しなやかなアンダースローから放たれた球は綺麗な球道を描きミットに収まる。

それを受けたメガネ・・・矢部明雄は思わず感嘆の声を漏らした。


「すごいでやんすすごいでやんす!この球絶対120キロは出てるでやんすよ!」


近年アンダースローと呼ばれる投手は激減した。

そして数少ないアンダースローでもアンダーとサイドの中間のような投球フォームの場合が多い。

しかし、緑髪の彼女・・・早川あおいの場合は違った。

地面スレスレから投げ込まれるアンダースローはまさにサブマリンと言った感じだった。

プロ野球の世界には同じくサブマリンと呼ばれる投手、渡辺俊介が居る。

彼の球のMAXが130前後であることを考えると女性で120キロというのが如何に驚異的かが伺える。


「じゃあ次、行くよ」


あおいはもう一度体を沈め、地面スレスレからボールを放る。

今度は矢部のミットに吸い込まれたかと思うとその直前でボールは大きく沈み、

そして矢部のミットを弾いて転々と後ろへと転がっていった。


「あっ、ごめん、矢部君」

「なんであおいちゃんが謝るんでやんすか!」


これで何回目だろう。何度やってもあのシンカーを捕ることが出来ない。

矢部は野球経験者だがキャッチャー経験者ではない。彼は本来外野手なのだ。


「でも、この問題は深刻だよ。僕のボールを捕ってくれるキャッチャーが居ないととても試合なんて・・・」


確かにあおいの言うとおりだった。キャッチャーがピッチャーのボールを獲れない野球部なんて聞いたことが無い。

しかもこの恋恋高校は男子の数が極端に少なく、部員を集めることすら容易ではなかった。


「片桐君がもし部に入ってくれてもピッチャーでやんすし・・・」


野球愛好会はここへ来て行き詰っていた。正直たった2人(とマネージャー1人)では

やれることに限界があるのは目に見えているからだ。何らかの妥協策を講じようにも明確な手段が無い。


「やっぱり、こんなところで野球部なんて・・・」


あおいがぽろりと口にしたその台詞は、現状を端的に表しているものだった。



















PHASE-02 成すべき事



















丁度それと同時刻。恋恋高校の校門あたりに1人の男が居た。

中年くらいの男性で紺色のニット帽をかぶりツンツンと横に跳ねた髪、明らかに怪しい風貌。

ここが元女子校だということを考えるとどう考えてもただの変態だろう。

だが、この男は変質者でも何でもなかった。


「ん?あれは野球の練習か?ここは恋恋高校じゃ・・・  確かに恋恋高校だ。おかしいな、女子校だったはずでは?」


男は持っていたノートをぺらぺらとめくっていく。そして神奈川県のページを見つけると

そこに書いてある細かな文字を読んで言った。すると。


「なんと、今年度から共学になっていたのか!知らなかった、私としたことが」


しかし、野球部にしてはあまりに人が少ない。確認できる限りではたったの2人しか居ないじゃないか。

少し誰かに聞いてみる必要がありそうだ。

男は手近に誰か居ないかと探す。女の子は怪しまれるといけないので男子生徒に標的を絞って・・・

そこで彼は信じられない光景を目にした。こんな学校で、あんな見知った男と出くわすとは。

男は急いでその男子生徒の元へ寄っていく。


「片桐君、片桐君だろう?私だ、影山だ!」


年甲斐も無く必死になって大声で叫んでしまった。片桐と呼ばれた男は足を止めると、

くるりとこちら側を振り向いた。そして自分の後頭部をかくとバツの悪そうな顔で。


「・・・なんだって俺は野球と縁が切れないのかな」


それは彼の本心だった。影山はその言葉を聞いて彼の今の心境を十分理解できた。

影山はすべて知っている。彼が中学時代2度全国制覇した将来のドラフト候補だったことも、

利き腕の左腕を壊してもうピッチャーとして再起不能になってしまったことも。

それをずっと見守ってきたのは他ならぬ自分なのだから。


「・・・悩んでいるのか?」

「別に、悩んでなんて・・・」


片桐はそういって僅かにうつむく。別に悩んでるわけじゃない。いや、自分にそう言い聞かせているだけなのかも知れない。

悩んでいるのに悩んでいない振りをしている・・・彼の心境を端的に表すならそんな言葉がぴったり似合った。

影山は考えた。今ならこの悩んでいる青年に何か道を示してあげることができるのではないかと。


「もし、君が嫌でないのなら・・・少し、私と話さないか?」


この一見怪しい男の名前は影山秀路。某プロ野球球団の関東地区高校生担当の

スカウトであり、片桐大介を中学時代から追いかけてきた男だった。



















「そうか、恋恋でも野球部がな。君にとっては辛いことだろう」

「・・・別に、だからって他人の邪魔をするような馬鹿な真似はしませんよ。そこまで腐ってない」


彼ら2人は河原の河川敷で夕日を眺めていた。片桐は恋恋に入学してからの事を

いつの間にか影山にしゃべっていた。なんでだろう?この人になら何でも話せそうな気がする。


「片桐君、君は野球を嫌いになってしまったのか?」

「・・・」


難しい質問だった。嫌いになった・・・そうといわれればそうかもしれないし

違うといわれれば違うかもしれない。どうなんだろう、俺の中で、野球は・・・


「分かりません。俺の中でその結論はまだ・・・」


影山はむう、と困った表情をすると手に持っていた手帳をポケットの中に仕舞い込んで

夕日を見た。忘れもしない、この河原の河川敷球場・・・


「片桐君。前にも言ったと思うが我が球団は君を野手としても高く評価している。特にバッティングをだ」

「・・・だから右投げに転向して打者としてやれって言うんでしょう?俺はそれは嫌だって以前・・・」

「君がピッチャーとしての拘りを持っているのは十分分かっている。だがそんな事で君は野球を本当に諦められるのか?」


片桐は黙り込む。本当に野球を諦め切れるのか・・・分からない。

もう何がなんだか分からなかった。自分がどうしたいのか、これからどうするのかも。

どうして俺だけがこんな目に合わなきゃならないんだ・・・!

今まで何度も自問自答してきたことをまた考える。俺はいつもこうだ。1人で悩んで、他人を寄せ付けず・・・


「私は恋恋で、今日ここで君に会えたのは運命だと思ってる。この河川敷、覚えているか?

 初めて君を見た河川敷の野球場だ。あの時の衝撃は今でも忘れられない」


片桐は何も返さない。影山さんが何を言いたいのかも十分分かる。

だからって俺にどうしろって言うんだ。あの部員がたった2人しか居ない野球部に

入れって言うのか?そんなことしてなんになる。恋恋を選んだ時点で、俺は・・・



















「ああもう!うじうじとした奴だ!引っ叩いてやる!!」

「お、お嬢様聞こえてしまいますよ?」

「離せ愛梨!覚悟の上だ!」


影山と片桐の後ろからそんな声が聞こえてきた。振り向くと小さな女の子が

もう1人の女の子に押さえつけられているところだった。この制服はまさか・・・恋恋の生徒か?


「あー、君たちは?」


影山がごほんと咳払いをする。明らかに状況を飲み込めていない様子だ。


「私たちはただの通りすがりだ!お前!そこの男の腐ったような奴だ!」


かなえがびしっと指差した先に居たのはもちろん片桐だった。

片桐も影山同様何が起きているのかまったく理解できていない様子。


「お前はあの野球部を見なかったのか!?女の子が困ってるんだぞ!?

 それを助けられなくて何が男だ!恥ずかしいとは思わんのか!!ええっ!?」


マシンガンのように次から次へと片桐に罵声を浴びせるかなえ。 片桐と影山はそれを呆然と見ていることしか出来なかった。


「ふ、ふふ・・・あっはっはっは!」


最初に声を上げたのは影山だった。それも大笑いしている。


「女の子を助ける、か。お嬢ちゃん、面白いこと言うねえ」

「なんだこのおっさんは?不審者か?通報するぞ」


傍若無人な振る舞いを続けるかなえにそれを見てもなおニコニコと笑っている愛梨。

そしてそれでも大笑いしている影山。


「・・・なんだ、俺が悩んでるのが馬鹿みたいじゃないか」


片桐はようやく肩の荷が下りたようにそう呟いた。なんだか笑いがこみ上げてくる。

今まで1人で悩んでいた自分をあざ笑うかのような笑いが。


「馬鹿?大馬鹿の間違いだろ?」


にやりと笑うようにして言うかなえ。片桐もそれを見て笑い返した。

片桐は今まで座っていた重い腰を上げると、ぱんぱんと尻を叩いて芝を落とした。


「影山さん、俺もう1回やってみます。野手として・・・

 ドラフトに指名されるようこの学校のあのオンボロ野球部で頑張ってみます」

「・・・そうか。それが君が選んだ道なんだな」


影山はそう言うと踵を返した。どうやら、ここまで来た事は決して無駄足では

なかったらしい。この少年がどこまでやれるか・・・自分自身でも楽しみだった。


「あの、影山さん。ありがとうございました。それとアンタらも・・・」


さっきの女の子たちにお礼を言おうとしたが彼女たちは既にそこには居らず、

忽然と姿を消していた。いったいあの子達はなんだったんだろうか?

ただ、悪い連中ではなさそうだった。恋恋の生徒みたいだったし、今度会ったらお礼の一つでもしておこう。


「なに、私は感謝されるようなことはしてないよ。ただ」

「ただ?」

「これから夢を追う少年に1つ良い事を教えてあげよう」


こちらを振り向いた影山は持っていた手帳をまたぺらぺらとめくり始める。

その1ページで手を止めるとこちらをにやりと笑うように見やった。


「加納君だが来月行われる1軍入れ替えテストの結果次第では1軍入りだそうだ」

「っ!」


加納。その名前を聞いた途端片桐の顔つきが変わった。忘れもしない。

忘れることなんて出来ないあいつの顔。そして本当なら一緒に行くはずだった

学校で結果を出しているあいつ。不思議な感覚が体を突き抜けた。

気づくと影山もその場から立ち去っていた。片桐は沈みかけている太陽を一瞥すると

勢い良く走り始めた。これから俺がすべき事、望む事、すること。もう分かりきっていた。









「俺を野球部に入れてくれ!」









未だ必死に練習を続けている2人を捕まえてそう伝える事は大して難しいことではなかった。

2人は何のためらいも無く片桐を受け入れてくれた。片桐はそれがたまらなく嬉しかった。この野球部でなら・・・

いや、この野球部でもう1度夢を追いかけてみたい。1度捨てた夢をもう1度つかんでみたい。

そんな気持ちでいっぱいになった。きっと矢部も、そしてこの緑髪の女の子も俺と同じ気持ちだ、片桐はそう思った。

部としての活動を認められるギリギリの人数である3人の部員に、設備も何も無いグラウンド。たった1人のマネージャー。




だが、恋恋高校野球愛好会は今日確かに発足した。




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