第16話
戦慄のハイスピードピッチャーT





ザーザーと音が鳴っている。それはロッカールームの奥にこしらえたシャワールームからの音だった。

シャワーを浴びていた岩井は水滴をタオルでふき取る。未だに肌が水を弾く年齢らしい。

シャワールームを出ようとするとドアの外に清水が座っているのを知った。

「清水さん、どうしました?」

着替え用のアンダーシャツを装着しながらドア越しに話し掛ける。

「岩井・・・やはりあの球は封印しよう」

なぜですか、と聞き返そうとした岩井を清水が遮る。

「やはり実践投入には早かったんだよ。湊に打たれたのがその証拠だ。本当なら・・・」

「打たれるはずも無い・・・。そう言いたいんですか?」

清水は黙って頷いた。ドアが開くと岩井は荷物を取るべくロッカールームに戻ろうとする。

「良いんです。あの球を覚える為の代償も知ってますし、覚悟はしてます」

岩井は清水にそう言うと荷物だけ取り、バスに移動しようとした。ふと、気になる事が頭をよぎった。

「そう言えば・・・アイツちゃんと起きるかな?」









その不安は的中していた。

試合が始まってからほとんど寝ていた男に対して周りは6回裏の攻撃中ずっと起こそうと試みていた。だが、全く起きる気配は無かった。

「監督、どうします?アレが起きないんじゃ・・・」

「羽鳥にもう一イニング行かせるしかないな」

森コーチに尋ねられた落合は決断しようとしたその時だった、ネクストバッターズサークルにいた鈴村が戻って自分のグラブをはめようとした。

しかし、はめた拍子にちょうど寝ていた男の足に蹴躓きグラブを顔面に直撃させてしまった。

「・・・ん?」

起きると感じた鈴村は慌てて守備位置に戻ろうとしたが、それより早くアイマスクを外した男の手が伸び、鈴村の腕を押さえつける。

「俺が貪っていた惰眠を邪魔したのはお前か?」

低血圧で余り開いていない眼が逆に恐怖を与える。睨みつけるような視線で男は鈴村に問う。

「俺を起こしたのはお前かと聞いているんだよ!このボケが!!」

こくこくと頷く鈴村。不機嫌そうな顔でスコアボードを覗き込み、次に周りを見渡して岩井がいない事を確認する。その後で落合の方を向いた。

「そこのオッサン、ひょっとしてもう7回表か?もしそうだったら俺の出番か」

監督をオッサン呼ばわりして睨む。相手は三冠王を獲得し、監督初就任でチームをリーグ優勝に導いた落合である。

鈴村や他の選手はハラハラしながら状況を見守っている。

「・・・そうだ」

苦虫を潰した様な表情で落合が言った。すると、男は大きなあくびをしてイヤホンを外した。

「んじゃ、どーしてもってオッサンが言うから仕方なしに投げてこようかな?」

ベンチを出て振り返り、交代連絡ヨロシクと言わんばかりの視線を落合に送る。

「鈴村、マスクを被れ」

ええっ!?

「奴を起こした責任だ」

いきなりキャッチャーをやれと言われた鈴村は驚きつつもその指示に従った。









「ドラゴンズ、投手とシートの変更をお知らせします。ピッチャー羽鳥に代わりまして友光、ピッチャーは友光 背番号14。

キャッチャーの谷繁に代わりまして玉野が入り、サード。サードの鈴村がキャッチャーに入ります」

その後、変わったシートが一通りコールされた。

スタンドからは「またバッテリー代えるのかよ・・・」と言う声があちらこちらで聞こえ、それが集まって大きな雑音に変わった。

「こ、これは・・・」

ブルペンで何かを感じた池田。それを無視するように都と不破は投球練習を始めた。

「これはアムロとシャアが初めて出会った感覚に似ている!

聞こえないふりを続けながら不破と都が投げ込みをする。そんな事はお構い無しに池田は二人に向かって言った。

「あ、分かりにくかった?今の奴で言うとレイとネオ、もしくはムウとラウみたいな感覚」

「都さん・・・」

「無視して下さい。相手が興味ないと分かったら諦めると思いますから」

池田はめげずに説明していたがそれらは全て無視されていた。

「ケッ!俺様の今季初登板のキャッチャーがこんなザコとはな」

「そんな事言わないで下さいよ・・・」

不安げに返す鈴村に友光は断言した。

そんな事言ってる友光も去年のオープン戦では外野手の英智を自分の捕手に指名して無理やりキャッチャーマスクを被らせようとしていた。

「いいか、お前はボールだけ捕ればそれでいいんだ。結局、キャッチャーってのはピッチャーのボールを止める為だけに存在しているようなものだからな」

さっさと鈴村を追い返した友光は足場を慣らす。そして審判の投球練習開始と言う言葉にいきなり噛み付いた。

「別に要らねェだろ。とっとと始めろよ」

「しかしだな・・・」

「俺が要らねェってんだからそれに従え!」

利き腕の左手でボールを受け取り、観客に聞こえるような大きさで吐き捨てた。短気な審判なら既に暴言で退場処分されているかもしれない。

仕方無しにプレイを宣言する。すると友光はサインも出さずに振りかぶった。

「あれは・・・トルネード投法ですか?」

「ええ、彼はあれであかつき大付属との甲子園決勝を投げたんです」

不破達の視線の先には上半身だけがバックスクリーン方向に回転する友光の姿があった。


ズドン!


球場が一瞬にして静まり返った。いや、凍りついたと言う表現が正しい。その音はボールがミットに突き刺さる音に聞こえなかった。

むしろ戦車から砲弾が発射されたり、爆撃機から投下された爆弾が破裂したような音だった。

敵味方のファン関係無しに口を開けて呆然とした様子とスピードガンの表示を見た。


MAX 160km/h


『わ、私は・・・ゆ、夢でも見ているのでしょうか?日本人では不可能とまで言われた・・・あの160キロが今、この場所で表示されているのです』

谷沢は顔を手で覆っていた。言葉も出ないとはこの事なのだろう。

みみみ・・・都さんっ!あの人今・・・」

驚く不破を目の前に都は冷静を保とうとしていた。だが、この光景を当然のように見ていた人物がいる。この状況を平然と見ている人物が二人いる。

一人は同じチームの福留、もう一人は偵察に来ていた巨人の上原だった。つまり、驚いていないのはアテネ組なのだ。









話は昨年のアテネオリンピックまで遡る。中日からは福留と岩瀬、友光が選ばれていた。(友光は球団が半ば強引に選考委員に入れてもらった経緯がある)

そして迎えたキューバ戦、先発した松坂が打球をモロに受けて治療の為に一度マウンドを降りた。

本人は続投の意思を見せたが、彼の将来を考えた中畑が降板させた。その代わりとしてマウンドに登ったのがこの友光であった。

その初球、彼が投じた球はど真ん中だった。しかし、球速は今と同じ160キロをマークしていた。これにキューバ打線は戦慄する。

ランダムにボールが荒れながら160キロ台のボールを投げ込む友光を打つ事が出来なかったのだ。そして友光はきっちりとキューバを0点に抑えた。

その様子は遠く離れた日本にもリアルタイムで伝わった。この事実をリアルタイムで知らなかったのは甲子園で優勝旗を争っていた高校生ぐらいである。









日本人初の160キロはマグレか実力か

当時は非常に話題になり彼の帰国が待たれたが、帰国後の友光は一度も160キロを見せる事なくシーズンを終えた。

もちろん、ほとんどの人間がアテネでの160キロはマグレだと今日まで思っていた。

だが、アテネ組だけは友光が160キロを投げれる事に確信を持っていた。だからこそ彼がこの場面で160キロを出しても驚く様子がないのだ。

話を試合に戻すと友光が斎藤・小金井・今井を見逃し三振に仕留めていた。当然のようにオール160キロでの三振だった。

「ハハッ。お前ら格下のザコどもごときがおいそれと触れられる球じゃねェんだよ!俺様の球はなァ!」

出直して来いと言わんばかりの表情をウイングスベンチに見せてマウンドを早々と降りていった。ベンチの真ん中に座るとワザと大声で言った。

「あーあァ、これが去年セリーグ優勝したチームかよ。新規参入した寄せ集めのチームに0点って恥を知れをよォ!!

突き刺さる視線に何の反応も見せずにコーラを一気飲みした。

こうなったら奴を出すぞ

「えっ?でも監督・・・あいつは開幕まで極秘にすると言ってたじゃないですか」

森が慌てて止めようとする。だが落合は聞かない。

「あそこまで言われて黙っていられるか。極秘も秘密兵器もクソ食らえだ。何が何でも点を取りに行く!

落合がベンチを飛び出した瞬間、ネクストの鈴村が遮った。

「監督、大丈夫です。何とかしてきます」

自信有り気な目を見て落合に冷静さが戻る。ちょっとしたアドバイスを送るとベンチに引き下がる。

そんな喧噪が相手ベンチで起こってるとは露知らずにウイングスはピッチャーを星野から福士に代えた。

これは星野が2イニングスしか登板しない予定だったためだ。次の回の登板に備えて都の投球練習にも熱が入っている。









打ったぞ〜、打球は高ーく上がっている〜〜

鈴村が放った打球はアーチ状の弧を描いてライトに飛ぶ。ボールが飛び込んでくると思ったライトスタンドのファンが一斉に手招きをする。

しかし、声援空しく打球は失速し始める。それでもフェンスの一番高い所に当たってグラウンドに落ちてきた。

小金井がそれを拾う。するとセンターの亮太郎が大声で叫んでいるのが聞こえた。

「小金井、サードや!早うサードに放らんかい!」

長い滞空時間は鈴村に塁上を周る時間を与えた。決して速いとは言い難い鈴村が全力疾走で三塁を狙う。

急いで小金井が投げた返球したボールはショートの遠藤を中継して湊に送られた。だが、それよりも早く鈴村が頭から滑り込んでセーフにする。

「よっしゃー、ナイスや鈴村!」

盛り上がる一塁ベンチとライトスタンド。それと同時に落合が審判に代打を告げた。

「ドラゴンズ、ピンチヒッターのお知らせをします。バッター英智に代わりまして川相。ピンチヒッターは川相、背番号7」

これまたスタンドが沸く。職人芸とまで言われるバントの技術を持つ川相が代打に告げられたのだ。

しかし、この代打は中日側の作戦を露呈するものでもあった。

「98%スクイズで来る。問題は何球目で仕掛けてくるかだ」

タイムを掛けてマウンドに行った龍堂が選手と打ち合わせしている。確かにバントの名手がここで期待されるのはただ一つである。

タイムが解けて守備位置に散る内野陣、そして右打席に川相が立つ。

初球からスクイズ〜〜?

猛然とダッシュする湊と斎藤。だが、川相のバントの構えはブラフだった。因みにコールはストライク。

2球目はストレートをウエストしたが、川相はバットを引く。これでカウントはワンエンドワン。

つまりここからはツーストライクを取られない限りはバントがしやすくなった状況と言えた。福士の右腕からスライダーが放たれる。

川相は迷う事無くバントの構え、それを見て湊と斎藤は再びのダッシュを敢行する。ボールはストライクゾーンを大きく外れて行く。

これに川相はしまったと思った。なぜなら落合のサインそのものがスクイズだったし、その証拠に鈴村はホームに突っ込んできていた。

しかし、川相が職人と呼ばれるのはここからだ。即座にバットを引いてバスターに切り替える。これを見て今度は湊と斎藤がハメられたと思った。

こちらはこちらでスクイズではなく、川相はご丁寧に鈴村まで走らせてのスクイズと思わせ、実は最初からバスター狙いなのだと思っていた。

湊は凄まじい反射神経を発揮してその場で踏みとどまる。だが、斎藤だけは止まれない。斎藤の巨体が川相の視界からファーストベースを完全に隠した。

そこが川相の狙い、大きく外れたスライダーにちょこんと当てると、斎藤とファーストベースの間にフワリと打球を落とした。

ベースカバーに入っていた森坂がボールを拾い上げるとそのままベースに入る。この状況ではホームに投げるのは不可能だった。

『先制点がようやくドラゴンズに入りました。これで1−0です』

「なかなかお前もやるじゃねェか」

友光は点を入れた川相ではなく鈴村に手荒い歓迎をした。本当は川相に「チマチマとした点を取ってんじゃねーよ」と言いたかったが、

さすがに選手として老い先短い川相に傲慢なセリフを吐くのは既に悪い心象を更に悪くする危険性があった。

逆にウイングスベンチは意気消沈した。荒木と井端を何とか打ち取ってチェンジになってもそれは変わらなかい。

それよりもあの友光が更にテンションを上げて叫び、吼え、ストレートだけを投げ込む。

「オラオラ、悔しかったら当ててみろよ。ま、ザコに当てられる程俺様の球は甘くねェけどな。ハハハハハ

高笑いしながら8回の表も三者連続の見逃し三振に斬って取る。前のイニングと合わせると6人連続での見逃し三振だ。

「完全にチームが友光くんに呑まれてますわね」

都が呟いた。近くにいた不破にも聞こえないほどの音量だったが、その声自体には責任感が溢れている。

「私が何とかしてきます。この試合をこのまま終わらせる訳には行きませんもの」

今や長崎の空は岩井が投げていた時のような白雲混じりの青空ではなかった。

友光の登板に合わせるかのように灰色の雲が空を覆っていた。ウイングスも4人目のピッチャーを投入する。

リリーフエースの都のピッチングでその雲を晴らせるか否か、チームに勢いを取り戻せるか否かは全て都の左腕に掛かっていた。




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