5回表、北山高校の攻撃。4番今田からの好打順だ。
だがそんなことは今のこの男には関係のないことかも知れない。1回から快速にピッチングを続ける伊藤寛。
北山高校は攻撃前、円陣を組んでいた。その中心にいたのは今田、その人だった。
今田には作戦があった。この試合をひっくり返せるかも知れないほどの重大な作戦。
「えっ、レフトへ!?」
「そうだ。みんな極力レフトを狙って打ってくれ」
そんなこと言ってもあんな投手から狙ったところを打つなんて出来るわけ無いだろ、という声が飛ぶ。
勿論そんなことは百も承知だ。それでこの作戦を考えたのだから。
「難しいかも知れないがあのレフトが向こうの穴だ。良いな、右バッターは思いきり引っ張るんだ」
そう言い残すと今田はバッターボックスへと歩いていった。残されたメンバーはあ然としている。
突拍子もない作戦だ。これが普通の投手なら可能かも知れないが、相手はあの伊藤だ。
狙ったところへ打つなんて高度な作戦、出来るわけがない・・・だが。やるしかないということも分かっていた。
今田がバッターボックスへ入る。バットを極力短く持ち、コンパクトに振ることだけを考える。
1球目、2球目と見逃して1−1。狙うなら次の球だ。伊藤が投げた3球目。
真ん中高めのストレートが来た。それを今田は見逃さない。思い切り引っ張った。
打球はサードの頭上を越え、レフトへ。少し突っ込めばアウトが取れるくらいの当たりだ。
だが金城はそれをしない、いや出来ない。ワンバウンドで打球をキャッチした。レフト前ヒットだ。
「よっしゃー初ヒット!」
相手ベンチからそんな声が聞こえてくる。伊藤はちっと吐くとすぐに気持ちを次のバッターへと切り替えた。
だから次のバッターが送りバントをしてきたのには少し拍子抜けしてしまった。
(3点差の場面でやる作戦じゃねぇだろ)
それでもランナーが得点圏に進んだ。初めての得点圏だ。
セットアップからの投球もしなければならない。伊藤城攻略の糸口が、少しずつだが見えてきた。
第10話 絶対に打ってみせるぞ、伊藤!
セットアップからの投球だったが伊藤は難なくこなしていた・・・ように見えた。
しかし少しでも振りかぶって投げるより球威が落ちているなら、北山打線は見逃さない。
5番バッターに投げた4球目、スライダーが僅かに上ずる。
5番バッターはそれを叩き、レフトへ持って行く。大きな当たりがレフトへと飛んだ。
金城はそれをもたもたと追いかけていき、グラブを伸ばす。・・・が、問題はここからだった。
ボールが思った以上に伸びたのだ。金城はそれに対応できない。
ボールはグラブをかすめ、彼の頭上を越えていった。その瞬間、球場が凍り付いたような気がした。
「なっ・・・!」
セカンドランナー今田は一気に三塁を蹴りホームを陥れた。バッターランナーもセカンドへと到達している。
金城からボールが返って来る頃には。ただのレフトフライがタイムリーツーベースになってしまった。
「おいレフト、テメェ足引っ張るなっつっただろうが!」
伊藤がマウンドから降りてレフトの金城の方へと歩み寄る。
ショートの新垣がまあまあ、と宥めるが気は収まらない様子だった。金城はというと。
「先輩の球がポンポン打たれるから悪いんすよ、三振取ってみろよ三振!」
「何だと!」
何やら一触即発の雰囲気になってきた。
金城を一発ぶん殴ってやろうと麻衣が動き出そうとした瞬間、この人の一声で場は静まりかえった。
「やめないか!試合中だぞ」
そう、榊原だった。伊藤も金城も次の言葉を出そうとした瞬間の出来事だったので思わず言いごもってしまう。
麻衣もその1人だった。榊原は伊藤の両肩を持って言う。
「冷静になれ、伊藤。まだ3−1だ、焦る時間じゃない。金城君も挑発するようなことは言わない!」
榊原の一言に周りはシン・・・となった。この人はさすがにキャプテンをやってるだけのことはある。
この場を一瞬で宥めてしまったのだから。伊藤がバツが悪そうに。
「分かった。悪かった。ちょっと頭に血ぃ上ってたみたいだわ」
「なら良いんだ。次のバッター、慎重に行こう」
榊原はそう言ってマウンドから降りていった。
だが、このタイムが巽島高校にとって致命的なピンチとなっていることに誰が気づいただろうか。
これだけタイムを取って時間をかける・・・それは弱点を露呈したのと同じことだ。
「やっぱり俺の見立ては間違ってなかったみたいだな」
今田はベンチで腕を組みながらそう呟いた。
そう、これだけ時間をかけるということは実行した作戦は間違っていなかったと言うこと。
相手チームのアキレス腱はあのレフトだ。6番バッターもバットを短く持ってバッターボックスへと向かう。
伊藤は大きく深呼吸をしてセットポジションを取る。そして第1球目を投げた。
真ん中低めのストレート。そのノビのあるストレートがズバンと榊原のミットへ突きささった。
「ストライク!」
「ナイスボール!」
榊原が伊藤へボールを返す。ボールのキレが前より良くなった気がする。
2球目はカーブが内角に決まる。3球目、ボール球を挟んだあとの1球。
チェンジアップが外角低めにドンピシャで決まった。見逃し三振だ。
「ストライク!バッターアウト!」
審判のコールと共に伊藤が大きくガッツポーズをする。まずは1人、切って取った。
7番バッターが打席に入る。だが伊藤は動じなかった。
レフトを狙えるもんなら狙ってみろと言わんばかりに外角にボールをコントロールする。
右バッターならこうすればほとんど引っ張られることはないはずだ。
この7番バッターも同様、伊藤の術中に嵌っていった。そして4球目。
バッターの放ったボールは勢いなく宙を舞い、伊藤のグラブへと収まった。
(あと1人!)
次のバッターにもストレートで押していき、変化球でかわす。これを徹底してやる。
そしてあっと言う間に相手バッターを追い込むと、最後は自慢のストレートでねじ伏せた。
ストレートが相手バッターのバットの間をぬって榊原のミットへ収まる。
審判のストライク、バッターアウトの宣言を聞くか聞かないかのうちにもう伊藤はマウンドを降りていた。
レフトどころか外野へも上げさせないピッチングを見せたのだ。
「さすがだな、伊藤」
「榊原、お前のお陰だよ。あれで冷静になれた」
ベンチに戻る途中、2人はそんな会話をしていた。
レフトに打たせないように投げて欲しいとは思ったが、それを本当にやるんだから伊藤という投手は凄いのだ。
試合は5回表を終わり、折り返し地点を迎えたところだった。そして試合は後半へと移っていく。
試合はその後落ち着きを見せ7回まで進んでいた。この回、北山高校は4番今田からの好打順だ。
そして伊藤を唯一崩せそうなのもこの今田のみ。
この回に試合の命運がかかっていると言っても良いだろう。伊藤はふぅ、と息を吐くと今田と対峙した。
(ここで僕が打たなきゃ負ける・・・絶対に打ってみせるぞ、伊藤!)
今田はバットを長く持った。もう小手先の作戦では通用しない。力と力の真剣勝負だ。
1球目、外角へのチェンジアップを積極的に打ちに行った。だがこれは一塁線へのファールとなる。
そして2球目、伊藤の投げた89球目のことだった。伊藤は投げた瞬間しまったと思った。
ボールが完全に上ずり、ど真ん中付近へと飛んでいってしまったのだ。
これを今田は見逃さない。それを思い切り引っ張って叩いて見せた。
ボールはレフト金城の頭上をあっさりと越えていき、レフトスタンドへと突きささった。
金城は一歩も動かない・・・というより動けなかった。ただ呆然と腕を組んでそれを見上げているだけ。
「いよっしゃー!これで1点差ー!」
今田がダイヤモンドを1周している間、相手ベンチからはそんな声がひしひしと聞こえてきた。
そして今田が帰ってくるとメンバー総出でそれを迎える。まるで逆転したかのような騒ぎだった。
だが、これで崩れないのが伊藤だ。その後の3人を見事ピシャリと抑えて見せ、マウンドを降りた。
この試合、まだまだ分からない展開になってきた。
7回裏、7番からの下位打線だ。7番翡翠がバッターボックスへと入る。
翡翠は今日の試合、2打数ノーヒット、しかしスクイズで1点を入れている。
打撃は得意ではない翡翠、この打席もあっと言う間に追い込まれてしまう。
そして2−1からの4球目、スライダーをカットして何とかファールにする。
ピッチャー振りかぶり5球目、今度はストレートが内角へと抉ってくる。
それを窮屈なバッティングで振り抜くと、ボテボテのゴロとなってピッチャー前へと転がっていく。
ピッチャーはそれを難なく処理してアウト。
翡翠は一塁ベースを駆け抜けるとあ〜あ、と言ったような表情をしてベンチへと戻っていった。
そしてこれまた今日ノーヒットの麻衣へと打順が巡ってきた。この試合、自分は何も出来ていない。
せめてこの回出塁して何とか得点に繋げたい。・・・後があいつだからその望みは薄いだろうが。
(ボクはボクの出来る事を・・・!)
打席に入ると大きく深呼吸をして精神を落ち着かせる。大丈夫、出来る、出来るはずだ・・・と。
1球目、内角へのスライダーを打ちに行く。ボールは三塁線へのファールとなった。
そして2球目もストレートをカットするとそれから2球連続でボール球を見送る。
相手投手も遊び球が無くなってきた、狙うなら次だろう。麻衣はバットを短く持った。
自分に長打は無理だ、だがヒットなら狙える。そう思っていたからだ。
相手ピッチャーが振りかぶり投げた1球、ど真ん中へのカーブだった。
それを麻衣は引っ張るでもなく、流すでもなくセンター前へと運んだ。
今日初ヒット、そして高校生活初ヒットだ。麻衣は一塁上で思わず自分の頬が緩んだのが分かった。
「よっしゃー!俺が続いてやるぜ!麻衣、お前歩いて帰れるからな!」
金城が意気揚々とバッターボックスへ向かってくる。麻衣は何か嫌な予感がした。
その予感は的中することになる。相手ピッチャーが投げた初球、スライダーを金城が何と奇跡的にバットに当てたのだ。
だが、それは本当にただ単に当てただけで。
ボールはボテボテのサードゴロ、サードからセカンド、セカンドからファーストへと渡って見事なゲッツーの完成だった。
麻衣はヘルメットを叩きつけると。
「お前は三振しか出来ないと思ったらゲッツーまでやるのかこのゲッツーロボ!」
「う、うるせぇ、ちょっと魔が差したんだよ」
金城はそう言うと逃げるようにベンチへと戻っていった。麻衣は怒り心頭だった。
三振だけならまだしもゲッツーまでやるとは思いもしなかった。こんな事なら盗塁しておけばよかった。
守備だけでなく打撃でも迷惑をかけ続ける金城。彼は一体いつになったら真っ当な野球選手になるんだろうか。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
北山高校 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 | ||
巽島高校 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 |