練習が終わるとかなえは部室で今日の練習をノートに書き写していた。

部室といってもあおいが着替える時には部員全員が部室を出て行かなければならないくらいのお粗末なものだが。

それでもないよりはマシ、貴重な野球愛好会の根城だ。

愛梨は夕食の用意のため少し前に帰ってしまった。

ほかの部員も練習を終えて帰宅している。今部室に居るのはかなえ1人だけだった。


「こんなもんか・・・」


作業を終えるとかなえはぱたん、とノートを閉める。これで粗方今日のデータは取れたはずだ。

とにかく緻密なデータ・・・それが今の恋恋には必要だった。

他の学校との差を縮めるためにかなえが選んだ野球・・・それはデータ野球だった。

ノートに鞄をしまうと部室を出て、部室の鍵を閉める。あとはこれを職員室まで返しに行くだけだ。

かなえが校舎の方に向かおうとしたそのとき、数メートル先に人影がいるのが見えた。

生憎暗く誰かは分からなかったが背格好からすると女子生徒だろうか。


(まさか・・・)


とりあえずかなえは頭に浮かんだ疑念を置いておき、職員室に鍵を返しに行くことにした。



















PHASE-19 変わらないもの



















職員室に鍵を返し、グランドに戻ってきたとき。先ほどの人影はまだそこに居るようだった。

かなえははぁ、とため息をつきながらその人影へと歩いていく。


「なぁ伊織。お前何やってんだ?」


後ろから彼女の肩を叩きながらそう言う。そう、そこに居たのは案の定伊織だった。

彼女は振り返り、かなえの顔を見るとぱあ、と花が咲いたような明るい表情をする。


「かなちゃん、一緒に帰ろ!」

「・・・何時間待ってたんだ?」

「うーん、何時間だろ?分かんない」


まるでたった数分待っただけのような、そんな口調で話す伊織。

野球愛好会の練習は少なくとも2時間から3時間は行っていたはずだ。

その間ずっとここで待っていたんだ、平気なはずがない。かなえはそう思っていた。


「でもでも、本読んだり宿題やってたりしたから全然大丈夫だったよ」

「本・・・?」


誇らしげに掲げた伊織の手に持っている本を見る。何かの小説のようだったがよく分からない。

なんとか殺人事件だとか、そんな感じの本だろうか。


「そういえばお前って本が好きだったんだっけ」

「うん!本大好き!かなちゃん覚えててくれたんだね!」


思い返してみればかなえの記憶の中の伊織はいつも本を読んでいたような気がする。

いつも、というのは大げさかもしれないが、昔から本が好きだったことは間違いない。

そう思うと案外昔のことも覚えてるもんだ、とかなえは自分の記憶力に感心した。


「・・・あのね、かなちゃん」


そのときだった。伊織が真剣そうな声で何かを切り出したのは。

かなえはん?といったような表情で後ろを歩いていた彼女の方を振り向く。


「朝にかなちゃんの事全然変わってないって言ったけど・・・そんなことなかった」

「え?」


ぴたり、と伊織は歩いていた足を止めた。かなえもそれに同調するように歩を止める。

伊織は下を俯きながら次の言葉を搾り出そうとしていた。


「かなちゃん、野球部の監督なんてやってて・・・すごくしっかりしてて。

 昔とは全然違う、私かなちゃん偉いって思ったもん」

「馬鹿、何言ってんだ」


恥ずかしくなってかなえも彼女から目を背ける。そんなに大層な事じゃない。

自分はやりたいから野球愛好会の監督をやっているだけ、やりたいことをやっているだけだ。

行くぞ、と言って再び歩き出そうとするかなえ。だが伊織はそこから動こうとしない。


「かなちゃん・・・"約束"覚えてる・・・?」


その一言が妙に大きく聞こえたのは気のせいだったのだろうか。

彼女の方を見るとこちらをまっすぐに見つめていた。今日初めて見た、伊織の真剣な表情。

約束・・・それが何のことかかなえには分からなかった。しばらくの沈黙が続くと。


「ごめん、やっぱなんでもない!いこ、かなちゃん」


そう取り繕うような声で言うと伊織はたったっとかなえの前を歩いていってしまった。

かなえもそれに追いつくように歩いていく。それから別れるまで、他愛のない話をしていた。

だが、かなえにはその"約束"の事がずっと頭に引っかかっていた。



















夕食を食べ終え、自室で宿題を片付けていたときのことだった。

かなえは未だにあの伊織が言った"約束"のことが気にかかっていた。

あの真剣な表情・・・きっと何かあるはずだ。何か、自分と伊織の間に何かが・・・

そんなことを考えているとなかなか学校の宿題も進まない。

かなえは机に突っ伏してずっと"約束"のことを考えていた。

そんなことをしていると段々と瞼が重くなってくる。そして意識が少しずつ、少しずつ遠くなって―――









また、この夢だ。泣いている女の子とそれを宥めている女の子。

この夢を見るのは何度目だろう。そして夢はいつも同じところで終わるのだ。

そう、女の子が女の子に何かを渡すそのとき、夢は唐突に終わりを向かえ・・・









「・・・お嬢様、お嬢様?」


かなえは重たい瞼をゆっくりと開ける。どうやら転寝をしてしまったようだった。

起こしてくれたのはもちろん愛梨だった。その両手には紅茶のカップとポットを載せたお盆が。

差し入れにでも来てくれたんだろうか、かなえは瞼をこすりながらうん、と背伸びをする。


「お嬢様が転寝なんて珍しいですね」

「そうか?」


そんな会話をしながら愛梨が紅茶のカップに紅茶を注ぐのをぼうっと見ていた。

その時。かなえは夢の内容を唐突に思い出した。泣いている女の子、宥めている女の子、

渡されたもの、約束・・・それらがフラッシュバックのように頭の中に雪崩れ込んでくる。


「・・・っ!」


かなえは同時にすべてを理解した。彼女が言っていた約束の意味も、その夢が何であったかも。

どうして今まで気がつかなかったんだろう。こんなに簡単なことだったのに。


「お嬢様・・・?」


愛梨が不思議そうな顔をしてかなえを見つめる。これから自分がどうするべきか。

そんなことはもう決まりきっていた。かなえはがたん、と椅子から立ち上がる。


「愛梨、すまない。その紅茶はお前が飲んでくれ」


そう言うと部屋の隅・・・クローゼットのところまで走っていく。

そしてクローゼットをばーんと開けると、中に入っていたタンスやら箱やらをひっくり返し始めた。


「お、お嬢様!?どうなさったのですか!?」


その愛梨の声が聞こえないほどにかなえは集中していたのか、それとも箱をひっくり返す音で彼女の声が聞こえなかったのか。

その問いにかなえは答えることができなかった。

クローゼットの中からありとあらゆる箱を引っ張り出すと、ガムテープをはがして中身を取り出し始めた。

愛梨は呆然としながらその様子を見ている。


「愛梨、長い作業になると思うからお前は寝ていいぞ」


と、それだけ言うとかなえは一心不乱に作業を行い始めた。目標はたった1つ。

伊織との"約束"を果たすため。・・・あの紅いキーホルダーを見つけるためだ。

今まで完全に忘れていた。あんなキーホルダーのことなんか、年月が経つにつれ約束のことも、その存在すらも。

そしていつしかそれがどこにあるのかも分からなくなっていた。

我ながら情けない話だと思う。約束を忘れ、それが押入れのどこにあるのかも分からないのだから。

だからこそ見つけなくてはならない。そして約束を果たさなければならなかった。

気づいたときには愛梨と紅茶は部屋から居なくなっていた。

だが、そんなことにも気づかないくらいかなえは作業に没頭していた。

1つ目のダンボールをひっくり返したが中にはそれらしきものはなかった。

かなえは2つ目のダンボールに目標を移しガムテープをまたはがしていく。

いったい全部でいくつのダンボールがあるのだろう?数えただけでも嫌になりそうだ。

だが必ず、このどこかにあるはずだ。約束のキーホルダーが。

それを見つけるまで今日は眠れない・・・そうかなえは腹をくくっていた。









いったい何個ダンボールをひっくり返し、いったいどれくらいのタンスの棚を探しただろう。

それでもまだあのキーホルダーは見つからなかった。時計はとっくに午前0時をまわっている。

段々と諦めの文字が頭にちらつき始めたその時、部屋のドアががちゃり、と開いた。

見るとそこには愛梨の姿があったではないか。かなえは疲労のためか驚きのためか、

あっというその声すら出せずに無言でそこに座り込んでいた。


「お嬢様、お手伝いします」


そう言うと愛梨はまだ開いていないダンボールのガムテープをはがし始めた。


「紅い・・・キーホルダーだ」


かなえはそれだけ言うと自分も作業に戻った。それだけの言葉で愛梨には十分だった。

愛梨に全幅の信頼を置いている自分ならそれが分かったのだ。


(伊織・・・絶対に見つけるからな)


滲んできた汗を拭きながらそんなことを思う。絶対に見つけてみせる、と。

伊織との、たった1つの約束を果たすため、かなえの長い夜は更けていく―――



















「かーなちゃん!」


南條家の玄関ベルと伊織の澄んだ声が鳴り響く。しかし、なかなか人が出てこない。

それはそうか。今までこんな風に誰かが朝、南條家にかなえを呼びにくる事なんてなかったのだから。

しばらくすると、中からばたんばたんという音が聞こえてきた。すると。


「かなちゃんおはよ・・・わっ!」


大きな玄関が開き、中からかなえが出てくる。だがその顔は昨日とはまるで違うものだった。

目の下に隈はでき、気持ち痩せているように見えた。伊織は驚いて数歩たじろぐ。


「か、かなちゃん・・・?どうしたの・・・?」

「ん?ああ、ちょっと徹夜明けでな・・・行くぞ」


かなえはそう言うと玄関から出てとぼとぼと歩いていった。後ろから愛梨も出てきたが、

彼女は顔色1つ変えずいつものあのニコニコ笑いを振る巻いている。


(何なんだろう・・・)


伊織は訳が分からないといった風な表情をする。が、ある一点に目が留まるとこの状況のすべてが理解できた。

かなえの鞄・・・そこには。


「かなちゃん!やっぱりかなちゃんはかなちゃんだったんだねー!!」


伊織はそういいながらかなえにぎゅっと抱きついた。

かなえは突然の事にぶっ倒れそうになるのを必死にこらえながら彼女に抵抗する。


「うわ、なんだ朝っぱらから!離れろ!!」


かなえはぶんぶんと鞄を振る。愛梨はその2人の様子をニコニコと笑いながら見ていた。

なんと言うこともない朝の風景。だが、それは昨日までとは随分と違うものだった。

かなえが持つその鞄には・・・小さな小さな、紅いキーホルダーが付いていた。




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