薄暗い自室。明かりといえば机の上のライトが1つ付いているだけ。
コンコン、というドアをノックする音にかなえはノートに走らせていたペンを止める。
軽く返事をするとがちゃ、とドアを開けて愛梨が入ってきた。その手には紅茶のカップとポットが乗せられたトレイが。
「お嬢様、そろそろ休憩なさってはいかがでしょう?」
「ん・・・ああ、もうこんな時間か」
時計を見るともう日付が変わっていた。昔から集中力がある、とまわりから言われていたのだが
もう1つ、何か始めると周りが見えなくなるとも言われていた。要するに物は言い様だ。
「どうですか、お調子は」
「んん、今日は何か集中できるな」
人助けした後は気持ちが良いのかも、と思ったがそれは口に出さないでおいた。
しかし、人助けしたは良いがまさか最後の最後にあんな"おまけ"が来るとは思わなかった。
「・・・お嬢様」
ポットから紅茶をカップに注ぎながら愛梨が切り出した。大体何を言うのかは想像が付く。
紅茶をことん、とかなえのノートの横に差し出した。
「どうするおつもりですか?あの事」
「んー、まあ明日1日あるわけだしゆっくり考えてみる。愛梨は・・・」
「わたくしはお嬢様がお決めになったことなら」
そう言うと思った。だが、実のところ愛梨はどう思っているんだろう。
変なことに首を突っ込んで・・・とか、そんなことを思ってるんじゃないだろうか。
まあ、彼女に限ってそんなことはないか。ずっと一緒に居たんだからそれだけは確信できる。
それより目下の問題は今手をつけている勉強でもなく、その"懸案事項"だった。
「私に野球部の監督をやってくれ、ねぇ・・・」
PHASE-05 マイナス1
学校へ登校するとまず綾乃の様子を見ることにした。昨日あんな事になってしまって一応すまなかったという気持ちもある。
綾乃の席へ向かうと、彼女はかなえの顔を見てツン、とそっぽを向いてしまった。かなえははぁ、とため息をつく。
「昨日の事、怒ってるのか?」
「当たり前です。あなた、わたくしに何の恨みがありますの?」
そう思われても仕方ないと思っていた。正直綾乃には何の恨みもないし野球愛好会に義理もない。
でも。あの状況でかなえはああすることしかできなかった。
なぜだかは分からないが、とにかくこうなってしまったんだからどうしようもない。
「そういうんじゃなくてほら・・・何か放っておけなくなることってあるじゃないか、機嫌直してくれよ」
「ふん、もうあなたと話すことなんてありませんわ」
そういうと綾乃はかなえの顔を見ずに席を立つと、すたすたと廊下の方へと歩いていってしまった。
・・・ある程度覚悟していたとはいえ実際にああいう態度をとられるとキツいものがある。
綾乃の神経を逆なでしてあんな事になってしまったんだから原因は自分にある、そんなことは分かっていた。
でも、今までずっと親友のように接してきたのに・・・少しさびしいものがあった。
かなえはどうしたもんか、とため息をつくと後頭部をかいて天を仰いだ。
「頼む、来週の試合までで良いんだ」
「そ、そんなこと言われても俺野球なんて・・・」
「いやその辺は心配しなくて良い。こっちでどうにかするから」
翌日。野球愛好会の面々は早速部員集めに奔走していた。何とかあと6人。
来週の試合前にあと6人集めなくてはならない。みんな必死だった。
頑なに首を縦に振らない男子生徒に対して片桐は何度も頭を下げた。
何せこの1週間で今後3年間の運命が決まってしまうのだ。もう一刻の猶予もなかった。
「分かった、分かったよ。そこまで言うなら・・・」
「本当か!?ありがとう!」
教室の隅、その男子生徒の机の前で片桐は彼の手を握ってぶんぶんと上下に振った。
恋恋高校は昨年まで女子高だった高校。当然男子生徒の数なんてほんの僅かだ。
1人たりとも無駄にはできない。片桐たち野球部は片っ端から男子生徒をあたってみる覚悟だった。
「しかしこうしてみると本当に少ないな、男子」
「見る限りクラスに1,2人いるかどうかでやんす。これは想像以上でやんす・・・」
放課後の閑散とした廊下をそうぼやきながら歩く片桐と矢部。
今まで2人で確保した部員はさっきの彼を含めてたったの2人。全然足りなかった。
しかもお世辞にもスポーツができそうには見えない生徒。だがそんな贅沢は言ってられなかった。
そんな時。廊下の向こう側から歩いてくる生徒が2人居た。
1人はすらりと背の高い茶髪の挑発が似合う大人びた女生徒。そしてもう1人は
紫色の長髪に随分と背の小さい女の子だった。いや、正直そこまで低くはないんだろうが
隣に立っているのが背の高い人なので余計に小さく見えてしまう。
「よう、頑張ってるか野球愛好会!」
「まあな。アンタはこれからバイトか?」
「ん、そんなところだ」
「そうか。頑張れよ」
すれ違いざまにそう簡単に会話をすると2組はすっと逆方向へと歩いていった。
矢部はえ?といった表情で片桐の方を見る。
「ちょ、ちょっと何か言っておかなくてよかったんでやんすか?」
「何か?」
「昨日の頼みごとのことでやんすよ!」
矢部は片桐がその事をどうでも良い事、と考えているんじゃないか、
あるいは忘れていたんじゃないかと思っているんだろう。だが片桐もそこまで馬鹿ではなかった。
「良いんだよあれはあれで。それにそう何度も釘を刺してくどいとか思われたらどうするんだ」
「なんだ、ちゃんと考えてたんでやんすね。オイラ片桐君がド忘れしたのかと思ったでやんす」
・・・やっぱり。思考回路が単純な奴だった。さらに校内を練り歩いてみたが男子生徒は発見できず、
片桐と矢部は校舎と校舎の間の自動販売機コーナーで一休みしていた。
「ところで、何であんな女の子に監督を頼んだんでやんすか?」
片桐がコーヒーの蓋を開けたところで矢部がそう切り出した。
矢部の疑問はもっともだと思った。普通あんな女の子に監督を頼むなんて誰も考えないだろう。
片桐だって普通の女の子にそんな事を頼むような真似はしない。・・・でも。
「・・・何か、あの子は普通とは違う気がしたんだ」
「やんす?」
頭にハテナマークを浮かべる矢部。我ながら意味不明だ、と片桐は思った。
だがあの南條という女は普通とは違う。何かこう・・・言葉では言い表せないような何かを持っているような気がした。
片桐に野球をやらせるように言ったのもそう、この野球愛好会存亡を賭けた無謀な試合を申し込んだのもそうだ。
あいつならこの絶望的な状況をどうにかしてくれるかもしれない、そう思ったからじゃないだろうか。
(・・・こんな事矢部には言えないな)
片桐はコーヒーを飲み干すと空になった缶をゴミ箱へと投げ捨てた。
缶はゴミ箱の端に当たったと思うとすとん、とゴミ箱の中へと吸い込まれていった。
「おっ、入った入った」
そう言ってなぜかガッツポーズをする。すると隣に居た矢部がオイラも!と言わんばかりに
ぽいっと持っていたジュースの缶を投げ捨てた。缶はゴミ箱の端に当たると・・・
「はは、外れだな」
「あ"ー!なんでオイラだけいつもこんな役なんでやんすか!!」
矢部は唸りながら缶を拾いに歩いていった。・・・こんな平和な時間がいつまでも続けば良い、
と少しだけ思ってしまったがすぐに首を振ってその考えを吹き飛ばす。
いつまでもこんなにのんびりとしていられない。あの2人と合流して今日の成果を確かめないと。
ま、こっちも2人確保できたんだからあの2人なら4人くらい集められたんじゃないだろうか。
そうすればあっという間に人数も揃う。すぐにでも練習開始だ。
「この調子なら夏の大会に間に合ったりしてな」
「そんな気がしてきたでやんす!」
・・・こんな楽観的な考えをしていたことを、片桐はこの後呪うことになる。
グラウンドへ行くとあおいが数人の男子生徒を連れてなにやら話をしていた。
ひいふうみい・・・3人か。まあ上出来じゃないか。あと1人くらいどうにかなるだろう。
そんな事を考えながら矢部を引き連れて片桐はあおいの方へと歩いていった。
「よ、3人か」
そういうとその当の3人の方を見やる。
・・・俺たちが見つけてきた2人よりはスポーツができそうな体つきをしていた。これはラッキーかも知れない。
「・・・片桐君と矢部君の方は何人見つけられた?」
どことなくあおいの声に元気がないような気がした。だが矢部はちっとも気にする様子もない。
俺の考えすぎだろうか?片桐はそう思うことにした。いや、思いたかったのかもしれない。
「2人でやんす!これで一気に8人でやんす!」
その時だった。場に何ともいえない不穏な空気が流れたのは。
気づいてないのはどうやら片桐と矢部だけのようだった。・・・なんなんだ、いったい?
「どうしたんだ?何かあったのか?」
片桐は意を決してそう聞いてみた。あおいは下を俯いて何も言おうとしない。
これはただ事じゃない、と片桐は感じた。そして「それ」が何であるのかも。
「それが・・・ダメなんです」
口を開いたのははるかだった。意外な人物の言葉に片桐も矢部も面を食らってしまった。
はるかの表情も堅い。ダメ・・・いったい何がダメなのか。
「どうしてでやんす?」
何も分かってないような間の抜けた表情で返す矢部。
ああ、こんなときはお前のその鈍感さというか能天気さがうらやましくなってくる。
「恋恋高校の1年生の男子、つまり全校生徒の中の男子は・・・7人しか居ないんです」
あまりにも衝撃的な事実だった。つまりこういうことになる。
片桐、矢部、それに2人が誘った部員が2人、そしてそこに居る3人、あおい。
これらを合計すると8にしかならない。野球というスポーツをプレーできる人数に達しないのだ。
「と、いうことは、ど、どどどどうなるんでやんす!?」
明らかに動揺した表情を見せる矢部。そりゃそうだ。
できるなら俺だって矢部のように動揺して焦りたい。そう片桐が感じるほどこの事実は決定的だった。
「あと6日で男子の転校生がやって来るなんて奇跡が起きない限り・・・俺たちはおしまいだ」
さらに付け加えるなら高校野球には転校したらその学年中には公式試合に出られないというルールが存在する。
要するに1年生での大会出場は事実上不可能だということだ。
この時ばかりはさすがに誰も声を上げることができなかった。
終わったと思った。何もかもが。試合ができないのにどうやって試合に勝てというのか?
だがしかし、5日後の日曜日。そこには既にタイムリミットが迫っている。
グランドに差し込む夕日を見てこれほど「黄昏」という言葉を思い浮かべた日は初めてかもしれない。