「表情や態度は嘘を吐けても、心音だけは誤魔化す事は出来ない」
自分で確かにそう言った。目の前にいる投手も例外ではないはずだ。少なくとも最初の打席に入るまではそう思っていた。
「わ、分からない・・・。心音が聴こえても投げる球が分からない」
実弟を打った事で多少は舐めて掛かっていたのも事実。しかし、現実はど真ん中のストレートを見送るしか出来る事がない。
「幾ら妖しくても所詮、童は童。高校を出たばかりのガキだ」
2球目もど真ん中のストレートを投げる。天はこれもまた見送った。
「妖童では魔王に勝てない事、その身に刻め!」
最後もど真ん中。三振だけはするまいと当てに行く、バットに掠る事すら許さずに憐のミットに収まる。
「三球三振・・・」
「それに全てど真ん中とは恐れ入るわね。あなたの兄さん」
二人の姿を見受けた憐が手を振るが無視する。岩井の潰すと言った通り、それ以後の天のリードは三振の影響を受けて狂う。
回を重ねる度に失点を増やし、5回表の守備で早くもベンチに退げられてしまった。
「残り5イニングで8点・・・岩井さん相手には逆転不可能な数字ね」
現時点での岩井の防御率は1点台。成実の言った事は間違いじゃない。
「でも、気になる」
「何が?」
指折り数えている陣に成実は訊ねる。
「三振数。12人中10人も三振してるこのペースなら・・・」
「私の記録が抜かれる・・・。だったらそれは多分、私のせい」
元来、岩井は奪三振マシーンではない。
投げる変化球の全てが他投手にとっては決め球クラスとは言え、基本的に打たせて取る投手だ。
なのに奪三振が多いのはリードしているキャッチャーに問題があるのだろう。
「先輩は・・・そう言う人だから」
成実は席を立つ。どことなく哀しい瞳を見せながら。
「私が記録を作ったから・・・。野球を嫌ってる私が記録を作ってしまったから・・・。それを消したいだけ」
「そうかなぁ・・・。たまたま多かったからついでに記録を狙ってるだけな気がする」
怪訝そうに言うが、彼女は「何も分かっちゃいない」的な視線を送る。
「そろそろ帰る。元々はここに来れば良かっただけだし」
彼女は振り向き様、陣に問掛けた。
「ねぇ・・・一つ聞かせて。あなたは野球が好き?どんなに頑張ってもあなたには兄の影が付いてくる。
永遠に岩井大輔の弟としか呼ばれない。それでも好きなの?」
「僕は・・・」
唐突な質問に言い淀む陣の答えを彼女は知っている。
「私は野球が嫌い。野球は私から祖父を奪い、父を変えた。全てを亡くした私が野球をしてるのは野球に復讐する為」
「・・・!」
「あなたは私と同じで野球が嫌い。心の何処かでは野球を嫌ってるの」
否定したくても言葉が出ない。呟く彼女は余りにも哀し過ぎるから。
「幾ら野球をしても兄には絶対に追い付けない。だから兄さんを嫌うしか・・・」
「違う!僕は野球も兄ちゃんも好きだ。尊敬する選手だとも思ってる!!」
陣も立ち上がり、彼女を追いかける。
「違わない。尊敬出来る選手とは思っていても、尊敬出来る兄とは思ってない」
「なっ・・・」
声が歓声に掻き消される。どうやら福留にホームランが生まれたようだ。
「僕は・・・僕はそれでも野球は好きだ!例え、岩井陣として認められなくても」
成実の口元が僅かに緩んだ。まるでウサギを見付けたライオンのように。
「そう・・・。なら、証明して」
「えっ?」
「交流戦の終わった直後の試合で勝ってみせてよ。私の目の前で」
ウイングスは交流戦終了後に楽天の試合が組まれてる。無論、エース水野と投げ合いになる可能性は十分に高い。
「分かった。相手が水野先輩だったとしても勝ってみせる」
勝機はどちらかと言えば低い。それでもここまで言われてやらない訳には行かない。
「楽しみにしてるから・・・」
去って行く成実、立ち尽くす陣。後ろでは中日が10点目を入れている。
二人のやり取りを遥か後方の出口で壁に寄りかかるように見ていた人物の元に成実が歩いてくる。
「少し・・・喋り過ぎだな」
「申し訳ありません」
謝るが相手の男は許していない素振りだ。
「種は蒔けたか?」
「はい。彼は上手く乗って来ました」
そうか、と頷いて笑みを溢す。
「一族の復讐を果たすには岩井の血は邪魔でしかない。まぁ、それでも奴は白鷲に沈められるがな」
「白鷲・・・柳瀬僚ですか」
楽天のクリーンアップの一角を担う選手の名を出す。
「そうだ。それでも大望成就にはお前の働きが一番重要になって来る。あのじゃじゃ馬を上手く利用しろ」
男の言葉にコクンと頷いた。
「分かりました・・・父さん」
成実のに父と呼ばれた彼は、彼女をドームから連れ出した。
「ちょっとー!掻き回してもダメ、走者一掃のタイムリーを打ってもダメって・・・。師匠、鬼ですか!!」
正確には鬼ではなく魔王だ。岩井は地団駄を踏む憐を手で追い払う。
「こうなりゃ本気でホームラン狙います!」
打席に入り、バットをジッと見てホームランを打たせてくれと神に祈る。いつもやってる江藤智のフォームだ。
「せめて余計な失点は防ぐアルヨ」
対するソフトバンクの三番手は黄永統。得意のトライスリーは今回、カットボールを投げた。
「カットボールならカワさんので見飽きてるっつーの!」
強引なまでのスイングでレフトに持って行く。フェンスにスレスレの打球はポールの根っ子に当たった。
「ホラ、見ましたか師匠!打ってみろって言うから打ちましたよ」
大袈裟なリアクションを取ってダイヤモンドを一周する。
「やれやれ、まさか本気にして本当に打つとはな。正直と言うか、バカと言うか・・・」
憐を出迎えた後、廊下の公衆電話に向かう。
「試合が終わったら少し待ってくれないか?」
「僕は別に良いけど・・・」
電話の相手、スタンド観戦していた陣は了承した。それ以後の憐の配球は三振狙いから打たせて取るに変わる。
目的を果たした試合はさっさと終らせるに限る。結局、岩井は9回を完封。因みに奪三振数は19個であった。
ヒーローインタビューを終え、岩井は陣を誰もいなくなったロッカールームに連れて来た。
「兄さん・・・紹介したい人って?」
「あいつだ」
指差した先の人物は陣の姿を見るや、試合でも見せないスピードでこちらに来る。
「わ〜、弟さんだ〜〜。近くで見たらより一層にカ〜ワ〜イイ〜〜」
そう言って陣を抱き締める。
「髪もエメラルドグリーンに長いしっぽでキレイ〜。瞳も・・・」
「スイマセン、胸が当たってますけど・・・」
「いいの、いいの。師匠とカワイイ子が相手なら気にしてないから」
本人は気にしなくとも陣は気になって仕方ない。
「レン、それ位にしろ」
割って入った岩井が憐を引き剥がす。
「約束は果たしたんだ。帰るぞ」
「え〜、もうちょっと触らせても・・・」
「陣はオモチャじゃない」
猫掴みでロッカールームから追い出す。
「あのバカがお前に会わせろとしつこかったんでな。事故と思ってく・・・れ?」
辺りを見回すといつの間にか陣もいなくなっている。一人残されたのは逆に岩井の方だった。
「ま、いいか。陣とレンじゃ間違いが起きるはずもない」
兄は呑気にそんな事を考えていた。
「憐先輩!」
「先輩なんて呼んじゃやーよ。カワイイお姉たまで良いわよ」
追い掛けて来た陣に憐は振り向きながら言った。
「今日、あの人に逢いました」
「もしかして・・・ヒナちゃんに?」
会わせる意図は彼女にはなかった。純粋に自分を見て欲しいからチケットを送っただけだ。
「あの子が何か言ったみたいね。じゃなかったら初対面で抱きついた女性を普通は追い掛けないもの」
レンに惚れてたら別だけど。と、付け加える。
「あの人は・・・どうして野球が嫌いなのにやってるんですか!彼方は何か知ってるんでしょ!?」
「レンが知ってたら君は何が何でも聞くはず。だからレンは知らないと答えます」
それはとても自分勝手な答えだった。満面の笑みを浮かべてそう言われたら唖然とするしかない。
「他人が入り込む事情では無い。それが君に言える答えですね。でも、レンとデートしてくれたら考えます」
「ふざけないで下さい!彼女の見せた表情・・・。あんな顔をした人を僕は知らない!そして黙ってなんかいられない!!」
憐は取り付く島も無しと言う感じで両手を挙げた。
「そうですねぇ〜〜。ならこうしましょう!一打席勝負で勝ったら教えます。ただし・・・」
「ただし?」
「負けたらレンとデートして貰います」
結局それだ。この人、自分とデートしたいだけなんじゃないだろうかと陣は思った。
「対戦は6月しか残ってないのでそれまで楽しみにしてて待ってて下さい」
条件が更に上乗せされた気がするが成り行き上は仕方なかった。
「これも運命だ。受け入れないと・・・」
ちょうどその頃、中洲で先程の成実の父らしき初老の男が飲んでいた。
「去年の直接対決では水野はおろか不破にすら負けている」
ポケットから数枚の写真を取り出すとナイフで彼らを突き刺す。
「今年はそれに加えて岩井の弟、白鷲に天と厄介者が増えたな。成実に纏めて倒させるか」
コップの酒を煽り、並々と注がれる様を眺める。
「もう言い訳はさせない。我が一族の為には何が何でも勝ち続けて貰わないとな」
残った酒を飲み干して店を後にした。
「でないと、桜花知賢を成実の元にやった意味もなくなる」
彼は自分の―――いや、一族の為には何でもする。例え娘を利用してもだ。
「成実は一族の最高傑作だ。本来なら誰にも負けはせんのだよ」
夜の街に彼は消える。その瞳に憎悪を宿して。
「光は必ず闇を産む。その光が強ければ強い程、深淵な闇が出来る。闇に呑まれた一族の無念、思い知るが良い!」
その闇を知る彼は誰に言う訳でもなく叫んだ。