『天使のココロ』




















◆プロローグ




















 日本球界には、二つの独立した野球リーグがあった。

 サンライト・リーグとムーン・リーグ。創立から六十年以上を数える、伝統あるスポーツリーグである。

 そこでは様々なドラマが生まれ、時には笑いを呼び、涙を呼んだ。

 そして、たくさんの選手が数多くのドラマを作り、たくさんの選手が引退した。

 大記録を樹立する者もいれば、ひっそりと姿を消す者もいる。  そんな繰り返しは、延々と続く。過去から、未来へと、まっすぐに続いてゆく。

  この物語は、その繰り返しの一時代。

 ムーン・リーグに所属する弱小球団、桐島エンジェルハーツを舞台にした物語である――。









































「……」

 大学野球の名門、関東最強を誇る鳴瀧大学のアリーナ。

その一角に拵えられた席に、橘一騎は一人の友人と共に、学長や野球部の監督に挟まれるようにして座っていた。

 目の前には報道陣や、野球部の仲間達、同じ大学の生徒などがひしめき合っている。

いくら何でも集まりすぎだろう、と、一騎は人知れず嘆息した。

 だが、彼のその思いは少しずれていると言わざるを得ない。

 何故なら彼、橘一騎は、鳴瀧大学野球部が誇る名選手なのだ。

 陸鳴六大学リーグと呼ばれる、大学野球リーグの最高峰。

それに所属する母校、鳴瀧大学を、前期日程優勝、後期日程優勝、文句なしの総合優勝へと導いたのは誰がなんと言おうと彼なのである。

 今日のドラフト会議での指名は確実と言われており、それ故にここまで人が集まっていた。

 ちなみに余談ではあるが、彼のその甘いマスクに釣られた女子生徒も少なからず――というよりは殆ど――いた。

「緊張してんのか?」

「……まあ、ね」

 一騎の隣に座るのは、三番四番と、彼と共にクリーンナップの一角を任されていた親友、羽田野政志であった。

 三番に一騎、四番に羽田野、五番に彼らの後輩である清水優が並ぶクリーンナップは、鳴瀧大学史上最強の布陣とまで称される。

 チームの大会通算本塁打は24本。その内の19本は、全て彼ら三人が叩きだしたものなのだ。

「橘らしくもないな。甲子園でだって涼しい顔してサヨナラヒット打った癖に」

「お前はいつもその話を蒸し返すな……」

 ニヤリと笑って、羽田野が皮肉を込めた口調で言った。

二人は高校時代も同じチームでプレイしており、そして打順も今と変わらなかったのである。

 自分に打順が回る前に試合を決めてしまった一騎に対し、羽田野はことある事にこの話を蒸し返す。

やはり彼なりに悔しいところがあるのであろう。

 それでも二人は良いコンビだった。高校時代から同じ釜の飯を食べ、今まで切磋琢磨してきた仲なのだ。

 だが、それも来年からはきっと変わる。お互いプロの舞台へと進み、そして今度相対する時は敵同士――。

「……なぁ、羽田野」

「なんだ?」

「負けないよ、絶対に」

「へっ、上等」

 二人は顔を見合わせて笑い、拳をぶつけあった。









































 その日、ドラフト会議の行なわれる帝都グランドホテルの大ホールは、

各球団の監督や関係者、報道陣、そして観覧者たちで一杯になっていた。

 なぜならば、今年の新人は非常に注目すべき選手が多いからである。

 陸鳴六大学リーグと呼ばれる大学野球リーグの最高峰で、チームの看板としてその実力を発揮した選手のほとんどが、

来年三月に卒業を予定している――つまり、ドラフト会議にて指名される権利を持つ――のだ。

 今年、リーグにて総合優勝を成し遂げた鳴瀧大学の四番でリーグ屈指のスラッガー羽田野、ラインドライブヒッターこと橘、

陸鶯学院大学が誇る名捕手唐澤、チームの中継ぎエース、そして勝利の女神とも喩えられる宝崎。

 竜泉大学の核弾頭速水、明華大学の豪腕、石田……等々。その実力は折り紙付きであり、即戦力として期待される者ばかりである。

 大学選手ばかり目立つが、高校も社会人も負けてはいない。

 とにかく、今年は全体的に質の高い選手が勢揃いしているのだ。

各球団、このドラフトにかける意気込みは並々ならぬものがある。

 特に、前年度に記録的大敗――まさかのシーズン100敗――を喫し、

ぶっちぎり最下位を決めたムーン・リーグのお荷物球団こと桐島エンジェルハーツは、

このドラフトに来期の望みを見いだすほか無かった。

 ハーツは、とにかく選手層が薄い事で有名である。

 大豊作と呼ばれるこの年で層の薄い戦力を補強、来期こそはBチーム内でもまともな戦いを見せる――、

というのが首脳陣の思惑であるが、負け犬根性が染みついている辺りもうダメかも知れない。

「……うーん」

 円卓が配置された会場。その内の一つに腰掛けたハーツの監督、

仲道学は今更ながらに自分の選択が正しかったのかどうか自信を持てずにいた。

 一昨年にハーツでの選手としての生活を終えた彼は、まだ四十路前半の若輩であり、

周りの貫禄ある監督達――自分が野球少年だった時に憧れていた選手達でもある――の雰囲気に呑まれそうになっている。

今年で二回目だが、まだこの雰囲気には慣れない。

「……シャキッとしろシャキッと……うぅむ」

 自分に言い聞かせるように短く呟く仲道の姿に、隣に座るGMはため息を吐いた。

「監督、二人で決めたじゃないですか。一位は橘だって」

「いや、そうだけど……、どう考えても競合だよなぁ……?」

「でしょうね。でも大丈夫、監督、運だけはあるじゃないですか」

 あまり慰めになっていない言葉をしれっと吐くGMだが、仲道はそれで少し元気を取り戻したらしい。

「そうだよな」と頷き、ニコニコと笑みを見せた。

 この切り替えの早さは色々重要であろう。連敗した時とか、特に。

「それではこれより、第五十回新人選手選択会議を開始します」

 アナウンスが入り、会場にはぴんとした空気が張った。いよいよ始まるのだ。

 豊作の年、でっぷり育った果実を収穫する時がやってきた。

 ホール中央の巨大スクリーンに、計十二球団のロゴが表示される。

 ハーツは最下位のため、一番目の指名となる。

 少しの間の後、アナウンスが入った。

「第一次選択希望選手、桐島エンジェルハーツ、橘一騎、外野手、鳴瀧」

 ハーツの指名は、この年、総合力においては一番高いと言われている橘だ。

 競合は確実に起こるだろう。果たして交渉権を獲得できるか否か。それは全て、監督である仲道の手に託された。









































 ドラフト会議の中継が、アリーナに設置されたモニターに映る。

 いきなり指名された一騎に対して、羽田野は笑顔で彼の肩を叩いた。

「やったな橘」

「あ、ああ……。まさかいきなりとは……」

 自分が始めに指名されるとは考えていなかったのだろう。少し面食らった表情で、一騎は報道陣のフラッシュを浴びていた。

 ハーツに次いで、サンライト・リーグ最下位のハウンズが唐澤を指名する。

「羽田野、大丈夫。指名されるよ」

「馬鹿、心配なんかしてないって。俺が指名されないわけ無いだろ」

 この自信は、全て羽田野自身の努力とその力に裏付けされたものである。

 とはいえ、一騎はここまで豪語できる羽田野の胆力に感嘆した。 

 やはり四番という大役を任されているだけはある。

「って、指名されたよ羽田野」

「マジで?」

 モニターに目をやった羽田野は、中堅どころのギガンテスが自分を指名した事を知った。

ギガンテスと言えば打高投低のチーム。肌には合いそうだが、だがしかし……、

「俺は昔っからパイレーツファンだからな!」

「パイレーツか……」

 T・Tパイレーツ。現在ムーン・リーグ最強の球団で、最近は四季連続リーグ優勝、内日本一を三回経験している常勝球団である。

 選手層も厚く、球界でも指折りのスター選手が集う事で知られている。

「パイレーツはきっと俺を指名するぜ」

「自信満々だな」

 なんだかんだ言って、残すはパイレーツとサンライト・リーグの覇者、ファルコンズのみである。

ちなみに一騎はハーツだけでなく、もう二球団に指名されていた。

『第一次選択希望選手、トラディショナル・トレードパイレーツ、羽田野政志、内野手、鳴瀧』

「来た! ほれ見ろ」

「凄いな……」

 感心する一騎を余所に、最終指名のファルコンズが竜泉大の速水を指名し、各球団の第一巡が終了した。

(……あれ?)

 そこで一騎は、微かな違和感を覚えた。

 モニターに映る自分の名前や、親友羽田野の名前、そしてリーグ戦を戦い抜いたライバル達の名前。

 そのどれもが指名確実と呼ばれていた者で、お互いにしのぎを削ってきた者たちだ。

 しかし、何かが足りなかった。何が――、足りない?

  首を傾げ考え、そして一騎はようやく一つの答えに辿り着いた。

「……宝崎が指名されてないんだ」









































 ところ変わって。

 文武両道をその理念として掲げる、伝統ある大学――陸鶯学院大学、通称陸大――の講堂に設営された席に、

件の宝崎恋歌は大学四年間の女房役、唐澤光明と共に腰掛けていた。

 モニターから映る中継はちょうど、各球団が一位指名を終えた事を告げている。だがそこに、恋歌の名前はない。

 今年のドラフトは豊作であると先ほど述べたが、その中でも恋歌はトップクラスの選手と言えよう。

 彼女は今年の陸鳴六大学リーグ前期日程全五試合で計4ホールド、後期日程に至っては全五試合で5ホールドを記録している。

 非常に優れた中継ぎ投手なのである。だが、それでも彼女の名は呼ばれなかった。

「……」

 モニターを静かに見つめる恋歌は努めて平静を装っていたものの、

隣に腰掛ける相棒唐澤は、彼女が間違いなく意気消沈している事が手に取るようにわかった。

「……宝崎」

「大丈夫です。私がそんなにヤワじゃないことは、あなたが一番知っているでしょう?」

 心配そうな声音を出す唐澤に微笑み、恋歌はまた視線をモニターへと戻す。

 贅沢な話ではあるだろうが、指名されるのであればやはり一巡目で、堂々と指名されたかったというのが恋歌の本音である。

 しかし、希望が、自身の夢への道が潰えているわけではないのだ。

 彼女の最終的な目標は、そう――、

(橘……)

 ぎり、と恋歌は奥歯を強く噛みしめた。中継では、ハーツの仲道監督が情けない顔つきでくじの結果を確かめている。

『おっと、ハーツの仲道監督、天に向かってガッツポーズです。流石は勝ち運男、ここでも持ち前の運を発揮しました』

 アナウンサーが、ハーツが一騎との交渉権を手に入れた事を告げた。

(ハーツですか。……そう、それならば、彼と正々堂々、決着を――)

 かつて短い間、共にプレーした男の顔を脳裏に浮かべ、恋歌は静かに瞳を閉じた。

 自分がここまでやれたのは、プロになりたい一心と、彼への敵愾心があったからこそ。

 大学では僅差ながらも敗北を喫した。だから、プロでは……、必ず、彼を――。




















『第二次選択希望選手、桐島エンジェルハーツ、宝崎恋歌、投手、陸鶯学院』

 そう、改めて決意した直後の指名だった。

「やったな宝崎!」

 隣の唐澤が、我が事のように喜んでくれる。それは、恋歌にはとても嬉しい事であったが……。

「……ハーツ……」

 ハーツは自分を指名した。ウェーバー方式が取られているので、自分に競合は起こらない。

 つまりそれはハーツが独占交渉権を得たという事であり、同時にハーツは橘一騎との交渉権をも得ていた。

「……まさか、こんな事になるなんて……、ふふ」

「宝崎?」

「……また、同じチームですか……、橘」

 小さく、しかし冷たく呟いた宝崎に、数多くのフラッシュが襲いかかる。

 閃光の中彼女は瞳を閉じていたが、「指名おめでとうございます」という

記者の言葉によって、自分が夢を叶えた事にようやく気がついた。




















 そしてこれから二週間の後、ハーツは指名した全選手との契約を終える。

 ここからが、本当の勝負となるのだ。









































 弱小球団、桐島エンジェルハーツ。

 シーズン100敗の雪辱を晴らすため、ハーツは進む。

 目指せ最下位脱却、出来ればAチーム。

 負け犬根性が染みついたこのチームを、一騎は、恋歌は、他の選手は変える事が出来るのか。

 そして、一騎と恋歌の間にある過去とは一体?




















 第一話へ続く




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