山並がセットポジションを取る。同点で9回表ノーアウトランナー3塁。
さわやかなみのり高校にとっては絶望的な展開だった。しかもバッターは4番片桐。
片桐は初球のスライダーを悠々と見送る。判定はストライクだった。
(こいつを打ち取ればまだ勝機はある・・・!)
山並はそう踏んでいた。片桐さえ何とかすれば後ろのバッターも何とか凌げるはずだ、と。
そして投じた2球目。信じられない事態が起きた。なんと片桐がバントの構えを見せたのだ。
(スクイズだと!?)
サードランナーの丘はすでにサードベースを蹴っている。山並が投げたのは内角へのストレートだ。
このままでは決められる、山並は思い切りホームへ向かってダッシュした。
片桐はそのストレートにバットを当てる。打球は完全に死んでおり、ファースト方向へ向かって転がっている。
完璧なスクイズだった。相手ファーストがそれを捕球した時には丘はホームに滑り込んでいた。
ファーストは急いでそれを一塁へ送球する。
「アウト!」
当然1塁はアウトになる。だが大事な大事な1点を恋恋に許してしまった。
丘は大喜びでベンチに戻り、選手たちとハイタッチを交わしている。
片桐はその様子をファーストから駆け足で戻りながらじっと見つめていた。
(まさか本当に成功するとはな・・・)
このスクイズの指令が出たのは打席の前、かなえが片桐を呼び止めたあの時だった。
最初は驚いたが確実に1点を取るための采配、ということだったのだろうか。
(よし、決まった。計算どおりだ)
かなえはベンチでにやりと笑う。この場面で4番がスクイズをするなんて誰が想像するだろう?
相手の守備シフトは通常のものだった。そこでスクイズを決めれば9割9分成功する。
だがバントが失敗したら元も子もない。チーム1の実力を持つ片桐を信頼してこその采配だった。
「片桐君、ナイススクイズでやんす!」
「ああ・・・」
片桐自身もこの采配には驚いていた。普通あの場面で自分にまわってきたら自由に打たせるはずだ。
そこをスクイズを選択したかなえ。この試合に確実に勝ちたいという思いが伝わってくるような采配だった。
続く5番6番が倒れチェンジとなる。恋恋高校は1点リードのまま最終回、9回裏を迎えた。
PHASE-27 終わりと始まり
「早川、あと1回だ。気合入れていくぞ」
「分かってるよ。大丈夫」
片桐は一言そう声をかけるとホームへと戻っていった。
前の回を見る限りあおいは完全に立ち直っている。あの調子でいけばこの回も抑えられるはずだ。
ナインに声をかけ、マスクをかぶる。1球目、まずは外角のストレートで様子を見よう。
あおいが振りかぶり1球目を投げる。そのとき片桐は感じた。
この球は前の回の球とは明らかに違う・・・球に力がないと。
そしてわずかにボールが真ん中に寄ってしまう。相手バッターはそれを見逃さなかった。
思い切り引っ張られ、三遊間をやぶられる。レフト前ヒット・・・先頭バッターを出してしまった。
(まずい、早川の奴・・・完全に切れてる)
第一前の回のあの異常な立ち直りがおかしかったのだ。あれであおいは体力を使い果たしてしまったのかも知れない。
あおいの方を見ると、また大粒の汗が顔からグランドへと垂れていた。まずい、片桐は直感的にそう感じた。
だから次のバッターが送りバントをしてくれたことはこちらにとって助かった。
あのまま投げさせていれば次も打たれたかも知れない・・・アウト1つもらえただけ儲け物だ。
片桐の苦心のリードは続く。ストレートが浮いてストライクゾーンに入らない。
変化球も曲がりが悪くなり、どうしても逃げのリードになってしまう。
「フォアボール!」
バッターがバットを放り投げて一塁へと歩いていく。勝っているはずなのに逆に追いこまれた。
あおいはくそっ、と言わんばかりにマウンドの土を蹴り上げた。
(どうして・・・あとツーアウトなのに!)
自分の腕に力が入らなかった。前の回はあんなにスムーズに行ったピッチングがうまくいかない。
自分の体力不足をここまで悔やんだことはなかった。
次のバッターがバッターボックスへと入る。あおいは汗をぬぐって片桐のサインを見た。
内角へのカーブ・・・そこへボールを投げようとする。だが、その瞬間、ボールが自分の手からすっぽ抜けたことに気がついた。
ボールは大きくバッターの手前でバウンドし、片桐の頭の上を越えていく。片桐はマスクをとってそれを必死で追った。
ボールに追いつき、手にしたときにはランナーはそれぞれ次の塁へ進んでいた。
そこですかさずタイムを取ってマウンドへ駆けていく片桐。内野陣も集まってきた。
あおいはまさに疲労困憊の様子で、もう何を話しかけても聞けないような状態になっていてた。
「早川、打たせてとれ。俺たちが取ってやる」
「うん・・・分かってるんだけど」
あおいはまた帽子を取って汗をぬぐう。片桐は最後にあおいの肩を叩くとホームへと戻っていった。
もう賭けるしかない、あおいの最後の力に。
ロージンバックを叩き落とし、バッターの方を凝視する。セットアップから2球目、渾身のシンカーを放る。
バッターの手前で鋭く曲がるその球は見事ストライクゾーンへ決まった。
(まだ・・・いける!)
あおいは自分を信じていた。みんなが自分を信じてくれている。その自分を信じる。
それしかなかった。カウント1−1、そこから身体を大きく沈め最後の力を振り絞る。
ボールがあおいの右腕からリリースされ、相手バッターの内角へと進んでいく。
だがもうその球に力は残っていなかった。バッターはそれを振り抜き、流すようにしてセンターへ放った。
あおいが頭上にグラブを伸ばすも及ばない。終わった・・・そう思った。
「まだでやんす!」
誰もがあきらめたその時、矢部はそう叫んでいた。ボールは矢部の手前ギリギリのところへ飛んでいっている。
飛び込めばなんとか取れるかどうかというところだ。諦めない、その気持ちは矢部にもあった。最後まで諦めない・・・
矢部は打球に向かって全力で飛び込んだ。ずざっ、という砂の音が大きく響いていた。
砂埃が舞い、一瞬の静寂が訪れる。そして・・・
矢部は大きくグラブを天に掲げた。その中には白いボールがしっかりと納まっていた。
審判がアウトのコールをしたかしないかのうちに矢部は滑り込んだ体制のままでセカンドに入っていた丘にボールを送る。
そう、2塁ランナーが戻っていなかったのだ。
相手ランナーはヘッドスライディングをして急いで2塁へ戻る。
だが時既に遅し、丘のグラブには矢部から送球されたボールが入っていた。
「アウト!ゲームセット!!」
奇跡のダブルプレー。それでこの試合の幕は閉じた。
恋恋高校の選手たちは矢部の元に集まり、矢部をもみくちゃにして喜びを爆発させていた。
これが恋恋高校野球愛好会、記念すべき最初の勝利なのだから。
「勝った、勝ったよかなちゃん!」
隣に座っていた伊織がかなえの肩をがくがくと揺らす。
かなえはその彼らの様子を呆然と見つめていた。信じられない、そんな気持ちだった。
ふわふわとした、なんともいえない気持ち。何なんだろう、この気持ちは。
やがて選手たちがベンチへと戻ってくる。
いまだ興奮冷めやまぬ様子で、選手たちはニコニコと楽しそうに笑っていた。かなえはそれを見て1つ息をつく。
「お前ら、よくやったよ」
そう、選手たちに語りかける。選手たちはそれを聞いて当然、と言わんばかりに胸を張った。
かなえはうれしかった、心の底から。このチームと出会えたことが・・・
短いようで長かった3泊4日の合宿も終わりを告げようとしていた。
野球愛好会一同は海辺の道路沿いでバスが来るのを待っているところだった。
ガードレールの向こうには真っ青な海が水平線の彼方まで続いている。
じっと見ているときらきらと光ってまぶしいそれはとても雄大で、とても綺麗だった。
あおいはその海をじっと見つめていた。彼女はその時何を考えていたのだろうか。
今日の試合のこと、合宿のこと、これからのこと・・・あるいはそのほかの何か。
「よっ」
そう言ってあおいの背中をぽーんと叩いた。あおいはそれを見て振り返る。
そこにいたのはかなえだった。あおいは何?と言うとかなえの方に視線を移した。
「海、綺麗だな」
「うん、そうだね・・・」
かなえもガードレールから身を乗り出して海を見る。遠くで何かの鳥が鳴いていた。
波の音と鳥の声、そして少しだけ聞こえる部員たちの談笑。・・・良い、景色だった。
「どうして野球やってるのかって」
「え?」
いきなりかなえは口を開いた。あおいは面を食らったようで思わず言葉に詰まってしまった。
かなえはあおいの方を見つめる。そして一言一言、紡ぐ様に。
「どうして野球やってるのかって、昨日聞いたろ」
「うん・・・」
あおいにはかなえが何を言いたいのか理解できなかった。昨日の話が何だというんだろうか。
ただかなえの表情を見るととても真剣で、まっすぐな・・・
昨日の自分のような顔をしているな、と思った。
「私も。考えてみたんだ。どうして自分は野球をやってるんだろうって」
正確に言えば野球の監督をやっているか、だ。昨日あおいの言葉を聞いて、一晩中そのことを考えていた。
だから今とてつもなく眠い。だが、言いたい事があった。
「最初は面白そうだからって、それだけの理由だった。あのあかつきとの試合までは」
かなえは水平線を見ながら話し始める。自分の言葉で、自分の気持ちを。
「でもあの試合で真剣なみんなを見て、気持ちが変わった。本気で勝ちたいって思った。
このチームで野球をやりたいって思ったんだ」
あおいはその言葉を黙って聞いていた。話す方も真剣なら聞く方も真剣だった。
彼女の・・・かなえの本当の言葉。それを知りたかったのかもしれない。
「そしていつか・・・"あの空の、向こう側"にある甲子園ってところに・・・
このチームで行きたい。そう思った。それが私が野球をやる理由」
言って、かなえは少し恥ずかしそうにはにかんだ。あおいもその言葉を聞いて少し笑った。
なぜかは分からない。胸の奥から、暖かい気持ちが滲み出てきた。
「さて、そろそろバスが来るな」
かなえは話をそこで切り上げるように言った。部員たちの方へ向かい、
さっさと荷物を用意しろといつものように振舞っている。あおいはそれがおかしくて仕方がなかった。
「あおい、お前も早く用意しろよ」
「うん、今行くよ」
踏み出したその一歩はとても小さなものだったかもしれない。
だがそれは後に大きな一歩となっていくものだろう。そのことにまだ気づいていなかったとしても。
「よーしお前ら、帰るぞー!」
かなえがそう告げたちょうどその時、地平線の向こうからバスがやってきた。
こうして恋恋高校野球愛好会の合宿は幕を閉じた。たくさんの思い出と、成果を残して。
この合宿で得たもの、それはかけがえのないものだっただろう。
それをどう活かしていくか、それとも殺すか。それはこれからの彼ら次第だ。
かなえにとって、選手にとって、恋恋高校野球部にとって。
この合宿が有意義なものであったと感じるとき、それはもう少し先の話になる。