「宮橋伊織です。よろしくお願いします」
教室内がざわざわとにわかにざわめく。伊織が転校してきたのはかなえと同じクラスだった。
初々しく挨拶をする伊織に教室中から拍手が沸く。かなえはその様子をぼーっと机にひじを突きながら見ていた。
伊織が帰ってきた・・・いまだにその実感が沸かないのだ。
教師に促されるままに前の方の席に着く伊織。かなえは1番後ろの席なのでずいぶんと離れたところになってしまった。
まあ、席まで隣同士なんて漫画みたいな展開はそうはないか。
ホームルームが終わり、休み時間になると案の定伊織の席はクラスメイトたちに囲まれていた。
転校生恒例の質問攻めという奴だ。だがその様子もかなえは遠巻きに見るだけで特に自分から近づいて行こうとはしない。
「転校生に対して随分と冷たい反応ですわね?」
伊織の席から帰ってきたらしい綾乃が椅子に座りながらかなえに話しかける。
「冷たい反応って・・・私もお前たちみたいに質問攻めでもすれば良いのか?」
「そうは言ってませんわ。ただ挨拶くらいした方が今後のためでしょう?」
実は幼馴染の知り合いだ、というべきかどうか迷ったが黙っておくことにした。
どうせそのうちバレるだろう。かなえは次の授業の教科書を机の上にと広げ始めた。
PHASE-18 変わるもの
「かなちゃん、一緒にお弁当食べよう!」
伊織がそんな事を言い出したのはようやくクラスメイトたちからも開放された昼休みのことだった。
かなえはそう来たか、といったような表情をすると。
「悪い、私は購買なんだ」
とそう答えた。伊織はえーっ、と言ったかと思うとぽん、と手をたたいて再びにっこり笑う。
「それじゃあ私も購買でお弁当食べるよ」
かくして昼休みを一緒に過ごすことになった。しかし、昼休みといえばいつも愛梨と過ごしていることが大概。
今日もその通りで、廊下で愛梨と待ち合わせをしているところだった。
「あら?お二人はお知り合いでしたの?」
そこにちょうどのタイミングで話しかけてきたのは綾乃だった。前の授業の片づけをして鞄から自らの弁当を出している。
「えっと、綾乃ちゃん・・・だっけ?」
「ええ、そうですわ。この恋恋高校の理事長の孫、倉橋綾乃です」
なぜか説明口調で言う綾乃。その言葉に伊織はえーっ!と声を上げて驚いていた。分かりやすい反応だ。
このままじゃ時間がいくらあっても足らないのでかなえの方から説明することにする。
「私たちは幼馴染だったんだ。OK?」
「まあ、あなたに幼馴染が居たなんて初耳ですわ」
相変わらず大げさな反応をする綾乃。そりゃあ別に隠していたわけではないが、ぺらぺらと話すようなことでもない。
そもそも伊織のことはその・・・ほとんど忘れかけていたのだから話すこともなかっただろう。
「綾乃ちゃんも一緒にお弁当どう?」
「ごめんなさい、わたくし他の方との約束がありまして」
そう言うと綾乃はぺこりと頭を下げて向こうで手を振っている女の子たちの輪に入っていった。
いつもどおりマイペースな綾乃に伊織はあっけにとられたような表情をしていたがすぐにこちらを向くと。
「じゃ、いこっか」
と、そうかなえに告げた。かなえたちも愛梨と合流すべく廊下へと出て行くことにする。
「お嬢様・・・と、伊織さん?」
廊下に出ると案の定愛梨がかなえが出てくるのを待っていた。
いつもは居ないかなえの後ろに付いている人影を見て不思議そうな表情をする。
「伊織も一緒に購買行きたいっていうんだ。良いだろ?」
「わたくしは構いませんが・・・お嬢様が昼食にどなたかを連れてくるとは珍しいですね」
入学してから早2ヶ月、今まではずっと愛梨か綾乃と昼休みを過ごしてきた。
だがそれは片方と、という意味で3人で過ごしたことはない。
基本的に愛梨が生徒会の仕事などで昼休みが空いていないときだけ綾乃と過ごしてきたのだ。
「ねぇねぇ、やっぱりこの学校も購買ってすごいの?」
「ああ。まったく毎日毎日よくやるよ」
そんな会話をしながら購買への道を歩いていく。食堂へと着くとすでに黒山の人だかりで、
列の1番前はどんな状況になっているのかも分からないような常態だった。
「・・・相変わらずだな。愛梨」
かなえは愛梨にちらっと目配せをする。愛梨はそれにこくんとうなずくと、
その黒山の中へとすっと入っていった。それをぽかんとした表情で見ている伊織。
「私たちは席の確保だ。行くぞ」
「え、え?愛梨ちゃん、大丈夫なの・・・?」
「あいつの事なら心配要らない。ほら早く」
かなえに手を引っ張られ、無理矢理その場から伊織は引っぺがされた。
食堂の奥の方に3つ、並んだ空席を見つけそこに腰を落ち着ける。
伊織はよいしょ、と持ってきた弁当を広げ始めた。非常にかわいらしい、
いかにも女の子のお弁当、という感じを受ける。ちょっとだけ食べてみたい、と思ったが口には出さない。
「これね、お母さんが作ってくれるんだけど、私も毎日ちょっとだけお手伝いするんだよ」
「へぇ・・・伊織はどれを作ったんだ?」
「えーとね、これとこれと・・・」
自分の弁当のおかずを何個か指差す伊織。料理なんてほとんどしないかなえにとっては
それだけ作れるなら大したもんだ、と思った。・・・まったくできないわけじゃないぞ。
「お待たせしました、お嬢様」
そこにトレイを両手に2つ持った愛梨がやってくる。トレイの上に乗っている器は・・・
どうやらうどんのようだった。愛梨はそれをかなえの前にことん、と置く。
「うわー、こっちもおいしそうだなぁ」
「伊織さんのお弁当もおいしそうですよ」
うどんを見て目をキラキラと光らせる伊織に愛梨が微笑みながら答える。
・・・なんだか、こんなの久しぶりだ。みんなでわいわいご飯を食べるというか。
今まで常に2人で食事をとってきたかなえにとってそれはとても新鮮な光景に見えた。
これから毎日こんな光景が続くのかと思うと何かくすぐったい、不思議な気持ちになってくる。
その日の食事はいつもよりおいしく感じたのはただの錯覚ではないはずだ。
放課後。今日も野球愛好会の練習だ。かなえは教科書を鞄に入れながら今日の練習メニューを考えていた。
いつも同じような練習だと練習効率も悪くなる・・・そう思いながらこの約1ヶ月、さまざまな練習を試してきた。
あの野球愛好会の連中はその期間でそれなりに上達している。だが、それなりではいけない。
自分たちが目標としているのはあかつきを倒して甲子園に出場することなのだから。
「かなちゃん、放課後はどうするの?」
そんな事を考えていると、伊織がかなえの席の前に立っていた。
一緒に帰ろうとでも言うのだろうか。そういえばまだ野球愛好会の事は彼女には話してなかったな。
「すまん、一緒には帰れないから」
「え?何かあるの?」
またもぽかんとする伊織。運動が得意ではないかなえがまさかどこかの部活に入っているとは思っていなかったのだろう。
かなえはぱたん、と鞄を閉めると。
「ちょっと放課後は用事があってな」
そう言って教室を出て行こうとする。すると今までぽかんとしていた伊織がはっとした表情をしてかなえを追いかけてきた。
「待って、かなちゃん部活やってたの!?」
「ああ。ちょっと野球部をな。あ、正式に言うと部じゃなくて・・・」
「野球!?」
その言葉を聞いたとたん伊織は放課後で閑散としている校舎に響き渡るような大声でそう叫んだ。
それはそうか、かなえみたいな娘が野球部に入ってるなんて誰が聞いても驚くだろう。
「それってどういうことなの!?」
玄関で上履きから靴に履き替えていると伊織がまたしてもそう言い寄ってきた。
そろそろ急がないと練習に遅れるのに・・・そんな事を考えながらかなえはぶっきらぼうに答える。
「野球って言っても選手じゃないぞ、監督だ、監督」
「か、監督ぅ!?」
もう何度目か分からない素っ頓狂な声を上げる伊織。おそらく今までで1番驚いたことだろう。
監督?マネージャーじゃなくて?とそんな事を言っている伊織に適当に答えながら
かなえはグランドへの道を歩いていく。愛梨はもう先に行ってしまっただろうか。
グランドへと着くと野球愛好会の面々はグランドを走ってアップを行っているところだった。
どうやら練習の時刻には間に合ったみたいだった。
かなえはグランドへと入るとベンチに荷物を置く。そして鞄からある1冊のノートを取り出した。
「か、かなちゃん、それは何・・・?」
「なんだ、まだ着いてきてたのか」
「むぅ・・・」
少し膨れた表情を見せる伊織。練習は遅くまでになるから早く帰った方が良い。
そう言ったものの彼女はそれを意に介さないかのようにノートの方をじっと見ている。
「・・・これには練習や選手の様子を書いてるんだ、ほら」
ぱらぱらと数ページ、彼女に見せるようにしてめくっていく。そこには練習法から選手のデータまでが事細かに書いてあった。
自分が他の学校の監督に勝てるとしたらそれはデータ、頭脳を使った野球だ。かなえはそれを十分に理解し、実践していた。
「・・・かなちゃん」
それをじっと見つめていた伊織がふと言葉を発する。かなえは彼女の方を見上げた。
「すごいよ、かなちゃんがこんなことしてるなんて知らなかった。すごいすごい!」
まるで自分のことのように喜ぶ伊織。何がそんなに面白いのか分からないが食い入るようにじっとノートを見つめている。
かなえはぱたん、とノートを閉じると。
「あのなぁ、ここは遊び場じゃないんだ。見学するなら邪魔にならないところにしてくれ」
しまった、と言った後で思った。少し言い方がキツくなりすぎたかもしれない。
伊織の方を見ると案の定しゅん、と小さくなっていた。
「ご、ごめんね。邪魔しちゃったよね・・・じゃあ、向こうに居るから・・・」
そういうととぼとぼとグランドの端まで歩いていく。かなえは呼び止めようかと
思ったが寸でのところで声が喉から出てこなかった。・・・少し悪いことをしてしまったか。
(でも仕方ない、よな・・・)
選手たちを見るとアップが終わりキャッチボールをしているところだった。
かなえは片桐の方をちらりと見る。彼の場合普通のキャッチボールをするにも一苦労だ。
いつも矢部と組んでキャッチボールをしているが、今でもまだ送球の精度はおぼつかない。
まだ練習を初めて2ヶ月も経っていないのだから当然といえば当然なのだが。
「あ、すまん矢部!」
「良いでやんすよ。片桐君は練習あるのみ!でやんすから」
またも片桐が暴投をしたようだった。これでも前に比べると大分マシにはなってきている。
この分ならあと2ヶ月も練習すればほぼ利き腕と同じように投げられるのではないだろうか。
そんなことを考えながらかなえは再びノートを開く。
(今日はどんな練習をしようかな・・・)
そんなことを考えながらふと空を見上げる。こんな風に空を見上げるのは久しぶりかもしれない。
今日の空は梅雨入り前の真っ青な澄んだ空だった。