PHASE-16 The Beginning



















目の前にことん、と紅茶の入ったカップが置かれる。もちろん愛梨が淹れたものだ。

かなえとテーブルを挟んで向こう側、応接室のソファの上には綾乃が座っていた。

綾乃も愛梨から紅茶を受け取ると、それに砂糖を入れてかちかちとかき回し始める。

こんな夜中に突然たずねてきて一体何の用だろう。

それも家の門の前で待っていたのだ。綾乃がここまでするなんてただ事ではないだろう。


「―――で、何の用だ」

「あら、つれませんわね。折角友達が遊びに来たのに」


怖い顔ですこと、と綾乃はそう良いながら紅茶を飲んだ。

・・・今日の綾乃は妙に落ち着いているというか凛としているような気がする。

そんな事を言われてもこんな時間に押しかけられてこっちは迷惑してるんだ。晩御飯だってまだ食べてないんだぞ。

かなえはそんな愚痴を言いそうになるのを必死に抑えてぶすっとした顔で綾乃を凝視していた。


「まあ本題に入りましょうか。今日来たのは野球愛好会の事ですの」

「・・・愛好会の?」


ぶすっとした顔からさらに怪訝そうな顔をして綾乃の方を見る。

いまさら野球愛好会について話すこともないだろう。彼らはグランドを追い出されたんだから。

もう綾乃が口を出す権限も何もないはずだ。


「かなえは彼らのことをどう思いますこと?」

「どうって・・・何なんだそれは」

「素直な感想を聞きたいんです。今日はその話をしに来たのですから」


かなえは何を言っているんだと思った。突然家にやってきたと思ったら野球愛好会はどう思うだ?

ふざけているのか。だが綾乃は至って真剣な表情をしている。

ここに来るのも久しぶりですわね、と辺りを見渡しながらかなえの返事を待っていた。


「・・・見込みはある」

「え?」

「見込みはある連中だ。あのあかつきにたった数日であそこまで食い下がれるチームを

 作ったんだ。長期的にやれば面白い存在であることは間違いない」


かなえは肘を突きながらそんな話をした。それが自分が彼らと数日間行動をともにして感じたことだった。

彼らは普通の野球部とは違う・・・そんなことを感じていたのだ。

それはあの試合・・・あかつき大付属戦を彼らと同じ観点で見ていた自分が1番よく分かっていた。


「そう・・・ですか」


ことん、と綾乃は飲んでいた紅茶のカップを受け皿に置く。

そして何か少し考えるように手をあごに当てると、意を決して話し始めた。


「野球愛好会のグランド使用を・・・認めようと思いますの」

「は?」


あまりに突然のことでかなえは間の抜けた返事をしてしまった。なんだって?

私の耳がおかしくなかったら今確かに野球愛好会のグランド使用を認める。そう言ったはずだ。


「どういうことだ?あいつらは賭けに負けたんだぞ」

「今あなたの言った通りですわ。あの試合を見て、わたくしも色々と思うところがありました。

 あのあかつきとほぼ互角に戦った・・・あの愛好会をこのまま潰すのは勿体無いじゃないですか」

「勿体無い・・・?」


かなえは落ち着こうと自分の紅茶に手を伸ばす。一口飲むとその苦味が口いっぱいに広がった。

しまった。砂糖を入れるのを忘れていた。自分が大の甘党だったことを不意に思い出す。


「ええ、あの野球愛好会が将来あかつきを倒して甲子園へ行けばゆくゆくは我が恋恋高校の

 ためになりますもの。甲子園へ行けば学校の知名度は大きく上がりますから」

「・・・お前はあの愛好会があかつきを倒せるようになると思うのか?」


真剣な表情で綾乃の方を見る。綾乃はふふん、と言ったような表情をして。


「倒せますとも。いえ、倒させます。そのためにここに来たんですもの」


自信たっぷりに言った。なんだ?いまだに彼女が言わんとすることがよく分からない。

そんな話をするためにかなえの家に来たのか?どうして?

だったらかなえの家なんかに来るよりあおいの家にでも行って話してやった方がよっぽど喜びそうだが。


「かなえ・・・あの野球愛好会の監督を引き受けてくれませんこと?」

「なっ・・・!」


何を言い出すかと思えば。かなえは噴出しそうになる紅茶を必死でこらえた。

それは自分があまりに予想もしていないことだった。そんなことは無理だ。

そのことは彼女・・・綾乃が1番よく知っているはずだと思っていたんだが。


「馬鹿言うな!そんなの無理に決まってるだろう!」


がばっ、とかなえは立ち上がる。あまりに興奮して座っていることができなかったのかもしれない。


「私に監督だって!?そんなことできわけっ・・・!」

「アルバイトがあるからですか?」


かなえの言葉は途中でそう綾乃に遮られた。その通りだった。

私は働かないといけない。そうしないと生活していけないからだ。

学費を払い、さらに生活費を稼ぐためには親戚の援助だけでは足りない。

かなえが働いてお金を稼がないとかなえも、そして何より愛梨もこの生活を続けることができなくなってしまう。


「・・・そうだ。だから無理だ。監督なんて、誰か教師に頼めば良いだろう」

「あの野球部をあそこまでまとめあげられるのはあなただけです。あなたが監督を

 やってこそあのチームは実力を発揮する。わたくしはそう思います」

「買いかぶりすぎだ・・・」


ようやく落ち着いたのかかなえはすっとソファに座りなおした。

何を熱くなっているんだ、と自分を落ち着かせる。こんなの私じゃない。

まるであの試合の時みたいに・・・全身が熱くなっているのが分かった。おかしい、こんなの・・・


「そう、かなえにはアルバイトがある。そんなこと百も承知ですわ。

 だから今日ここに来たんですもの」

「・・・え?」


綾乃の言葉にはっとかなえは顔を上げる。綾乃はなにやらごそごそと鞄から紙を取り出した。

それをかなえの方へ向け、すっと差し出す。そこに書かれていたのは・・・


「奨学・・・金?」


奨学金。その文字だった。よく読んでみると貸与奨学金ではなくどうやら給与奨学金のようだった。


「監督をやってもらう以上相応の対価が必要です。それがこれだと思ってください。

 ただし、この場合学力テストにおいて常に優秀な成績を収めることが条件ですけど」

「綾乃、お前・・・」

「まあ、理事長の孫ですから。色々と掛け合ってみたんですの。そして今日ようやくここまで

 漕ぎ着けましたのよ。この事を1秒でも早くあなたに伝えたくてここに来たんですの」


かなえはそれを聴いた瞬間胸の中が嬉しさでいっぱいになった。

やっぱり綾乃は1番の親友だった。いつもわがままで、高飛車で・・・でも、

いつも綾乃はかなえがこうやって悩んでいると手を差し伸べてくれたのだ。

さすがに今回のような大掛かりなことは初めてだけど・・・だから余計に嬉しかったのだ。


「本当はかなえも野球愛好会の監督をやりたかったんでしょう?だからこの話をしたときあんなに熱くなった」


どうやらすべて見透かされているようだった。そう、私は野球愛好会に居たかったのだ。

あそこは何かとても居心地の良い場所に思えた。何か、今までの生活とはまるで違う何かを持っている場所。

あいつらと一緒に居ると何か自分に素直になれるような気がした。

いつも斜めからしか物事を見られなかった自分が、まっすぐに物事を見られるようにれた。

愛梨の方を見るととても優しい目をしていた。お嬢様にすべてお任せします・・・

そんな顔をしていたのだ。かなえはそれを見た瞬間腹を決めた。

私は・・・あいつらともう1度野球をやってみたい。彼らを指揮して甲子園を目指してみたい。

そんな思いがふつふつと湧き上がってきたのだ。かなえはその紙を両手で持ち上げると。


「ありがとう、綾乃・・・」


そう小さくつぶやいた。これが恋恋高校野球愛好会、そしてそのチームの監督が誕生した瞬間だった。

かなえはこれからこんなに人に感謝することはないだろう。そう思った。



















恋恋高校の放課後。気持ちの良い金属音がグランドには響き渡っていた。

晴れてグランドで練習ができるようになった野球愛好会。その熱気はほかの部活よりさらに熱いものに見えた。

そしてまたノックバットから放たれた打球が飛んでいく。


「こら大村ー!第1歩目が遅かったぞ!今のは飛び込まなくても捕れた打球だ!」


グランドの端から大声で指示を出す少女。かなえはすっかり野球愛好会にもなじみ、

皆から監督と認められていた。片桐は彼女を見て思う。あの時彼女を誘ったのは間違いじゃなかったと。

かなえが再び野球愛好会の監督をやると聞かされたとき、メンバーは一様に驚いていた。

しかしすぐに受け入れ、歓迎した。彼女の手腕はあの試合のときに十二分に分かっていたからだ。


「これで結局元通りでやんすね」


そう言ったのは矢部。あの試合のときみたいに・・・またみんなで野球ができる。

それからというものかなえの指示の元練習を重ね、素人集団だった野球愛好会がわずかだが形になりつつあった。

9人揃ってさえいれば大会にだって出られる・・・そう思えた。


「次は外野だ!片桐、まずはレフトから」

「ああ・・・」


片桐は正直驚いていた。彼女がここまでやる気になって監督をやっている。

いったい何があったかは知らないが続けていたバイトまでやめたらしい。

そこまでして彼女はどうして野球愛好会に協力してくれる気になったのだろうか。

それはかなえと愛梨、そして綾乃しか知らない。いつかはそのことを彼らに話すときが来るだろう。

だがそれまでは少し、そのことは黙っておこうとかなえは思った。

これは3人だけの秘密・・・そういうことにしておこうと綾乃に言われたからだった。

奨学金の事もそうだが、あまり他人に喜んで話すようなことでもないと考えたからだ。


「お嬢様、ボールはここでよろしいでしょうか?」

「ん、そこに置いておいてくれ。あとスコアブックの方もよろしくな」


かなえが監督に就任すると同時に愛梨もマネージャーとして野球愛好会に籍を置くようになった。

今でははるかと共に2人目のマネージャーとして奮闘している。

もちろん家事もやってくれているのだから大変だと思う。愛梨がマネージャーをやると言ったとき、かなえは反対した。

やはり家事との両立は難しいと考えたからだ。それでも愛梨はマネージャーをやりたいと聞かなかった。なぜなら・・・


「少しでもお嬢様の近くに居たいから・・・です」


あの時の事を思い出すと今でも小っ恥ずかしくなる。だが彼女がそう言ってくれてかなえはうれしかった。

かなえも同じようなことを内心では考えていたからだ。

愛梨と共に野球愛好会をやれる。そう考えるとますますうれしくなってきた。


(このチームはまだまだ強くなれる・・・いや、私が強くしてみせる)


協力してくれた綾乃のため、今でも自分を支えてくれている愛梨のため、

そして自分を信じてついてきてくれるチームのために。いつかは甲子園ってところを

目指せるような、そんなチームを作りたい。かなえは心からそう思った。




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