第36話
蒼藍の自然児





その瞬間、柚木の脳内では確実に号砲が鳴っていた。

斎藤さん!

森坂から聞こえた声を無視した柚木は斎藤の脇をさっさと通過する。一二塁間の中間にいた森坂を無視して進んだ時点で既にトップスピードに乗っていた。

ミスター斎藤、ミーじゃない!ミスター湊にボールを投げろ!!

柚木が森坂の代わりにセカンドベースに入っていたクロードとオサラバする。ようやく斎藤が柚木の暴走に気付いてボールをサードに送る。

ここを通す訳には!

グラブにボールを入れた湊が柚木を待ち受ける。だが、当の本人はそれすら意に介さない。

逆にこの試練にワクワクしている感じすらあった。それは最早人間と言うより動物の本能に近い。文字通り、蒼き自然児と化した柚木が言う。

「湊くん、ちゃんと見極めないと君でも置いて行っちゃうよ〜〜」

柚木の右足に重心が掛かる。それに目敏く湊が気付いた。

「右足に重心と言う事は・・・ステップを使って左足から抜くつもりか!」

湊も自分の右側を塞ぐように移動した。そして柚木は湊の予想通りに右足で地面を蹴ってステップする。

だが次の瞬間、湊は我が目を疑った。柚木はステップの着地と同時に今度は左足に重心を掛けていた。

再度のステップ。まさか二段ステップとは誰もが思わなかった。柚木は湊を風のように置いて行くとサードベースすら路傍の石の如く蹴ってホームに向かう。

もちろんサードコーチは最初から両手を広げて進むなの意思表示をしているが、今の柚木にはそれが目に入らなかった。

今井、頼んだ!

湊がすぐさまホームに送球する。幸運な事に柚木がホームに滑り込む前にボールはキャッチャーミットに到達した。

ガッチリとレガースでホームベースをブロックする。そうしていると柚木がグランド上に現れたハリケーンを思わせつつも突入してきた。

「むぅ・・・。あれだけ隙間無くホームを死守されてるとちょっち難しいかな?」

そんな考えが頭を過ぎったがすぐに振り払い、委細構わずホームを狙う。

「久しぶりにハーフムーンスライディングでもしようっと」

それはあかつき大付属所属時代にキャプテンであった岩井から危険すぎるとして封印を余儀なくされた。

やれば絶対セーフになる必殺技を柚木は一年に数回の割合でプロ入り後もやっていた。

「今井さん、上手く嵌ってくれないと大怪我しちゃうよ」

そう言って柚木はヘッドスライディングを敢行する。だが、明らかにタイミングが速すぎる。今井もチャンスとばかりに当然のようにタッチしに行く。

よっし!嵌ってくれた。これで・・・頂き!

右手で地面を押さえ、ブレーキにする。そして次の瞬間、両手を使って再加速をして瞬間的に最速状態に戻る。

更にタッチをしに来た今井の眼前で柚木は廻り込む。

何!?消えた?

今井からしてみればそう見えただろう。柚木は大きな半円を描きながらキャッチャーの背後に廻り込んでいたのだ。

タッチに行って前のめりになってガラ空きになった後方でホームベースにタッチした。

キャッチャーを目の前にしての緊急停止と最速への再加速、そしてまるで半月を描くように大回りして滑り込む―――それが柚木のハーフムーンスライディング。

一歩間違えばキャッチャーと激突して共倒れになりかねない大技である。

だからこそ身体が充分に完成されておらず、発展途上にあった高校時代は封印をされていたのだが。


セーフ!


審判のコールを聞いた柚木はベース上でガッツポーズをするとすぐさまベンチに戻って行く。ベンチでかなり手荒い祝福を受けている。

「今の記録は何だ柚木、3つの盗塁か?」

「一人だけ活躍するなよ。今日だけでもう5盗塁じゃないか」

1試合における最多盗塁数かつての日本記録は1952年に名古屋の山崎善行が大洋とのダブルヘッダーの二試合目に、

1989年に広島の正田耕三が中日戦で達成した6個であったが、既にこの柚木がルーキーイヤーに10個と言う途轍もない更新数で塗り替えていた。

「でも日本記録にはまだ半分ですから」

自分で作ったくせにと再び手荒い祝福で突っ込まれている柚木だった。

「ま、あそこまでやられると逆に清々しいな」

「湊さん、それ本気で言ってるんですか?」

マウンドに集まった内野陣の中で葉山が湊を睨みつけていた。

「小細工して止まる程度の足ならとっくに城島か金城が止めてるよ」

「それもそうですね・・・」

全員がスコアボードを見る。得点差は5点、しかも自分たちは一点も入っていない所かパーフェクトに抑えられている。

「取り合えずここを抑えて次の回だ。俺に廻してくれればあのフォークは絶対打てる」

あの湊が断言するからには余程の自信があるのだと他の選手たちは思い、守備位置に散って行く。葉山もその後は何とか追加点を防いだ。









そして4回の表はクロードから始まる。湊にさえ廻せば何とかなると言う雰囲気がチームを覆う。

まずはクロードと亮太郎が舞台を整える為に奮闘する。共に朝比奈のストレートを叩いてランナーとして出塁した。

次は小金井が追い込まれる前に変化球を引っ張りレフト前に落とし、あっという間に無死満塁と言うこれ以上無い舞台が設定された。

『さあウイングス、ノーアウト満塁で湊を迎えると言う大チャンスです。二廻り目で遂に朝比奈を捉えたのでしょうか?』

このピンチにマウンドに内野陣と投手コーチの荒木が集まる。ウイングスで一番恐い湊をこの場面では敬遠する事が出来ない。

「最悪4点までは許す。確実にアウトを拾って行け」

そう言って選手とコーチが散って行く。その間に湊は考えを纏める。

「三塁にランナーがいてもフォークを投げてくるか?いや、ストレートとその他の変化球で抑えるにも限界がある。だとすると・・・」

湊は初球から例のフォークで入って来ると読んだ。スタンドでは桜花が逆の事を考えていた。

「初球フォークは絶対に投げたらダメだ。まずはカウントを自分有利にするのが先だ」

一文字のサインに朝比奈が二度三度と首を振る。もちろんこれはハッタリで、サインが合わないように見せかけてるだけである。

「サインが合わないとなるとやはり最初はフォークだな」

その初球、湊が読んだ通りにフォークだった。見逃せばボールの判定だったが、委細構わず打ちに行く。

白球一閃、打球は朝比奈の真正面に飛んで行くピッチャーライナー。余りの打球速度に朝比奈は本能的に避けてしまった。

きゃあっ!

打球は中島と柚木の守ニ遊間を抜け、センター前に到達する。センターの赤田がバックホームする間に湊は一塁を蹴って二塁に滑り込んだ。

これで2−4になった。それよりも湊には気になる事があった。

「さっきの悲鳴はどう聞いても女性のもの。だが、辺りを見回してもそれらしき人物は・・・」

考えられる線は幾つか有る。


@誰かが惑わす為に声色を使った
A葉山か都がベンチでネズミか何かを見て悲鳴を挙げた
Bライオンズファンが打たれた時に言った
C柚木が実は本当に女だった


4番目は顔や性格を見る限りは無きにしも非ずだが、それ以外はどれもしっくり来ない。となると考えられるのは唯一つだ。

「さっすが太一くん♪察しの通りだよ」

セカンドのベースカバーに入っていた柚木が近寄るとそう言った。

「あの投手、本当は女性なのか?」

「そうだよ。ちょっとした理由があって、それを隠してるんだけどね。・・・にしても普通気付いたら驚くと思うんだけどな〜〜」

牽制球を受け取り、湊にタッチしてから話題に上がっている朝比奈に返すと柚木がそう言った。

「女性選手には・・・まぁ、慣れてるからな」

高校時代の後輩の碧海しかり、同い年で今はチームメイトの都しかり、今日先発している葉山しかりである。

どうも自分が行く先に女性選手がいてならないような気がする湊だった。

「いいな〜〜、僕らって慣れてないもん。ホラ、あかつき時代も含めて女性選手に縁が無かったしね〜〜」

側にいると際限なく喋られる気がした湊はリードを取りつつ、三塁を伺おうとした。

だが、三盗のサインが出る前に後続があっさりと抑えられ、この回の反撃は2点で終わった。ベンチに戻りながら柚木は朝比奈に耳打ちをする。

「ダメだよ。本当にやりたいならその役に徹さなきゃ。彼、さっきのピッチャーライナーで気付いちゃったよ」

湊の事を暗に示して柚木はベンチに座った。朝比奈は天井を見上げながら呟いた。

「やっぱり女って事実を隠してやり続けるのは無理なのかなぁ・・・」

しかし、すぐに思い直す。この程度で決意がぐらついては目的を達成する事は出来ない。

「いや、私がやらなくては・・・。最早残されたのは私しかいないんだから」

決意を再び固めるとチームは追加点を入れてくれる事を切に願った。









5回以降、ウイングスは朝比奈攻略の為に作戦を立ててきた。それはフォーク以外の球を出来る限りカットし続けて、フォークを多投させる作戦だった。

球数が増えればその分、疲労も蓄積される。疲労が蓄積するとボールがすっぽ抜けしやすくなる。すっぽ抜けが多くなれば失投も自然的に増える。

ましてや朝比奈はフォークを決め球にする投手だ。フォークが落ち切らなかった時の恐怖は朝比奈自身が一番知っているだろう。

「こう言ったやり方に余り気乗りはしないがな」

「せやかて、太一しかまともにミート出来ひんのやさかい仕方ないやろ。相手が疲れるん待つ以外に方法があるんなら教えて欲しいわ」

5回裏の守備に就こうとする時に打てないチームを嘆いた湊だったが、亮太郎に横槍を入れられる。

5番の和田からの打線も難なく抑えて6回の攻撃を迎える。ウイングスは2番から始まり、湊に続く絶好の打順と言えた。

『小金井、ツーナッシングから4球粘った末にサードゴロに終わりました。二死ランナー無しで4番の湊が打席に入ります』

作戦を変えた5回と6回だけで朝比奈に35球も投げさせていた。球数の合計数が100に近づこうとしているのに伊東には投手交代を告げる気配は無い。

「これも全て朝比奈自身が言い出したことだからな」

それでも一応は、と言う気持ちで荒木投手コーチにブルペンの様子をたずねていた。

「ランナー無しだが、湊から三振を取る事に意義が有るんだ。朝比奈、何としても三振にして見せろ!俺のフォークで」

スタンドで朝比奈を見つめる桜花には彼女と初めて出会った時の事が鮮明に思い出されている。

「全ては俺が原因か・・・」

溜め息を吐く桜花の目の前で朝比奈が湊に対して初球を放っていた。




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