもね」
深く意味を考えなければ、桜というものは好きだ。それは嘘ではない。
「私も好きだよ。ずっと咲いてたらいいのにね」
女の子が無邪気に笑う。桜の花びらが、温かな風によって運ばれていく。
「桜は散っちゃうから、綺麗なんだよ」
「どうして?」
不思議そうな表情で、首を傾げる女の子。頭のおさげが小さく揺れている。
「ずっと咲いてたら不気味でしょ。それに、飽きちゃうし」
女の子は黙ったまま、つぶらな瞳でこちらを見上げている。やはり小さい娘は可愛いと思う。
「人や花、生命はね、終わりがあるからこそ、いいんだよ。」
そこでハッと気付いた。私に言えることではないかと。桜だって、満開の期間が短いうえ、散るときは儚い。
桜は動くことは出来ない。だが、私は動ける。したいことが出来る。咲いている間は、何でも出来る。
たとえ短い期間でも、悔いの残らぬように頑張れるはずなのだ。いや、短い期間だからこそなのかもしれない。
「……判らないよね、こんな話」
「うん……判んないや。ごめんね、お姉ちゃん」
「気にしなくていいよ。いずれ判ると思うから」
そう言って私は、女の子の頭を軽く撫でてやった。女の子は静かに微笑み、視線を桜の方に向けた。
「ありがとうね」
私は女の子に聞こえないように、小さく呟いた。
「ん……」
雀が楽しそうに鳴いている。窓から差し込んで来る朝日が眩しい。眠気が妨げられる。何より、暑い。
「……起きるか」
上体をゆっくりと起こし、右腕を頭の後ろへ回し、左肘を掴んだ。
そして、左腕と背中を大きく伸ばした。網戸から、新鮮な朝の空気が入ってくる。
「おはようございます」
「おは……」
新鮮な空気が、急激に冷えて固まったような気がした。
眼を覚ますと、木製の天井が映った。外では、雀が楽しそうに鳴いている。
布団から上半身を起こし、寝ぼけた頭が活動し始めるのを待った。
「……」
眼はまだ開け切っていないが、脳は活動し始めている。ゆっくりと立ち上がり、汗でやや濡れたTシャツを脱ぎ始めた。
「眠い……。ここが家だったら、昼まで寝るのに……」
ぶつくさと文句を言いつつ、制服のファスナーを引き上げ、スカートに足を通した。
別の部屋から時計が鳴った。ちょうど7時になったことが判る。靴下を穿き、あおいは鏡台の前に座った。
「性格はともかく……ほんと、お姉ちゃんとそっくりよね〜」
双子なので、当たり前のことだけど。
そんな生まれたときから判っていることを自分に突っ込みつつ、ポケットから髪を束ねるためのゴムを取り出した。
「んしょ……」
それを使って、慣れた手つきで、後ろ髪を束ねていく。いつも通りのポニーテール。
時々、姉は自分と似たような髪型にするが、基本的にストレートだ。
もし、自分が姉みたいにストレートでいれば、見分けがつかなくなるだろう。
「そっくりよね……容姿だけは……」
家事ができ、勉強もでき、運動も出来る。異性からだけでなく、同性からも人気が高い。
そんな姉と瓜二つな自分が、鏡の向こうに映っている。野球しか出来ない不器用な自分が。そんな自分が、たまに嫌になる。
「(異性は仕方がないにしろ、同性からも好かれないからね……。辛いといえば、辛い)」
入学当初、可愛い双子の姉妹と騒がれていたあの頃が懐かしい。
今では、異性には暴力女、同性にはとっつきにくい女……との評判らしい。
実際、生意気とかそんな理由で、いきなり喧嘩をふっかけられたことがある。
同じ容姿なのに、こうも違うと、ある意味笑えてくる。いや、笑うしかない。
「(中学のときもそうだった。僕みたいなのは、初めから……)」
そこで考えることを止めた。もう、どうにもならないことだから。
高校生になっても結局、何も変わらなかった。あまりの自分の成長のなさに、ため息すら出てこない。
「……って、性に合わないことを長々と考えてたわね」
誰かさんに影響されてしまったのか、単に弱気になっているのか。おそらく両方だろう。そう思うと、何か空しくなる。
「──の部屋でもいくかな。たぶん起きてるだろうし」
自分の頬を軽く叩き、椅子からゆっくりと立ち上がった。雀はまだ楽しそうに、鳴いていた。
眼の前に映るとんでもない現実。どんな肝が座っている男でも、これに驚かない奴はいない。
だってそうだろう。あいの腹が極端に膨れ上がっているのだから。
「えっと……なんていうか、その……」
「どうしましょう」
そんな微笑みながら言われても……。いや、まあ落ち着け。一晩でこんなになるはずがない。
というより、それらしいことはしてないので、まず腹が膨れる時点でおかしい。
「お前、腹に何を……」
その刹那、後ろからドアが開くような音が聞こえた。
恐らく、いや絶対にこの光景を見れば、誤解されるはず。特に彼女なんかには……。
「お姉ちゃん……?」
背筋が一瞬にして凍りついた。そりゃもう、カチカチに。とりあえず、視線を腹からあいに戻す。
さっきまで微笑んでいたはずなのに、いつの間にか、悲しみの涙を流している。俺には判る。間違いなく、嘘泣きだ。
この状況を楽しんでやがる!
だが彼女、則ち、あおいちゃんの眼には、俺が悪いとしか映っていないはずだ。
となると、間違いなく死が待っている。早く弁解せねば。ああ……前回までのシリアスな俺はどこへ……。
「とりあえず、話を」
「死ね!この強姦魔!」
弁解の余地すら与えてくれなかった。彼女の回し蹴りが頭に直撃し、勢いよく真横にぶっ飛び、壁に頭をぶつけた。
頭の上で、鳥や星が回っていた。
尚史達の旅館から少し離れた甲子園球場。太陽は既に頂点に達し、この日の気温の最高を迎えていた。
「あと少しですね、先輩」
「そうね。あと1回勝てば神城高校と……クックック……」
怪しげな笑みを浮かべ、不気味に笑い出す少女。そして、その様子に焦る少年。
「待ってなさいよ!一条あおい!」
少女の叫びは、灼熱のグラウンドの彼方にまで響いていった。