三塁側ベンチの屋根に座り込んでいる彼は不機嫌だった。
5人のレギュラーと先発3人、セットアッパーにリリーフエースまで揃えているにも関わらず、点数は9―0である。
確かに不機嫌ではあったが、余裕でもあった。
「切り札はまだ隠してる訳だし、経営にも言える事だけど、不測の事態は付き物だしね」
オーナー政明はニヤリと笑うと屋根から顔を真下のベンチに向け、覗き込む。
「キャプテン、キャプテン」
守備に向かう湊を呼び止める。
「何とか半分。4点位は返して。それだけ返せば後はこっちで出来るから」
意味深な発言をして守備に送り出した。
二回表の白組の攻撃は本調子を取り戻した星野が三者凡退に抑える。その裏、湊から始まる紅組の攻撃で不破はいきなり驚くべき行動を取った。
キャッチャーの原田を立たせるように指示を出した。それを見て原田は慌ててタイムを取るとマウンドに向かう。
釣られて斉藤・森坂・クロード・相羽も寄って来た。
「何で敬遠する必要がある!みすみすノーアウトのランナーを出すつもりか?」
「確率の問題だ。湊さんが打つとチームが乗る、プラスアルファの力が加わる。それはお前等だって去年一緒にプレーしてて分かってるはずだ」
そう言われると彼らに反撃の言葉はない。唯一、ルーキーである相羽を除いては。
「納得したのならさっさと守備に戻れ」
内野陣は渋々守備位置に散る。改めて原田を立たせて湊を敬遠した。
「小金井・真坂・今井と続く打順を抑えるのが大変なのは承知の上だ。
しかし、逆にここを抑えられれば湊さんの残り打席を全て敬遠しても良い。分の悪い賭だが、試す価値はある」
一度、ファーストに牽制球を投げる。斉藤からボールを貰ってロージンを触る。
「小金井はライナーバッター、今井は巧打者。三人で一番バッティングが荒いのは真坂だ。ゲッツーを打たせるなら奴しかいない」
小金井への初球、アウトローのストレートを選択した。
ストレートは9点と言う差を返すには序盤の2回と言えど、送りバントをして来ないと読んだ為、アウトローは振って来ても一本足では捉え難くする為だった。
2球目はスローカーブを同じコースに投げ込んだ。タイミングが合わないのか小金井は二球続けて見送った。
「一本足の弱点はストレートと思って変化球が来ると対応が難しい事と縦の変化に極端に付いていけない点だ。そこさえ弁えれば・・・」
3球目はインコースにボール球になるカットボールを投げた。小金井はストレートと思い、スイングして打ち上げるとサードフライに倒れた。
「・・・たった一年で良いピッチャーに成長しちゃったな。敵に回るとイヤだなあの経験は」
眺めつつ政明は呟いた。相談相手の湊も塁上にいるために話も出来ない。
「切り札は・・・流石に早いか。ここで出しても取れるのは2点だし、その後の打席をキャプテンのように敬遠されちゃ意味無いしね」
少し考えて結論を出す。
「しばらくは不破に好きにさせておこう。その方が向こうも油断しやすいはずだ」
言い終わると同時に真坂がセカンドゴロのゲッツーに倒れてチェンジになる。
次打者だった為、ネクストバッターズサークルにいた今井が急いでキャッチャー用具を付けていたのが見えたので、政明は彼に言った。
「キャプテンにピッチャー代えるように伝えて。空閑をこの回と次の回、それが終わったら左打者専用に使うように相談しといて」
今井は戻って来た湊にその旨を伝えた。何かを察した湊もそれを了承した。
『紅組、選手の交代をお知らせします。ピッチャー星野に代わりまして空閑紫陽、9番ピッチャーは空閑。背番号18』
アナウンスが告げる交代に白組も動揺する。
「いきなり空閑さん!?」
「紅組は何考えてるんだ!」
一塁側は紛糾したが、不破だけは冷静に受け止める。
「指示を出してるのは湊さんじゃないな。あの人なら最低、責任投球回は投げさせる。
この徹底的なまでに損害を抑えようとする考え方は野球人じゃない。むしろ、経営者だ。と言う事は・・・オーナーか?」
その答えは当たっていた。
「経験豊富な勝負師と財界の一角を成す経営者足るこの僕。どちらが勝つか勝負だ」
読み合いや起用で政明は不破に後れを取るつもりはなかった。
その自信はさて置き、空閑は期待に応えて8番からの打順を3人で抑えてみせた。
3回裏も不破がマウンドに向かう。中継ぎの体力を考えてもこの回が限界だろう。それは紅白両軍とも理解していた。
「クロードが出てくると厄介だ。この回に少しでも点を返させないと・・・」
守勢に回るのは真っ平御免とばかりに政明はベンチに降りてきた。
「全員集合!これから打倒不破の作戦会議を始める!」
ほとんどのメンバーの顔がキョトンとしている。
「畑違いの人間が口を出すなと言いたいのは分かる。だが、このまま彼らに好き放題させてる君達ではないだろう」
確かに彼の言う通りだ。
「具体的にはどんな作戦が?」
訊ねたある選手の問いに政明はあっさりと言い返す。
「ウム、その為にはまず今井が出ないと話にならない」
ビッと今井を指さす。
「さあ!どんな形でも良いから塁に出たまえ」
すると、2球目を打つとレフト前に運んだ。
「さて、準備は完了だ」
そう言って伊藤に送りバントのサインを出す。すんなり決まって一死二塁になる。次に代わったばかりの空閑にも送りバントのサインを出す。
これには不満も出たが、政明は「まぁまぁ、見てれば分かるよ」と宥めた。二死三塁になって打順はトップの亮太郎に戻る。
「オーナー、何がしたいんかそろそろ言うてくれんと分からんよ」
「例えば、A社がB社を乗っ取る場合に手早くやるなら株を買い占める。でも急にそんな事をしたらすぐバレるし、問題にもなる。
だから僕は敢えて向こうに乗る。相手に組し、信頼させる。向こうから株を譲ってくれるようになった所で一気に乗っ取る。それが僕のやり方だ」
かなり性質の悪いやり方だとベンチにいた誰もが思った。
「それを野球に応用する。向こうはタダ同然でツーアウト貰ったと思うだろう。
それがミソだ。更に打ち取りやすい打者が相手となれば配球も単調になる。そこが狙い目だ」
まるで名監督になったつもりでいた。
「さて・・・向こうの指揮官は今頃変な小細工でも弄してるつもりなんだろうな」
一方の不破は冷淡にそう考えていた。
「仕掛けるなら亮太郎は色んな意味で最適だ。なら・・・」
今度は子供地味た笑みを浮かべてセットポジションに入った。
「気付けよ、相羽」
いきなり振り返るとサードに牽制球を送る。ランナーの今井とともに相羽が慌ててサードに入る。
「ちょっ・・・不破先輩!急に牽制球なんて投げないで下さい」
相羽を無視して再度セットポジションを取る。
サッ!
また不破は牽制球を送るが、これもセーフだ。更にもう一回牽制する。ただし、構えだけでボールは投げていない。
「しつこいな不破の奴」
今井のボヤきに相羽も思わず反応する。
「去年からあんな感じだったんですか?」
「いや、そうではなかった。尤もシーズン終盤は今の感じに似てはいたが・・・」
どことなく相手を見透かしたような雰囲気が今の不破にはある。
「なーんか好きになれないタイプです」
「確かにな」
不破が背を向けてるのを良い事に言いたい放題の二人。だが、いきなり不破が自分達の方を見た。見たと思っていたら相羽のグラブにボールが収まっていた。
「タッチしろ!」
要領を得ない相羽に不破が叫んだ。驚いてタッチすると、帰塁出来ていない今井がアウトになる。
スリーアウト、チェンジ!
それを聞いて不破は三塁ベンチの政明に向かって、
「残念だったな。そう上手くいくモンじゃない」と言いた気な笑みを浮かべると自分達のベンチに戻る。戻るなり相羽に向かって、
「好きになれないタイプで悪かったな。勝つ為に最良な手段を取ってるだけに過ぎないのだがな」
蛙を睨む蛇のような視線を投げかけながらそう言う。
「地獄耳かよこの人・・・」
聞こえてはマズいと思い、心の中で呟いたのだが、それすら見透かす。
「相羽・・・地獄耳な先輩から命令だ。次から一番大変なショートを守れ」
ショートのクロードにピッチャー、センターの荻原にサード、レフトの白峰にセンターに入るように指示を出すと、自らはそのレフトに入る。
「結局、不破は崩せず仕舞いか・・・。ある程度の予想はしていたけどね」
この程度で崩れるようなら今季のセットアッパーを任せる訳にも行かないが。
「・・・そろそろブルペンに行くわ」
「エラい早ないか?それにこっちは負けとるんやし」
立ち上がってブルペンに向かう都と止めようとする亮太郎。
「このままで終わるはずはない。・・・そのつもりなんでしょ?太一君」
「ああ。この試合、必ず俺が変えてみせる」
都はそれを聞いて安心してブルペンに向かう。
「アテはあるんか?不破のこっちゃ、他の奴にも敬遠指示させるで?」
「そうとは限らない。状況によってはクロードは勝負するし、陣に至っては不破の指示を聞くとは思えないしな」
話してるうちに4回までの攻防が終了する。5回の守備に散る紅組。マウンドには既に三番手の葉山が上がっている。
その裏、4番の湊から始まる打順で不破の予定を大きく狂わせる事件が起きた。
「勝負する・・・だと?」
「イエス。ここでミスター湊を抑えれば完全に流れが来る」
「クロード・・・。昨年の湊さんの成績は?」
溜め息を吐いて不破が聞き返す。
「ヒット215本、ブッチ切りの首位打者アンド出塁率王ネ」
「で、お前の投手成績は?」
「3試合登板ダヨ。何せショート守備が多かったから」
理解できてない様子のクロードに不破が言う。
「投手として登板した機会が少ない奴が天才ヒッターを抑えられるとでも?」
全くの正論だ。抑える確率は極端に低いし、抑えたとしてもそれはマグレだ。
「ミスター不破、君の好きな分の悪い賭だネ」
「冗談言うな。それをして良いのは俺だけだ」
敬遠を指示して不破はレフトに向かった。
「あれだけ釘を刺しても勝負するんだろうがな」
半ば諦めている不破だった。その言葉は的中し、クロードは湊との勝負を選んだ。
ブーメランスライダーで2―0と追い込むものの、湊はそこからファール打ちで粘ってみせる。
「ブーメランスライダーは確かに良い球だ。だが、昨季3試合しか登板してないせいで威力は格段に落ちている!」
カキーン!
打球は森坂の頭を越えるシングルヒット。湊のヒットで盛り上がる三塁ベンチ。逆に盛り下がる白組。
レフトにいる不破は傍観者気取りでフェンスに寄りかかっている。その勢いを駆るべく、小金井が鋭いスイングをしながら打席に入る。
「俺ならブーメランスライダーをショートに打たせてゲッツーを狙うが・・・」
不破の予想とは正反対にクロードはほぼ変化しないシュートを投げ込む。
当然のように当てられるが、打球はボテボテながらもピッチャー・セカンド・ファーストの中間に転がる。
「ミーが捕る!」
「あ〜!退け退け、ストップだストーップ!」
森坂は最初からファーストベースに入ってるが、クロードと斉藤だけが打球を追っている。どちらも止まらない。と、言う事は・・・
ドカーン!
案の定、両者は激突した。その間に次の塁を狙おうと湊と小金井が窺うが原田がボールを抑え、阻止する。
「担架だ担架!」
斉藤は無傷だが、巨漢と激突したクロードは意識が飛んでいる。不測の事態に不破も重たい足取りでマウンドに歩く。
「・・・こんな事態になる可能性があるから忠告したんだがな」
「それよりどうするんですか?代わりのピッチャー」
相羽の質問に不破は答えられない。厳密に言えば答えたくはなかった。
「終盤2イニングスを任せる陣は動かしたくない。かと言って俺がまた投げる訳にも行かない。さて、どうするか・・・」
悩んだ末、出したくない答えを出す。
「石丸、すぐに肩を作れ」
現状で採れる最良はノーコンピッチャーをマウンドに上げる事だった。
「無死一、二塁のピンチに投げてみないと分からないルーキーには荷が重い。多少なりともプロの舞台を経験してる方がマシだ」
不破が結論付けた理由がそれだ。マウンドに登る石丸を相手に不破は言う。
「ストライクは多くは望まない。最悪、5・6・7回を9失点以内で投げてくれればそれで良い」
不安を抱えたまま、レフトに戻った。案の定、フォアボールを連発する。
更に真ん中よりに甘く入った球を痛打されてタイムリーを浴びる。不破の所に打球が来たのは一度や二度ではなかった。
キーン!
今度は不破の頭上を越えて行く。打者一巡して戻って来た湊にホームランが生まれ、この回一挙に5点を失った。
「人が稼いだハンデを一瞬にしてパーにする才能だけは褒めてやる」
石丸を皮肉ると頭を掻きつつ、奥に座っていた陣を呼び出す。
「何球でMAX状態に持っていける」
「え?」
「8回からの予定だったがそうは行かなくなった」
二人の視線が三塁側のブルペンに移る。
「負けていてもあの人は肩を作る。それは逆転を信じてるからだ」
「あの人・・・都先輩ですね」
無言で不破が頷く。
「分の悪い賭けにはなるがお前と心中するしかない。・・・頼むぞ」
頷き返して陣は自分達のブルペンに走って行った。
「陣の早期投入だけは避けたい所だが・・・」
淡泊な攻撃で休憩する暇もなくレフトの守備に戻る。
6回も石丸が続投したが1点を失う。その光景を見て政明の笑いは止まらない。
「ふっふっふ。遂に貯金を遣い潰し始めたね。相手投手が不破じゃないのが残念だけど予定は修正出来た。9―6の三点差なら切り札が使える」
そう言うと一旦ベンチ奥へと引き下がった。
相変わらず右打者には葉山、左打者に空閑の継投を打ち崩せずにいる。
7回裏、不破は決断した。点が入らない以上は持ちうる差で逃げるしかない。
その為にはプロ経験のあるノーコンより、自分と同じ甲子園優勝を経験している陣の方が逃げ切れる確率は高いと踏んだ。
1点を取られて尚も一死一、三塁で7番の今井と言うタイミングでピッチャー交代を告げた。
「このマウンドにはもうお前以外誰も上がらない。ピンチには違いないが、ここを抑えればこの試合は乗り切れる」
「了解です」
視線を交わして不破と陣はそれぞれの持ち場に着く。
「肩も肘も問題ない。後は・・・」
起用に応えるだけだ。キャッチャーが構えた外角高めにストレートを投げた。
「話の通りだな」
今井が悠然と見送ったのは理由がある。紅組の中で陣と間近に接触してるのは政明のみ。
その本人から、「実兄の岩井大輔とは正反対の速球派」と、聞かされていたからだった。
2球目は内角低めにストレート。これをカットしてファールにする。
「やはりドロップカーブやスクリューと言った類の変化球は捕球しにくい分、キャッチャーも要求しないか」
不破が呟く。今の自分なら要求を無視して落ちる変化球を投げるだろう。
「速球派と相手が思いこんでいるなら打ち取る方法はある。肝心なのはそれに陣が気付いてるかどうかだ」
陣はセットポジションから投げた。真ん中低めに行ったボールは軌道を変える。
「何っ!?」
ストレートに似せた高速スライダー。それが不破の言う打ち取る方法だ。三振に仕留めてツーアウト。
すると、そこまで来て姿を消していた政明が現れ、いきなり代打を告げた。
「審判、代打」
指さした先に人がいた。それもクロードのような金髪碧眼ではなく、紫色の髪にアメジストの瞳をした外国人だった。
「・・・・」
何も言わずに打席に入る。得体の知れない悪寒を感じて陣は間を外す。
「嫌な予感がする。普通に投げれば打たれる」
そう直感した。
「ライトニングショットか・・・」
投げるとしたらそれしかない。だが、不安もある。その球がこの状況下、そして今の自分が投げれるかどうかだ。
「それでも・・・やるしかない!」
全力を出す為に思い切って振り被る。しかし、投じられたのは何の変哲もないストレートだ。
「しまっ・・・」
既に相手はスイングに入っている。次の瞬間、打球はバックスクリーンに直撃した。
「・・・」
感情の一片も出さずに打球を見届け、歩き出すと小さく呟いた。
「・・・ミッションコンプリート」
ホームイン
それは不破の逃げ切り策を粉々に打ち壊す逆転のホームインだった。