第26話
海風に舞うもう一つの翼





6回裏の攻撃が終わるとバレンタインは交代を告げた。

「マリーンズ、ピッチャーの交替をお知らせします。清水直行に代わりまして伊達まき、ピッチャーは伊達まき 背番号01」

そのコールにライトスタンドが揺れる。かつて女性初のプロ野球選手、早川あおいが所属していたのがこのマリーンズだった。

あれから7年、当のあおいは一昨年のシーズンからキャットハンズに移籍したが彼女の背番号を継ぐ形で昨年入団したのが伊達まきだった。

淡い茶色の髪をショートヘアーにも拘らず無理やり後ろで纏めている。

「キャッチャー里崎に代わりまして箕輪。7番キャッチャー箕輪和希 背番号28」

箕輪と言えば入団した昨年一年間はロッテのリリーフ投手専門のキャッチャーとしてマスクを被り、時には指名打者として打席に立つ事もあった選手だ。

「やっぱロッテはバッテリーごと代えてきたか・・・」

池田は背後でピッチング練習を続けている不破に声をかけた。

「チビ助、あの投手をよく見とけよ。チビでも変化球が凄けりゃ活躍できるって事が分かるからさ」

確かにまきの身長は小さい。一番小さいのはおそらく不破のはずだが、それに負けず劣らずの低さだった。

池田が強制的にピッチング練習を中断させてバッテリーの方に不破の目を向けさせる。

「さーて、今日もいつも通り始めようぜ!」

まきに声をかけてマスクを被る。ウイングスは4番の湊から始まる好打順。緊張してもおかしくないが、今の箕輪とまきには関係なかった。

「湊さんはどのコースも得意な隙の無いバッター。それを打ち取るには・・・」

箕輪のサインに頷くとまきの体が沈む。都と同じアンダースローから繰り出されたのは球速100キロを切るか切らないかの遅いスローカーブだ。

アウトコース低めに決まった判定はボール。次に投げ込んだのはストレート、これもアウトコース低めのボール球だったが湊は打ちに行ってファール。

「ワンエンドワンか・・・。湊さん空振り少ないから三振取るの難しいんだよな」

面倒臭そうに呟くと次のサインを出す。まきはここまで一度も首を横に振っていない。

ようやくインコースにボールが行くが、これはボールになるストレート。バッティングカウントにして箕輪は立ち上がり、右手のひとさし指だけを出す。

そして自分の心臓を指差した後、まきをの方を指差した。それを終えると再び座り、ミットを構えた。

「決め球であるこの球をこのタイミングで投げるのには何か訳があるんですね。分かりました」

アンダースローから放たれたボールはど真ん中に向かう。その時、湊にはベースの手前で止まったように見えた。

スイングに行くがボールはバットをあざ笑うかのように変化を始め、箕輪のミットに収まる。


ストラーイク、ツー


『バッテリー、ここで決め球のウィンガルボールを投げてきました。箕輪のリードに滅多に空振りをしない湊が空振りしてしまいました』

バッターにとって止まったように見えてから落ち始めるまきの決め球であるウィンガルボール。

もちろん止まって見えるのは捕球するキャッチャーも例外ではない。

ボールに目が行き、ほとんどの選手が取れない中で箕輪だけがこのボールを捕球する事が出来る。

それが箕輪がリリーフ専用捕手としてやっている一番の理由でもあった。

「ここでウィンガルボールだと?だとしたら追い込んだ次の球は一体何を投げてくるんだ」

湊の疑問は最もだ。ストレートの最高速度は不破より遅い130キロ、スローカーブはバッターを抑える為のボールじゃない。

だとすると可能性が一番高いのは・・・

「シンカーか。しかもインコース低めの際どい所だな」

湊はシンカー一本に絞ってボールを待った。だが、その期待はすぐに裏切られる。

4球目もウィンガルボールだ〜〜。よもやの連続投球に読みが外れたか、湊呆然とボールを見逃しました』

してやったりの笑みを浮かべてボールを捕球した箕輪がサードに送球してボールを回させる。この光景は開幕戦と同じだった。

4打席連続ホームランと言うタイ記録の掛かった北嶋をウィンガルボールで牛耳り、7点差を逆転する切っ掛けを作ったのはこの二人に他ならない。

ボールが一周してまきの手元に戻ってくる頃には斎藤が右打席に立っていた。

「大振りするバッターにはスローカーブでカウントを整える」

スローカーブを2球続けさせての高めのストレート、一般に釣り球と呼ばれるボールでこれも三振に仕留める。

6番の今井には低めの変化球を引っ掛けさせて三者凡退に抑え切った。それを見ていた不破は思わず舌打ちをする。

「なぜ池田さんはこいつを見ろと・・・。僕は速球を鍛えるつもりなのに」

まきが湊を三振に取ったのを始めとした光景は速球と変化球の間で揺れる不破を余計に惑わせるだけだった。

「まきちゃん、これでこの試合勝ったな」

「まだ味方は0点ですよ?」

ベンチに戻り、まきは頭を軽く叩かれながら言うが箕輪は意に介さない。

「0点だろうと勝利の女神が投げた以上はこの試合は勝ったの。去年からそうだったでしょ?」

まきはあえて否定はしなかった。それは35試合の救援で9勝挙げた彼女自身の成績が物語っていた。

なぜか彼女が負け試合で投げると例えどんなにチームが打っていなくても結果的に逆転勝ちをする。

まるで先発した清水とは逆のジンクスがあるかのようだった。そんな会話がされてる内に先頭バッターのベニーがランナーとして出る。

フランコ続け〜〜。ランナー溜めろーー

だがフランコは2球目を打ち上げセンターフライ。ベニーも当然のように動けない。

続く今江の打球はセカンドゴロ、ゲッツーだと思われたが森坂がボールをジャッグルして

どちらにも投げられず1,2塁とチャンスが広がり打席には守備から出場している箕輪が入った。

「俺が打たなきゃまきちゃんのジンクスが止まっちまう。死んでもヒットにしてやる」

決意を胸に日本人には珍しいクラウチングに構えた。

「星野さん、このバッターは見かけに寄らず飛ばしてきます。初球は慎重に様子を見て外角にストレートを外しましょう」

箕輪は悠然とボールを見逃す。まるでその球が外れる事が分かっていたかのようだった。

2球目に投げたカーブを思い切り引っ張り、レフトスタンドにブチ込もうとしたがバットに当たらず空振りしてしまう。

「今井・・・次の球は?」

「ここでシュートです。しかも内角のボールゾーンに投げて下さい。箕輪は我々がストライクを欲しがってストレートを投げたと勘違いします」

その予想は当たった。箕輪はストレートを打つつもりでシュートをスイングした。差し込まれた打球は湊とクロードの守る三遊間に高く跳ねた。

「待って取るのでは遅すぎる。ジャンピングキャッチしてから空中で送球するしかない」

湊は決断するとジャンプする。そのままファーストに送球したが箕輪が駆け抜けるのが早かった。

駆け抜けて勢いでヘルメットが飛んで地毛の黒髪にオレンジ色に染めて混ぜたような髪が顕になるが、

気にも留めず一塁側に向かってガッツポーズを見せた。ベンチではその大げさなリアクションに苦笑いを浮かべている。

満塁になって喜んだのも束の間、代田がライトフライに倒れた。ワンアウトだった為にウイングスが浅い守備を引いていたのでタッチアップは不可能だ。

「9番ショート小坂、背番号1」

遂にウイングスは満塁と言うこの試合最大とも言うべき難所を凌ぎ切った。昨年の小坂はここ数年で最低の成績を残した。

よしんばヒットを打ててもシングル止まりで大量失点には繋がらない。それだけで抑える実力が広島のエースだった星野にはあった。

今井の要求した初球は低目へのフォークだったが、星野は投げた瞬間にすっぽ抜けて高めへの棒球になるのが分かった。

「まぁ、それでも大事にはならんじゃろ」

楽観視していたが、小坂はこれを思い切り振った。打球はレフトスタンドに飛んで行く。風はいつのまにかレフトに向かって吹いていた。









『打球は・・・打球は・・・強風が吹く千葉マリンの上空に舞い上がっている。風に乗って、風に乗って入った〜。

同点ホームランは小坂のバット!グランドスラムで試合を一気に振り出しに戻しました〜〜

全員が呆然とレフトスタンドを見ていた。当の小坂はベンチに戻って手荒い祝福を皆から受けている。

動揺を隠しきれないバッテリーにトップの佐藤壮に打席が回ってきた。打席に入ると佐藤壮は目を瞑った。

それを今井は不思議に思ったが、構わず星野にインコース低目へのシュートを要求する。

放たれたボールが風を切っていく。その音を聴力を最大にまで研ぎ澄ました佐藤壮が捉える。

「この音はシュート。風が教えてくれる・・・全ての球の軌道を!

真芯に当たったような快音を残して打球が再び上空に舞い上がった。

また行った〜〜。これは文句無し〜!2者連続となる勝ち越しホームランがセンターバックスクリーンに飛び込んで行った〜〜

佐藤壮は“風の申し子”と呼ばれる。幼い頃から漁船に乗せられ、黒潮や鳴門海峡で培った能力、それが風で球種を読む事だった。

風にさえ聞けば風は答える。それは徳島の高校から千葉に行っても変わらない。

むしろ、風の強い千葉マリンは彼の能力を更に強力なものにしてくれた。後は彼自身がその期待に応えるだけだ。

ようやく我に帰った龍堂は投手交代を告げた。もし同点の状況で佐藤壮に池田か不破を当てていればこの勝ち越しホームランは無かったかもしれない。

しかし、小坂に打たれた同点ホームランが彼らの決断を一瞬遅らせ、更に佐藤壮の風読みがそれを致命的なものにしてしまったのだ。

福士が西岡を打ち取って長い7回の裏の守りを終わらせたが、一挙5失点で逆転を許してしまった。









「勝って終盤迎えればこっちのもんだ。この試合貰ったぞ!

勢いに任せてロッテの選手が守備に就く。そしてバレンタインもベンチを飛び出して交代を告げる。

「マリーンズピッチャーの交替をお知らせします。伊達まきに代わりまして金英雲、ピッチャーは金英雲 背番号19」

するとライトスタンドから一斉に黄色い声援が上がる。もっとも若者が発するライトイエローではなく、中年が発しそうな濃くて汚い感じの黄色だ。

「よっしゃ、んじゃヨン様今日もビシッと頼むよ。せっかく付いたまきちゃんの勝ち投手の権利を消したくないからな」

ヨン様と言う言葉に露骨な嫌顔を見せて金英雲―――キム・ヨンウンはセットポジションに構えて箕輪のサインを待った。

「俺をあんな奴と一緒にすんなって。どっちかと言えば冬ソナより美しき日々、パク・ヨンハのヨン様にしてくれよ」

そんな野球に関係ないどうでも良い事を考えていた金英雲は真坂から始まる下位打線を難なく三者凡退に抑える。

ウイングスは8回に池田を投入し、これ以上の失点を防ぐ。そして迎えた最終回のロッテのマウンドには幕張の防波堤、小林雅英が立つ。









『マリーンズはここまで先発の清水直から伊達まき、幕張のヨン様こと金英雲と繋いで最後を締めるのはやはり小林雅です』

しかしウイングスもトップのクロードから始まる打順だ。守護神言えども気は抜けない。

その時だった、今まで千葉マリンに吹き荒れていた強風がピタリと止んだ。

「風が止んだか、下手に追い風になるよりはマシだな。小林さんまずはこれで」

小林雅が頷いたシュートがクロードから逃げるように変化していく。

クロードはこれを見送ってワンストライク、次はストレートだったがこれも見送りツーナッシングに追い込まれる。

「狙うのは高速スライダーネ」

しかし、箕輪は小林雅の決め球とも言うべき高速スライダーを一球たりとも見せる事無く最後もストレートで見逃し三振に切って取った。

続く亮太郎も速球で押してショートフライに抑える。

ツーアウトになって打席には小金井、もしランナーとして出ると次は昨年の対小林雅打率が8割近くを誇る湊に回る。

「ここまでの決め球は全てストレートだ。だとしたらここは高速スライダーに狙いを絞るか」

小金井の予想とは裏腹に箕輪と小林雅はストレートで入った。2球目もシュートでストライクを取って早くも追い込んでしまう。

「高速スライダーを使わないつもりか?だが、このバッテリーならあり得る・・・」

小金井はあくまでも高速スライダーに狙いを絞る。そして小林雅が投じた3球目は内角へのシュートだった。

小金井の左足が上がる。一本足は待っていたかのようにそれを捉える。


キーン!


と言う音とともに打球はレフトを守るベニーの所へ飛んで行く。 レフトフェンスに直撃した打球を拾って中継に送球する頃には小金井が二塁に滑り込んでいた。

「内角ならシュート、外角なら高速スライダーに狙いを変えて良かった。これで同点のチャンスになった」

龍堂はセカンドランナーを小金井に代えてハヤテを代走として送り込む。同点のピンチに内野陣と投手コーチがマウンドに集まる。

「監督の指示は敬遠だ。ここは相性を考えれば当然だな」

守備位置に散った後、箕輪は立ち上がって小林雅は大きくボールを外す。湊は一塁に歩いて三塁以外の塁が埋まる。

「今日もホームラン打ったるか〜〜って・・・おいおい!

斎藤が打席に回った途端、千葉マリンに強風が吹いてきた。

まるで風が意思を持ち、マリーンズの味方をするかのように風速18mがセンターからホームベースに強烈に吹き付けている。

「小林さん、これは存外の味方です。俺らにとっての追い風は球速が増しますからストレートで押しましょう」

しかし、それは斎藤も狙っている球だ。だが小林雅が丁寧に投げてくれれば打たれる事はないと箕輪は思っていた。

「まきちゃんの為にも打たれる訳に行かないしね」

呟いてミットを構える。その初球を斎藤が狙った。球速に押されて打球は右中間、佐藤壮と代田の中間に落ちた。

代田が拾ってセカンドの西岡に中継しようとした時、右から声が聞こえた。

代田、俺がランナーを刺す!ボールを下さい

ハヤテがサードを回ろうとしている。最初は驚いた代田だったが、一刻を争う事態にボールを佐藤壮に預けた。

誰もホームには入れさせない!絶対にだ!!

佐藤壮は右手にはめていたはずのグラブを外していた。そしてボールをその右手で送球する。

ボールは左で送球した時より以上に早いスピードで西岡の頭上を、小林雅のグラブを無視して通過する。

新幹線にも似たスピードは箕輪がホームベースに覆い被せていたキャッチャーミットに寸分の狂いも無く収まった。




アウト、ゲームセット!


審判の右手が高く上がる。チーム一のスピードを誇るはずのハヤテはホームベースに触る事無くアウトにされてしまった。

こ、これが佐藤壮の真の強肩!ツインカルバリンの本領!!

俊足のハヤテすらホームに辿り着かせずにマリーンズが首位攻防戦で逆転勝利を収めました』

箕輪を先頭にマリーンズの選手がベンチに戻ってくる。

普通なら小林に渡すはずのウイニングボールを渡さずにパクったままの箕輪はまきを探すとそれを手渡した。

「そんじゃ今季初勝利のボール、確かに渡したからな」

それだけ言うと箕輪は道具の片付けを始める。ヒーローインタビューには決勝ホームラン&スーパープレーの佐藤壮が呼ばれていた。









5月5日


『4月まさかまさかの首位に立ったウイングス、子供の日である今日も日本ハム相手に勝利を収めました』

ウイングスは龍堂の選手起用が当たったり、湊や都を始めとする移籍選手の活躍もあってか4月は首位になっていた。

『明日からの交流戦、ウイングスはドラゴンズともう一つのサザンクローサーは巨人と対戦します』

それぞれ草薙球場と東京ドームのナイトゲームとして試合が行われる。

「ウイングスか・・・。待ってろ、全てを否定してやるよ。俺様に当たったのを不運に思いな」

いつものように高笑いする友光。確実に血の雨が降ろうとしていた。




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